ちょうだい(前)


ふう。小さな吐息は漏らす度、だいぶ前に飲み干したエネココアの香りが弱くなる代わりに熱っぽさを帯びていく。それに嫌でも昂ぶりを意識させられながら、プレサンスはか細い声で問い、クチナシはかすれた声で答える。

「まだ、いてもいいですか」
「ん……いいけどよ」

声のボリュームは小さいけれど、お互いすぐ横にいるからそれほど困りはしない。その上今日のポータウンは珍しくも雨に見舞われていない。だから雨音が聞こえない分、呼吸音はいやに鼓膜をざらつかせた。

久々に会えた今日。「この間の防衛戦がどうだった」とか、「ニャースたちがああしたこうした」とか、最初の数時間は積もっていた他愛もない話題でそれなりに会話はあった。だがいつしか沈黙の帳が下り、そして時々それを破るものといえばこうしたやり取りだけになってどれくらいになるだろう。その合間に何度あの部屋へ、寝室へと続くドアに目を走らせたことか。数える気はもとから無かったし、そうしていたとしてもすぐに忘れていただろうけれど。壁掛け時計は、垂れ込めた雲の向こうでお日様がとうに沈んだはずの時間を指している。ともかくそんなことを繰り返すうちに、お互いの情欲は募っていきもはや限界を迎えつつあった。

……言わなくちゃ。ちゃんと。プレサンスは潤んだ瞳をクチナシに、それから自分の左手に――彼に握られて太ももの上に置かれたままになってずいぶん経つそれに、交互に向けながら決意を固めつつあった。彼が何でもないふりをしているようで、でもできていないことにはもう気が付いているのだ。ほら、また。ゆっくりゴクリと喉を鳴らす。興奮を覚えているときの兆しだと、あの時に知ったことだ。それから、目が合うかどうかのところですぐにフイと逸らすけれど、時折隠し切れないぎらつきを湛えた視線でプレサンスをなぞるのも。

その時、くすぐるようにさり気なく親指を撫ぜられた。たったそれだけなのに、あ、思わず声が上がりそうになる。プレサンスはもじもじしながら太ももをこすり合わせた。こんなのじゃないの、もっとたくさん欲しい、もっと色んなところを……その情景を思い浮かべれば奥がきゅうんと疼く。密やかな花園に小さな泉が湧き始めているのを感じて顔を赤らめて――決めた。誘ってくれるの、もう待てないから。勇気出さなくちゃ。だって、クチナシさんが好きなんだもん。また、したいんだもん――。

なあ、頼むから拒まないでくれよ。クチナシは潤んだ目で見つめられるうちに、ふつふつと湧き上がった興奮が脳を侵していくままに任せ、そしてその誘いを今にも切り出そうとしていた。特に先ほどの、太もも同士を恥じらうようにこすり合わせるという何とも悩ましい仕草。あんなものを見せられたら、嫌でもその奥にある秘密の花園へ分け入ってしまいたくなるに決まっている。心臓がうるさく騒ぎどおしだ。何だいさっきのあれ、おじさんの理性にこうかはばつぐんだよ?喉が鳴るペースが明らかに上がっていた。邪魔な服なんて剥ぎ取って、柔肌にかぶりついてしまえたら。あの時焼き付けた、少女から女へと成長していく途中の儚い危うさを孕むボディラインを記憶の中でなぞれば、今すぐにでももう一度と言わず味わいつくしたくてたまらない。

そもそもとある思惑からあの時以来プレサンスに触れないように自制していたけれど、短くはない時間が過ぎた分、さすがに我慢が利かなくなってきたのだ。だからといって文字通り、ほんの掌サイズの体温ならいいだろうと手を握ったのが間違いだった。それでお茶を濁せるわけもなく、プレサンスの全部を堪能しなくては気が済まないのだと、ごまかしようのない欲をかえってはっきり自覚して……「その一点」は、もう自分でも驚くほどの熱を持つようになっているからには。プレサンスからおねだりしてくれんの待ちくたびれちゃってさ。もうダメなんだ、欲しいもんは欲しいんだよ。

……クチナシさんが、あんなに気持ちよくしてくれちゃったせいなんだからね。
プレサンスが可愛いのが、おじさん本気にさせてくれちゃうのが悪ぃんだぞ――?

全く知らずに同じタイミングで同じことを同じように、八つ当たり気味に心の中で呟いて。2人は揃って少しだけ深い呼吸をした。いつまでもこうしていたって時間がただ過ぎ去って行くだけで、「その時」は永遠にやっては来ないのだからと枷を解いたら。

「その、プレサンス」
「クチナシ……さん」

クチナシは自分の方を向かせようと、俯いていたプレサンスの頬に手を伸ばそうとして。彼女はその直前にやおら顔を上げていて。その状態で視線が交われば、この雰囲気の中では余計にあの時のことが浮かんでくるというもの。

ああ、あれが欲しい。クチナシには、念入りに手入れしたペルシアンの毛並みに勝るとも劣らないプレサンスの滑らかな肌の感触。プレサンスには、優しく隅々まで触れてくれたクチナシの手の感触。それぞれにフラッシュバックしてくる。ただそれだけを求めたい。いますぐ。確かに今だって触れてはいるけれど、このくらいではちっとも足りない。

――だから。

「しませんか?」
「していいか?」

回りくどい文句を口にする余裕はもう無い。一足先にプレサンスが、それに続いてクチナシが、相手をまっすぐに求める言の葉を紡いだ。

再びしばしの沈黙が降る。ただし先程までとは違って見つめ合ったまま。プレサンスの瞳の潤みが更に増す。クチナシの喉がまた、しかしこれまでよりも大きな音を立てて鳴る。四六時中雨降りの街からあまり出歩かない彼はともかく、念入りに日焼け対策をしているプレサンスは、アローラに移り住んで数年になるのに今でも割に色白なまま。だからクチナシの目と同じ色に染まっていきながら熱を持つ様子がありありと分かるのだ。

言えた。でも、やっぱり恥ずかしかった。ただクチナシさんもああ言ったっていうことは……言ったことと言われたこととをリピートしながら、プレサンスの頭の中には様々な思いが浮かんでは消えていく。

一方のクチナシは情欲に降服する寸前だった。痺れを切らして誘いをかけようとしたところに、思いがけずに恥ずかしがり屋の彼女からそう持ち掛けられては無理もない。

「驚いたねえ。プレサンスからとは……もしかして何だい、そんなにヨかったってか」

【そういうこと】なんだろ?――何をとはあえて口に出さないけれど、伝わるのを確信しながらからかうような笑みを向ける。すると一瞬の間のあと、プレサンスはコクリと頷いた。その顔は朱に染まって恥ずかしそうではあるけれど、それだけでなく、何故だか心なしか嬉しそうな、安心したような色も浮かんでいる。もちろん嫌そうにされるよりは断然良い、けれど何でまた……クチナシがそう考えていると。

「……良かった」
「ん?」

プレサンスは握られた手にぎゅうと力を込めてポツリと言った。

「……あの、はじめてのときに私のこと……嫌になっちゃったんじゃ、ないのかなって。だから、恥ずかしかった、けど。頑張って誘って、クチナシさんもそう言ってくれて……」

心のうちを零すプレサンスの声はひどく震えて、最後の方は辛うじて届いたかどうかというくらいになってしまった。



2人の言う【あの時】――初めて肌を重ねるまでは、首尾よく行ったとは言えなかった。

クチナシの自宅に招かれる回数を重ねるうち、最初の頃は日が暮れるまでだった滞在時間も段々と伸びて、ついに一晩を一緒に過ごすことになったあの夜。同じベッドに並んで寝転び少し経ったころ、間隔を空けて身を横たえていたはずの彼がいつの間にか傍にいたのだ。プレサンスの体に腕を回して抱き寄せ、そっとパジャマの裾へ手を伸ばして。

「良いか?プレサンス」

耳元でそう訊いてきた。何をとは言わなくとも、その手つきが、密着したときにプレサンスを掠めたある一点に集まるひときわ高い熱が、彼の欲することをしっかりと教えてくれていた。

