世の中そんなに甘くない(前)


メレメレ島は今夜も穏やかな夜を迎えていた。夜のとばりの中をクチナシは履きなれたサンダルでビーチサイドエリアの地面を踏む。浜辺から飛んできて道路に散った砂粒を踏む度にするしゃくり、しゃくり、という音と、そのすぐ脇から聞こえる静かな波の音色は一緒に心地よく鼓膜を撫でては消えていく。そんなハーモニーを奏でる陸と海の遥か上、濃紺の澄み渡った空には、時折夜空にキラッと一筋の線を描いては消えていく流れ星。なんでも何十年に一度のなんとか座の流星群が今夜はアローラ全土で観測できるのだと、カンタイシティ乗船所でハウオリシティ行の船を待つ間に待合スペースで流れていた電光掲示板のニュースで目にした。ああそうだ、家を出る前に何とはなしに見ていたテレビのニュース番組でも天気予報士がこの流星群を引き合いに出し「恋人たちの日にロマンチックな彩りを添えてくれそうです、恋が叶うよう流れ星にお願いをするのも素敵でしょうね」とコメントしてコーナーを締めくくっていたっけ。
恋人の日に流星群、なあ。おっ今度は3連続か。時折降る流れ星を見つつ夜空のほうへ向けていた視線を戻しつつしながらハウオリシティの外れへ向かって歩いていく。アローラ全土で見られるとは言っていたものの、自宅のあるポータウンはいつもに比べれば小雨ではあったがやはり雨は雨。雨雲は流れ星なぞ知ったことかとばかりに居座って晴れる気配を少しも見せなかったので、こうして間近で見たのはメレメレ島に上陸してからだった。船でマリエシティを発ちカンタイシティを経由して、ハウオリシティのポートエリアから歩くこと十数分。この街の外れに位置する恋人のプレサンスの家へやっと到着するまであと少し。今日はバレンタインデーだ。カントーやジョウトでは、菓子会社がチョコレートを根付かせるために、女性から男性にチョコレートやチョコレート味の菓子を贈って想いを伝えようという風習を広めたのだと、かの地で生まれ育った彼女から聞いていた。事実これまでこの日には必ずチョコレートを使った手作りの美味しい菓子を貰っていたし今日のプレゼントもそうだろう。とはいえ、アローラではそういったいわばカントー・ジョウト式バレンタインは一般的ではない。せいぜいジョウトからの移民の子孫が多いマリエシティで、本場の影響を受けたとかいうハート型をした抹茶チョコレート味のマラサダをこの時期限定で売り出しているのを見かけるようになってはきた、という程度だ。
一方アローラでは、愛の告白をするという点では同じだが、主に男性から女性に何かを贈る日なのだ。プレゼントもチョコレートに限らず菓子や花束、カード、アクセサリーなどなど。雰囲気のいいレストランでの食事に誘うという形を取ることもあり、ローリングドリーマーをはじめそれぞれの島の人気のレストランはこの日は予約で満員御礼ということもザラだった。ただ、アローラ式とカントー・ジョウト式のバレンタインのどちらが優れているなどと張り合い比べたって仕方がない、いいとこどりでいこう…ということで、クチナシとプレサンスはこの日には心づくしのものを贈りあうことにしている。だから今年もバレンタインのために選び抜いたプレゼントを携え、恋人のもとへやってきたという次第だ。
――ただ。クチナシにとっては今年用意したのはただのプレゼントではない。これまで贈ったものとは全く違う意味を込めたものなのだ。今日こそは、と腹をくくったとはいえ。いつだったかの事件で突入する前でもこんなに緊張はしなかったんだがなあ…いや、今日を逃すわけにはいかねえんだ。それが入った袋の持ち手に力を込めるのと同時に自分を叱咤して、一歩また一歩と進んでいった。

そうしてプレサンスの自宅に着いた…のはいいのだが。クチナシは一人暗い玄関先で困惑した。約束の時間まで5分を切ったというのに明かりが点いていないのだ。時間を間違えたか、と時計を見たがこの時間で間違いはないはずなのに。彼女の母はだいたい家にいることが多いがこの状態では留守だろう、これでは上げてもらうこともできそうにない。今年はプレサンスがチャンピオンに就任して初めてのバレンタインだ、防衛戦が長引いているのか?いや違う、今日は一日オフのはず。この間今日の予定を訊ねた時「クチナシさんが来てくれるんだからチャンピオン業は何が何でもお休みするに決まってるじゃん!」と元気よく言っていたのだから。それなら急な用事か?通信機器を取り出してはみるがプレサンスからのメッセージは何も来ていない。すぐさまワンタッチダイヤルに登録してある彼女の電話番号にかけてみるがコール音が十数回続いただけ、愛しいあの声は聞こえてきそうにない。痺れを切らして通話を打ち切った。こうなると次によぎるのは最悪のケースだ。不慮の事故か、それとも事件に巻き込まれでもしたか?どこにいる?無事なのか?冷汗が伝いそうになった、その時だ。
