招かれざる幸運


甘さがたっぷりと溶けた空気は、キッチンでじっとしているのは退屈だったのだろうか。いつしかダイニングルームへもフワフワと漂いだして、よく磨き上げられたダイニングテーブルやその上に並べられたカトラリーも――そして恋人に捧げるメニューの準備に忙しいズミをも包み込んでいた。
食器、よし。ズミはテーブルに並べられたカトラリーやティーセット一揃いに目をやり一人頷く。今の彼を友人たちが見ても驚くに違いない。優しいとは言えないいつもの目つきの中にも、かすかにではあるが穏やかな輝きを浮かべているからだ。カップやソーサーには一点のシミもない。買って来たばかりの新品だからということもあるが、念には念を、とよく磨いておいたのだ。もう何度この流れを繰り返したことか、と内心で苦笑いをしつつも、飽くことなく手抜かりはないだろうなと部屋を見渡す。料理はただそれが美味しければよいというものではない。供する空間も最高のものにしなくては、シェフとしての、そして恋人への面目も立たないではないか。
さてしかし食器ばかりに注意を向けるわけにもいかない、次は紅茶だ。茶葉も今日のメインに合うものを調達して、最高の状態で出すことができるよう入念に蒸らしている。紅茶が評判だというイッシュ地方のレストランがプロデュースしており大変な人気から手に入りにくいのだが、伝手を辿って取り寄せたのだ。蒸らし時間を測る砂時計の砂が落ちきるまでにはもう少しかかるだろう。約束の時間まではまだ余裕があるから急くようなことではない。――でも、プレサンスに早く自信作を振る舞いたいというはやる気持ちはズミの手を、心を急かしてやまないのだ。
そして忘れてはいけない、肝心要のメインの準備も大詰めだ。ダイニングからキッチンに戻ると、既に焼き上がり粗熱を取っていたスポンジ生地の載った皿を手元に引き寄せる。片手で冷蔵庫を開け、取り出したボウルから手際よく生クリームを取り塗り広げていく。仕上げにバナナを載せ、生地でくるめば――ロールケーキの完成だ。
「プレサンスを悦ばせる料理たりえるでしょうか?…いいえ、このズミとしたことが愚問でした」
会心の出来に満足しながら、そしてきっと喜んでくれるだろう愛しい相手の姿を思い浮かべながら、彼は微かに笑みさえ浮かべつつ呟いた。
しかし、だ。ズミはそのまま出来上がったものを切らずにダイニングルームへ運び出した。しかもテーブルの上には食器こそ揃っているが、ティースプーン以外のナイフやフォークといったシルバーは見当たらない。一口で食べきれるサイズであれば問題はないのだろうが、食べる人物が誰であれ到底無理そうなサイズだというのに。だがそれでも、今回ばかりは決して手抜かりではないのだ。そのわけは…。