とうとう、きた。そういうことについて全く無知というわけではない。クチナシが一線を越えるタイミングを探っていることは気が付いていたし、プレサンスにだって好きなひとと愛し合いたいという欲求はあった。求められたら拒むつもりは無かった。聞きかじりでうろ覚えでうっすらとしか知らないままでも、聞くだに怖くて恥ずかしくて痛そうなことが自分にできるのかという不安を必死で押し隠してはいたけれど。

ただ、結局その時は恐怖が先に立ってしまって受け入れられなかった。プレサンスが小さく「はい」と答える声は震えたが、大丈夫、大丈夫だからと彼女は自分に繰り返し言い聞かせたのに。「こっち向きな」と促されたからそれに従えば、キスをされながら、彼の手が徐々にお腹から上の方へ滑ってきて……。

だが。そこで思わずプレサンスの体がびくりと固くなった。次にカタカタ震え始めた。心の準備がまだ完全には整っていなかったのだ。その様子を見たクチナシはすぐさま「怖がらせちまって悪かった。おやすみ」と、裾を元通りに戻しプレサンスの頭を撫でてから寝入ってしまったのだ。

大好きなクチナシさんがこんなに近くにいる。なのに、応えられなかった。震えたのが声だけだったなら良かったのに。プレサンスは自分を責めながら申し訳なさでいっぱいになって、まんじりともせず夜を明かしたのだった。

こうして最初の最初は一歩を踏み出すまでにも至らなった。けれど、その後少ししてようやく想いを通じ合うことができたのだ。

「おれ、やっぱりプレサンスが好きだからよ。今すぐにとは言わねえけどいつかちゃんと覚悟ができたら欲しいのよ」

この前は受け入れられずに傷つけてしまったというのに。それでもクチナシに優しく抱きしめられながら再びそれとなく誘われたら、考える前に「今度は平気」と言う以外何ができただろう。そればかりか、いざ始めようというときになって、緊張で泣き出してあまつさえ「こわい、でもしたい」とワガママまで言ってしまったプレサンスを、彼はちゃんと気遣いながらもついに快感の絶頂へ導いてくれた。愛撫にはまだ感じる余裕が無かったし、迎え入れたときはやっぱり痛みがあった。けれどそれをほんの一瞬で消し去った、一つになった時にあの全身を駆け巡った快感。本当に、気持ちが良かった。全てが終わってもずっとまどろみながら、幸せを噛みしめた。

はじめてがクチナシさんで嬉しいな――痛みからではなく、嬉しさから涙を流してしまったほどに、プレサンスは心からそう思ったのだ。

だがあれ以来、クチナシは会っても手を伸ばしてこなくなった。プレサンスの家を訪ねたら、彼女の母が不在でも日が暮れるあたりで帰ってしまうし、自分の家に招いても「そろそろママさんが心配するぞ。送ってくよ」と、断る余地も与えずに遠回しに帰るよう促すのだ。彼女の不安は日々膨らんでやまなかった。泣いたからそういうことするのもう面倒だって思ったのかな、もう飽きられちゃったのかな……思い悩む辛い日々が続いた。勇気が無かったからこれまで躊躇していたけれど、大好きな相手だからこそちゃんと向き合わなくちゃ――そんな決意を長くかかって固めた末に、ようやく言い出せた。

「クチナシさんに……あのときは『好きだから私のことほしい』みたく言ってもらえて嬉しかったの。なのに、あれ以来して、くれないし……だから、誘ってくれないっていうことは、もう……もう、嫌いになっちゃったから、魅力が無くなったからなのかなって。不安、だった」
「んなワケねえっての。そもそももし嫌いになってたらこうして招〈よ〉んでねえよ。違うかい」
「そっか……うん、そうですよね」

そうクチナシが打ち消してやれば、プレサンスはこの世の終わりから救われたかのような表情になってほっと息を吐いた。ただ、それならそれでどうしても疑問に思うことも出てくるわけで。