「何だ?」
夜のしじまを破るには十分すぎるドドドドという音が聞こえてきた。しかもそれはこちらへ近づいてくる。驚いて後ろを振り向いて…わかった。ライドポケモンのカイリキーだ。4本腕のうち2本の腕に何やら袋をたくさんぶら下げて――そしてもう2本の腕に抱えられたのは、見間違えるはずもないプレサンス。クチナシの姿を認めてごめんなさい、と謝るように両手を合わせている。お姫さんはようやくお帰りか、ひとまず胸を撫で下ろした。大方どこかで買い物に夢中になっていたんだろう。心配をかけたことについてはよく言い聞かせておかなくては。
「よう。心配したぜ」
「ごめんなさい…」
クチナシはカイリキーから降ろしてもらったプレサンスがまっすぐに腕の中へ飛び込んでくるのを受け止めてやり、同時にほんの少し怒ったような声色で叱った。するとしゅんとして謝ったので悪いとは思っているのだろう。反省するそぶりは見えたのでこれ以上ネチネチ責めることはせずにそこまでにしておいた。無事に帰ってくるのが何よりってね。そういう意味を込めてギュッと抱きしめたあとに解放してやった。とにかく早く二人きりの時間を過ごしたいのだ。その間にカイリキーは荷物を降ろし始めていた。ライドポケモンが屋内に入ることはできないので、クチナシは家の中に運び込むのを引き受けようと紙袋のそばへ歩み寄る。
「荷物家ん中に運んでいいよな?」
「ありがと。今鍵開けるね」
が、その袋の中身を見て…
「何だ、こりゃ」
思わず本日二回目の独り言を漏らした。袋にはプレサンスの買った物が入っているとばかり思っていた。が、中身をチラと見る限りどうにも違う。何故ならその中身といえば、花束という花束、ギフト用の超高級マボサダ詰め合わせ十数箱、パンパンになった紙袋からはみ出していて数える気も起こさせないほどの枚数のカード…「あなたを愛しています」「僕の永遠の人」という愛の言葉が踊る、ゼンリョクの思いが溢れそうなほど込められた代物ばかりだったからだ。一瞬これは自分宛なのかと思ったが、プレサンスに限ってクチナシがこういうものを好まないのはよく知っているのだからそれはない。だからといって彼女は自分で自分のためにこういうものを買う性質ではないのもよく分かっているからそれも違うはず…そこまで考えて分かった。そして同時にモヤモヤしたものがあっという間に芽を出し育っていくのを嫌でも自覚しないわけにはいかなかった。これは、全部プレサンス宛だ。
「ありがとねカイリキー、助かっちゃった」
しかしプレサンスにはクチナシのこぼした声が聞こえなかったのか、ライドギアを解除する前にカイリキーに労いの言葉をかけている。すると彼は得意げにぐおお、と鳴いた。カイリキーにとってはあれしきの荷物はどうということはないのだろう。だがクチナシにとってはどうということがある、大ありだ。とはいえ重さだとかの物理的な問題ではない。では何が問題と言えば、自分以外からのプレゼントの山がそこにあるということそのものにほかならない。お前ら、おじさんの大事な恋人に何言い寄ってくれちゃってるの。クチナシはこれを捧げた数多の恋敵たちに毒づいた。確かにプレサンスは言うまでもなく魅力的だ。しかしこうして本命宛の贈り物の山に埋もれそうになる形でそれが証明されなくてもよかっただろうに。はみ出したカードから順に一枚一枚粉々にちぎってやりたいという衝動に駆られそうになるのを、自分宛ではなくプレサンス宛なのだからいくらなんでもマズいだろうとどうにか抑える。いい年をしてそんな子供じみた真似ができるものか。しかし内心では穏やかでいられるはずもない。公にしていない仲とはいえ、プレサンスを想う輩がこんなに多いことをまざまざと見せつけられてしまったのだから。