そもそもの始まりは想いを告げた翌日のことだった。
「プレサンス、あなたを愛しています」
チャンピオンとしての実力と、それに驕らずバトルにかける真摯な姿勢。そんなところに惹かれて長いこと想い続けた彼女に、勇気を出してこの上なく飾り気の無い言葉を捧げたのだ。すると彼女は色白の頬を真っ赤に染めつつはい、と頷き受け入れてくれた。あの表情の愛らしかったこと…!食材の買い付けからリーグ本部へ戻ったズミは、いつもの仏頂面の裏でそんな幸せを密かに噛みしめつつ勝手知ったるリーグの中を歩く。心なしか足取りも自分には珍しく弾んでいる気がする。今まで料理とバトル以外のことになぞ縁が無かったしこれからもそうだろうと思っていた。なのにそれ以外の、プレサンスのことを思い浮かべるだけで浮かれたような気分になるこの変わりようは、と自分でも驚くばかりだ。ああ、彼女のことを思い出したらまた会いたくなってきた。ホロキャスターのアドレスはもちろん交換しているけれど、やはり直接顔が見たい、声が聞きたい。恋とはかくも人を変えるのか、このズミさえも――ポケモンリーグにはバトルフィールドの他にも様々の施設があるが、四天王たちがバトルの無い時の休息に使うサロンも備わっている。プレサンスはそこで過ごすのが好きでよくいるから、もしかすれば…そう考えて足を向けてみれば。
「…」
いた。空調の効いた部屋でお気に入りのチルタリス型のぬいぐるみを抱えつつ――しかし目線はズミに注がれることなくじっと一点を見ている。彼のほうはといえば髪をかき上げて見えた横顔にさえ目が引きつけられて止まず心が高鳴るというのに、恋人の方は気づきもしないようだ。途端に腹立たしくなってくる。もちろんその相手はプレサンスではなく視線の先にあるものに、だ。一体その忌々しい相手は何だというのか、プレサンスが見つめてやまないのは…あまりに集中しているのでズミも何とはなしに声をかけずに目線をやる、と。…雑誌、だと?このズミが、恋人がすぐ近くにいるというのに、あなたは何故雑誌なぞに目を奪われているのだ。ガメノデスは炎タイプの技を使えたろうか、ギャラドスもブロスターもスターミーも…いや無理か。もしもいるならば一瞬にして灰にしてやれるのだが。自分が水タイプ使いであることをこれほど悔いた瞬間は無い。
まあそういった過激にもほどがある手段は取るつもりはないにせよ、彼女の視線からそれを引きはがしてやらないことには気が済まない。何歩か部屋の奥まったところにいる彼女のそばまでたどり着き、口を開いた。
「何を読んでいるのですか」
「あっズミさんおかえりなさい!いまね、これ読んでたんです。『エホウマキ』っていうお料理の記事」
「エホウマキ…ああ、確かジョウト地方を中心に、その年に縁起の良いとされる方角を向いてエホウマキと呼ばれる料理を食すという。またその間中無言で食べなければならない、とも」
声を掛けたらプレサンスはすぐに彼の方を向き目を輝かせて迎え、読んでいた雑誌のページを差し出してきた。知らんぷりをきめこんでいたのではなく集中して読んでいたからだろう。その途端、ズミは雑誌に向けていた理不尽な憤りが収まっていくのを感じていた。彼女の瞳に自分が映される、ただそのことだけで満足するとは。わたしは自分が思う以上に彼女を想っているようだ…そう思いつつ、プレサンスが彼の方へ寄越してきた誌面を見る前に思い出すことがあった。エホウマキか、マーシュにいつか話を聞いたな。ここは料理人として料理にまつわる知識が豊富なところを見せなければ。その時に得た知識を披露しようと半ば無意識に言葉が口を突いて出るままに任せれば、プレサンスは大きな目を丸くした。
「知ってるんですか?」
「無論です。料理人ともなれば、他の地方の料理であっても一通りの知識は持っておくものですから」
「すごい!さすがズミさんですねっ」
「しかし食い入るように見ていましたね。そこまで気になるのでしたら作りますよ」
なるほど、これに興味があったのか。災い(というものではないだろうが)転じて何とやら。プレサンスは自分に注意を向けてくれたし、しかも関心を持っているそれは自分の専門分野そのものときている。ならばこれを作って恋人に喜んでもらえば…!手放しの称賛に照れが表情に出るのを隠しつつ、提案すると。
「ホントですか!決まった方向向いてひたすら食べるっていうの面白そうですよね、やってみたくて。あ、でも…」
「?」
プレサンスの顔は急に曇った。
「これノリマキってことはノリを使うんでしょ。ローリングドリーマーに行った時にオスシを色々食べたけど、私どうしてもあれだけはホントに駄目で…舌に張り付くのが我慢できないんです。あーあ、あれが甘いのならいいのになあ」
「ふむ…」
そこまで聞いた時、ズミの頭にある考えが閃いた。嫌いな物を恋人に食べさせる趣味は無い、だが料理を食べたがる彼女を諦めさせることもしたくない。それならば自分が、このズミが力になればいい話ではないか。
「なるほど。…分かりました、このズミにお任せください」
「え?」
「エホウマキといえど、最近はノリマキのみでなく同じような形の…例えばロールケーキのようなものも出て来たと聞きます。無理に苦手なものを召し上がる必要などありません。全てはプレサンスの好みのままに」
「わあー夢みたい!いいんですか!じゃあ私、ココア味の生地に生クリーム塗って、あと果物はバナナが好きだからそれも入れてくださいね」
「全く、注文の多い恋人ですね。しかと聞きましたよ」
目を輝かせて矢継ぎ早にリクエストを出す彼女が愛おしくて、その頬にそっとキスを落としつつ聞き入れて…
かくして彼はロールケーキをこしらえ、今に至るというわけである――が。

「ズミさーん!」
おかしい。何故だ。ズミは誰も答えてはくれない質問をもう何度誰にともなく投げかけたろうか、と思った。
約束の時間少し前に訪ねてきたプレサンスは、少し長めで掌が半分隠れるくらいの袖丈のハイネックセーターを着ていた。半分隠れた掌が何となくあどけなさを醸し出してはいるのだが…ズミの眼を奪ったのは――ハイネックで首が詰まった分強調された豊かな部分だった。何というか…艶っぽいのだ、とても。しかも。
「ね、早くちょうだい…?ずっとガマンしてきたの…」
「分かりました、分かりましたから早く離れなさい。準備できるものもできなくなるでしょうが」
ああ、何ということだ。確かに今日は寒い。底冷えがする。そのせいかやってきたプレサンスは火照った顔で。しかも「寒いから人肌恋しいんです!」と言うやズミにぴったりとくっついてきたのだ。だから余計に、その…ズミは途端に耳まで赤くなった。恋人にそんな気はないのかもしれない。だが何故だろう、妙に艶めいた情景を連想させられるのは…そして今日振る舞うのはロールケーキ…そういえばその中身には生クリーム…そしてバナナ…ああ、それではまるで、まるで…耳どころか全身がカッと熱くなる。恋人が自身の作った料理を食べているところを想像して劣情を催す料理人がどこにいるというのだ、この痴れ者が!痴れ者がっ!!いっそのこと、豆をばらまくとかいう風習にすればこんなことには、いやしかしプレサンスのそういった姿も捨てがたい…いや何を考えているのだわたしは!
「ねえ、ズミさんってばあ」
只々悶々と、この予想だにしなかった幸運をどう外へ追いやるべきなのかを表情を変えずにひたすら考えるズミ。しかしプレサンスはそんな彼の心中を知ることもなく、ただただ幸せを頬張る時を待ちわびるのだった。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -