おみとおしだ!(前)


冬の間は、日が照ってはいても吹く風は冷たいものだ。けれどそれは窓の外の話であって、室内あれば寒い思いをすることもない。まして今日のからりと晴れあがった、年明け間もない冬の空には雲一つ見当たらなくて、降り注ぐ日差しは何にも遮られずにショウヨウシティを――そして、プレサンスとその恋人であるザクロと同棲中の家の、広いリビングをなお暖かく満たしていた。

そんな陽だまりの中、プレサンスはこの間テレビで紹介されていたエクササイズの真っ最中だった。差し込む日差しに作られる影に映るわけではないけれど、汗が垂れて背中を伝う。普段ほとんど使わない筋肉が悲鳴を上げている。かといって止めたくはないので続けるけれど、お気に入りのスイーツのことがチラチラと頭をよぎってやまない。

ああ、こんなことしないでのんびり日向ぼっこしながら食べてたい……ただ、それはいつもならの話。こういう時期はやるって決めてるんだし。今は、っていうかザクロの大会が終わるまでお預けなんだし、何よりもうちょっとで終わるんだからね……時間、そろそろかな。

プレサンスがそう思った時、待望のタイマーがピピピと鳴り始め、エクササイズの時間が終わったことを告げる。やっと終わった、と息をふうと吐きひと心地付いた。

それから電子音を止めてソファに座ると、眼の前のタンブラーに手を伸ばす。このセットが終わったら休憩を取ろうと決めていたのだ。中身は無糖ヨーグルトをベースにしたドリンクで、イチゴとキウイとブルーベリーとオレンジ入りだ。グイッと煽るよにして飲めば、普段はアスリートの恋人でありながら運動をほとんどしない分、疲れた体と渇いた喉に染みわたるようだった。甘いものを控えているからか、フルーツの控え目で自然な甘みも普段より強く感じられる。

……でも。正直なところ物足りないのも事実なのよね、とも感じてしまう。プレサンスはスイーツをよく食べていた分、強い甘味でないと物足りなくなっているのかも、と考えた。今は封印してるからしょうがないけど……。

そう思ったところで、視界の端にちらりと見えたのは目下彼女を悩ます、いわば煩悩の元ともいえるそれ。プレサンスはあっさりと誘惑されて、気が付けば半ば操られるよに手を伸ばしていた。だって我慢だけじゃ続かないし、これが終わったら食べようとか考えてモチベーション保つのも大事だもんね、食べるんじゃなくて見るだけならいいよねザクロもそうしてるしね。

言い訳しつつタンブラーを置き、リビングテーブルの上にあるフリーペーパーをパラリと捲る――始める前に繰り返していた、ある言葉をまた呟き出しながら。

「……我慢、我慢」

今までもうこの二文字を何回繰り返したか、だけどそれでもまだ足りない。我慢、我慢。我慢、我慢……プレサンスは記事を食い入るよに見つつ、ブツブツとその一言を心に刻む呪文さながらに言い聞かせる。傍から見ればヘンな光景だろうとは思うけどなんとしても我慢、ううんでもやっぱり食べたい一回くらいこっそり……だから耐えろって言ってるでしょ私!あちこちへ勝手にジャンプする頭の中を叱りながら閉じかける。

だがそれは一瞬のことで、すぐもう一度だけとばかりにパラリと同じ箇所をめくった――見るだけなら大丈夫だもん、という二度目の言い訳も密かにしながら。

「はあ、どれもこれも美味しそう……だけどよりによって今この時期に来なくていいでしょ」

うっとりとしたため息と、少しの八つ当たりが半分混じった呟きと共に紙面に目をやる。

ショウヨウシティが発行するフリーペーパーに載っているのは、近くに新しくオープンしたばかりのカフェと、その店のケーキを紹介する特集記事だった。新進のパティシエがプロデュースするカフェでミアレシティに本店があるのだが、この度初の2号店がこの街に進出してきたのだ。大きく誌面が割かれ、何ページにもわたって色々と載っているスイーツの写真をまた眺める。

なんでも「ショウヨウ店限定商品のレアチーズケーキは、メェール牧場直送から毎朝直送のメェークルのミルクをふんだんに使用!独特な風味が人気」なのだとか。他にも、口にしなくても見ただけで濃厚だろうと想像の付くホワイトチョコレートのムースとか。はたまた、ジョウト地方から取り寄せた栗の自然な甘味が素晴らしい、と利用客がコメントを寄せているモンブランとか……どれもこれも甘い宝石のように輝かしく見える。

そんな素晴らしいカフェが近くにできたというのに、今すぐ楽しめないのはとても辛い。それでも一人だけで行ってみる、などということはとてもできない。自分だって甘いものは大好きだけど、ザクロは私以上に我慢してるんだしね…プレサンスは一人頷いた。



ザクロとプレサンスが同棲を始めて早数年。一つ屋根の下で暮らすようになって、時に喧嘩もそれはするけれど(原因のほとんどは意地っ張りなプレサンスにあるが)なんだかんだで歩み寄って仲直りして、お互いのことを思いやりつつ過ごしてきた。

そして、そんな日々の中でプレサンスが密かにしているのが、ザクロがスポーツ大会の調整に入った時は、自分もその時期に合わせて食事制限と運動をするということだった。食事制限はともかくとして、プレサンスのような普段ほとんど運動をしない一般人がプロのするトレーニングに付いていけるわけがないので、彼女がするのはごく軽いものだけれど。

プロのアスリートともなれば、大会を控えて本格的な調整に入ると、そのためのメニューに従う必要が出てくる。体力も更に付けつつ、場合によっては体重を一定に保つために食事制限を始めとした厳しい節制をしなくてはならない、といったものだ。

そして、トップクラスの選手ともなればそれは一層厳しいものとなり、当然ザクロだって例外ではない。一緒に暮らし始めて間もないころ、彼はそういった時期があることについてプレサンスに説明してくれたが、その時に「毎回大会が終わるまではスイーツは厳禁、カフェの店先で眺めるだけにしなくてはなりません」と本当に残念そうに語った表情は今でも忘れられない。

しかも、現在控えている大会に備えてのメニューも食事についての制約が多く、何とも厳しいことに大好物のスイーツを一切口にできないのだ。勝利のためとはいえ、大の甘党のザクロにとってはとても過酷だ。

プレサンスはそういった恋人の努力を無駄にしないためにも、できる限りの協力はしたい――それも気づかれないように――と考えているのだ。とはいってもトレーニングの方法だとか栄養学だとか、スポーツに関して何ら知識を持っているわけではないから、専門的なサポートはできない。けれどそういったことでは力になれなくても、自分だってザクロを支えたい、恋人が晴れ舞台で活躍する姿を見たい、そんな気持ちは強く持っている。

それに何より、少しでもザクロと同じ経験を分かち合いたかった。よく行くカフェで最後の一つだったスイーツを二人同時に注文して「半分にしませんか」という提案を彼にされたのが出会いのきっかけだったくらいに、甘いものが好きでたまらない同士なのだ。ザクロの食事制限中に自分だけのんびり楽しむなんてできない。プレサンスはそう思っている。ただし、照れ隠しと恩着せがましいことをするのが嫌だということも相まって、今まで正直に理由を言ったことはないのだけれど。

しかしザクロは、何故だかプレサンスのことに関しては妙に鋭いので、決して口に出さないように、気付かれないようにしていた。だってそうしていることが知れたら、彼の負担になりそうで嫌なのだ。プレサンスの運動嫌いは恋人にもとうに知られているから、今まで真意を言わずに色々と口実を作ってやってきたが、今回は年末から新年にかけてパーティなぞで色々と食べて体重が危うくなったという口実で――悲しいかなそれは嘘ではなかったので――そうすることにしたのだ。

「だから我慢、我慢」

ドリンクのおかげで多少体力も回復したし、休憩は終わりにしてもう何セットかしようかな。プレサンスが立ち上がり伸びをして、筋肉をほぐし始めながらそう思った時だった。

グイ、と上体を反らしたのとその音がしたのは同時だった。まずは玄関先で鍵がチャリチャリいう音が聞こえた。だがプレサンスは気にせず運動を続ける。誰かは顔を見ないでも予想は付く、というよりか判りきっているからだ。壁に掛けた時計を見れば、そうこうしている間にそれなりの時間が経っていたらしい、ジムの挑戦者受付時間はもう過ぎていたから、恋人が帰ってきてもおかしくはないだろう。

リビングのドアを開けっぱなしにしているから、音はよく聞こえる。続いて前屈を始めた時にガチャ、とノブをひねり施錠してから、足音が近づいて来たかと思えば。

「プレサンスさん」
「おかえ……って、うわっ」

果たして部屋の中へ入ってきた恋人は、軽く息が上がっているようだった。「ジムの帰りの日課のロードワークの量を1.5倍にすることにしました」とこの間話していたからそのためかもしれないが、それでもさほど疲れた様子は感じられない。私だったらとっくにバテてるな。プレサンスがそう思いながら出迎えの挨拶を言い終え、振り返りかけたところで。

「会いたかったですよ、プレサンスさん」
「ちょっと私今汗臭いんだから離れてってば、それに会いたかったってもほんの数時間でしょうが」

ザクロは長い足を存分に活かし、すぐさまプレサンスのもとに歩み寄る。そして、彼女の後ろからこれまた長い腕を回して抱きしめてきた。

全く、ン十年ぶりの再会ってわけじゃないのに飽きないんだから……でも。プレサンスが苦笑いするのと同時に、途端に鼓動は早くなる。同棲を始めた最初の日からずっと、ザクロは帰宅するなりこんな調子なのだ。細身でしなやかだが、しっかりと筋肉が付いた腕の感触に、いつもドキドキと心臓が騒いでしばらく止まらなくなる。それにちょっと離れただけだというのに、これほどまでに自分との再会(というほど大げさなものでもないが)を喜ばれるのはやはりなんのかんのといっても嬉しいものだ。

だがそこは素直になれない性質のプレサンスのこと、照れ隠し半分で離れてと言うけれど――文句を言いながらも結局は好きにさせるのだが――ザクロは。

「ほんの数時間であっても、愛しい人と離れていればそう思うものです。それに」
「それに?」
「プレサンスさんの言う「離れて」は「傍にいて」。こういう意味なのでしょう?わたしも伊達にプレサンスさんと何年もお付き合いをしてきたわけではありませんからね」
「〜っ」
「ふふ、照れていらっしゃいますね」
「……そんなわけないもん」
「エクササイズをされていたのですか?わたしのために?」
「そう……っべ、別にいつも言ってるけどねザクロのためにやってるわけじゃないから自惚れないでよね!そうって言ったのは運動してたって部分にかかるんだからね、ノエルとかお正月のパーティーでいろいろ食べすぎちゃっただけなのっああもう何言わせんのよバカっ」
「わたしがバカなのだとしたら、親バカならぬプレサンスさんバカに違いありませんね」
「〜〜〜っ!」

精一杯の強がりを言ってみても、皮肉でも何でもない口調でそう言って、自分の言葉に自分で納得するよに頷くザクロのシルエットが見えて。プレサンスの方からは見えないけれど、きっと彼の大きな灰色の瞳は、まるで恋人の心の内を見透かしていることを誇りさえしているかのよに悪戯っぽい光を浮かべているに違いない。

そして、ザクロの方からも見えないけれど、プレサンスの顔は途端に赤くなったに違いない。当たり前のことではあるけれど、彼は影が黒一色であることをこれほど残念に思ったことはない。もしも影が表情の動きも一緒に映してくれるなら、後ろから抱きしめたままそれが見えるのに。

顔も見たい、だけどザクロの方に向くためにこの腕の中から一瞬だって離れるのも嫌。ザクロってばホント気が利かないんだから……半ば理不尽な八つ当たりじみた思いを込めて、プレサンスは回された腕の先、大きな手の甲をちょっと抓ってやる。こんなやり取りは最早日常の一部になって久しい。でも同じよな言葉を毎日交わしても、プレサンスの胸のときめきも、そしてザクロがそんな彼女を愛おしく感じてやまないのは、初めてこうした会話をした時と全く変わらないことだった。

……他でもない、私のことこんなに好きだって言ってくれるザクロのためだから、好きなスイーツ食べないのも嫌いな運動するのも頑張れるし頑張りたいんだよ。プレサンスは内心ひそかにそう呟くと、手の甲を抓る指先に込めた力を少し緩めた。抓るのに飽きただけだもん、ザクロの腕の感触もっと感じてたいとか思ってないから……。



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