どうにもどこにも押しやれないモヤモヤを抱えながらも紙袋を持ち、プレサンスに招き入れられるまま玄関を潜り彼女の部屋へ向かう。しかし忘れてはいけない、その前に彼女の家族の一員にも一応の挨拶をする。
「邪魔するよ」
「…」
玄関を入ってすぐ、リビングのお気に入りのスペースに丸まっていたニャースに声をかけた。するとクチナシの方を見ず鳴き声も上げないまま、気だるげに尻尾を申し訳程度に持ち上げるだけの挨拶を返してきた。初対面の時にはご主人を取ったと思われたらしく今にもとびかからんばかりに激しく威嚇され、プレサンスが慌てて宥めていたものだ。あれからしばらくが経ってもまだとても友好的とはいえない。それでももう諦めはついたのか、家に上がるたび話しかければ今のように仕草で応えてくれるだけマシになったのだ。
かくしてようやく二人きりになれる空間に――プレサンスの部屋に辿り着いた。紙袋は部屋の隅に寄せておけばよし。ベッドに並んで座りひとしきりキスをして、と。ベッドを一旦離れたプレサンスは、予め机の上に用意しておいたそれを捧げ持つようにして戻ってきた。
「はい、今年はチョコクッキー!おからも使ってヘルシーにしたの。甘さも控えめだよ」
「…ありがとさん」
じゃじゃーん、という効果音を口に出しながらお待ちかねのプレゼントを渡してくるのをそっと受け取る。作る菓子の種類は毎年違うが腕の方は年を追うごとに上達している。けれど、包装だけは毎年真っ赤な包みに同じ色のリボン。いつだったかその理由を訊ねた時「大好きな人の目の色とおそろいにしたいんだもん」と照れたように答えたのが、それはもう…
だが、いつもならその時の様子を思い浮かべるだけで満足するというのに、今日ばかりはそうもいかなさそうだ。あのプレゼントは一体誰からなんだ?あの量からして一人二人ではない。プレサンスは見せつけて嫉妬させようとかそんなことを思っているわけではないはずだ、きっと。それでもどうしても気になってしまう。眉間にしわが寄りさらに目つきが険しくなっていくのを止められない。プレサンスもそんなクチナシの様子に気が付いたらしい、恐る恐る口を開いた。
「クチナシさん…怒って、る?ううん、怒ってる」
「…いや」
「うそ。私だってクチナシさんの彼女だもん、ごまかしたってわかるんだから。その目、怒ってる時の目だよ。…ね、プレゼント持ってきてくれたんでしょ?私だって楽しみにしてるんだよ、くれないの?」
「あるにはあるんだがな。でもモテモテなお姫さんに差し上げたっておじさんの選んだもんなんか霞んじまうだろうからなあ、どうすっかなあ」
「えー…」
嫉妬を抑えられない。年甲斐もなく見苦しい意地悪な言葉が口をついて出るのを止められない。それをプレサンスにぶつけてどうする、と思ったがあとの祭りだ。途端にプレサンスの顔が曇り始める。外に広がる澄んだ空とは正反対に重く沈んだ表情になってしまう。違う、そんな顔をさせたいわけでもなんでもないのに。
「もー…わけ、わかんない…せっかく会えた、のに…なんでそんな、意地悪言うの?悲しくなっちゃうよ…」
「…」
大きな目がみるみるうちに潤んで今にも滴が零れ落ちそうになるのを見て我に返った。これはどう考えなくてもクチナシが悪い。確かにプレサンスの言うとおり。せっかく恋人と会えたというのに嫉妬に駆られて喧嘩になるようなことを言うべきではなかった。贈り物を脇に置いてから立ち上がりそっと抱き寄せて――拒絶されなかっただけ、どんなにいいか――謝った。
「ごめんな。…おじさんの大事なプレサンスに言い寄る奴らがいるんだと思ってヤキモチ妬いちゃったよ。でもだからってプレサンスに当たるこたないよな。悪かったよ」
「もう言わない?」
「…ああ。ただ、あんなに色々貰ったいきさつも気になるし遅くなったのも心配なんでな。何があったかと思って焦ったんだ、教えてくれるか」
「うん…」
ベッドにもう一度座り直すよう促して、プレサンスの髪を撫で始めた。彼女を宥める時にはこうしてやるのが一番なのだ。すると効果てきめん、安心したようにクチナシの方へ寄りかかり、そのまま彼の腕の中でぽつりぽつりと話し出した。



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