「じゃあ、どうしてずっとあの時以来ずっと……?」
「誘わなかったか、ってか?もちろんプレサンスのことは変わらずに好いてるよ……でもおれからばっかりってのもどうかと思ってさ。その、なんだ、年上としてがっつくところは見せたくねえの。あと何より」

感情の起伏はさほど激しくないし、いつもなら淡々と言葉を紡げるのに。プレサンスを前にすると、揺らぎと照れとがどうしても見え隠れする。クチナシは彼女の頬に添えたままだった手を離し頭をガシガシと掻いた。男の見栄という理由もある。だがあくまでそのうちの一つにすぎない。これだけは誤解させてしまわないよう、ぎらつきは一旦引込めて続けた。

「皮肉でもなんでもなくプレサンスは優しいだろ。あんときみたく自分の気持ちにウソ吐いて、隠そうとしてでも応えようとしちゃうんじゃねえかって。で、おれはそれに舞い上がって結局無理させちまうかもしれねえなって。だから言い出すの待ってたんだけど、もう限界になったんで……つぅわけよ。しかし大事にするつもりが今度は不安にさせちゃったか。ごめんな」
「ううん、謝らないで」

プレサンスは安堵が体を包んでいくのを感じた。そうだったんだ……疑念が解けた上に、むしろ自分を思いやるがゆえだったのだと知ることができた分、なおさら嬉しかった。だからクチナシをフォローするつもりもあって、つっかえつっかえでも構わないから、もっと素直に気持ちを伝えたくなった。

「クチナシさんとしたの……すっごく、気持ちよかったんですから」
「本当にか?無理して言っちゃいねえかい?」
「そんなことない!だって、えっと、思い出しながら1人でしちゃってたもん」
「……! そうかい」
「自分から言い出してはしたないって思われちゃうかなって……でももう、すごくしたくなっちゃって、ガマンできなかったん、です」
「つまりおれもプレサンスも」
「誘ってくれるの待ってたけど、もうダメってなっちゃったってこと……」

そこで2人は顔を見合わせ一緒に吹き出した。なんだ、そういうことだったのか。誘われるのを待つばかりに、意識せずに【お預け】していたとは。

「したいことは同じなのにすれ違ってたわけか。変なところで気が合うな」
「ふふ、何だかおかしいですね。でもよかった……嫌われてるわけじゃなくて」
「何度も言わせるなっての。愛してるぜ、プレサンス」
「私も!私もクチナシさんのこと大好きっ」

「そいつは嬉しいねえ……で、だな」

そこでクチナシの声のトーンが変わり、プレサンスはゾクリと身震いした。再びぎらつきを浮かべ始めた視線を受けて、花園の泉が蜜で溢れんばかりになるのをはっきりと感じた。彼は欲望をもう隠さないことに決めたのだ。大好きな相手に求められることが、こんなにも悦びを与えてくれることだなんて――。

「どうしたい?いや」

訊きこそしたクチナシだけれど、答えを待つ気など本当は無かった。

「頼む、今すぐしたいって言ってくれ。生殺しもいいとこだったんだ」
「私もクチナシさん……クチナシさんが、今すぐほしいです」

体が熱い。燃えるようだ。炎と同じ色をした瞳に舐められたせいだろうか。

「よくできました、ってね」

褒めるつもりなのか髪を梳かれてまた小さく震えた。あ、だめ。髪を撫でられただけで達してしまいそうなのに、溶け合うまで取っておきたいのに。まだダメなんだから。プレサンスはそうして彼と自分を叱りながらも、ぼうっとしていく頭で考えられることといえば、ただただそのことだけ。

「素直なプレサンスにはご褒美が要るよなあ。何が欲しい?どうしてほしい?」
「ベッドでたくさん、かわいがってほしいです」
「ん。良い子だ……おいで、お姫さん」
「はい……!」

もう、遠慮なんて脱ぎ捨てて。言い終えるが早いか、急き立てられるようにソファから立ち上がり、握ったままだったからという理由からだけでなくしっとりと汗ばんでいる互いの手をしっかりと握り直して。2人はそのまま、迷いの無い足取りで寝室へと向かった。



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