ここに


ミアレシティは一日中眠らない街だ。当然灯りも夜通し煌々と点いているけれど、何年か前から子供の睡眠の妨げになるという声が大きくなってきたのでこれでも大分規制されているのだが。
そんな街の少し外れにある自宅の子供部屋で、夜景の眩しさ…ではなく眠気に目を擦りながら、プラターヌは手に持った絵本のページを次へと繰った。眠らない光が差し込むのを遮るのは、赤い地に水玉模様というポップなデザインだがしっかりとした生地のカーテン。そしてこれまたお揃いのデザインの時計はそろそろ8時半を指そうかというところだった。家具から何から全て小さなサイズのこの部屋に持ち込んだ大人用の椅子のクッションは大分くたびれていてその分柔らかくて眠気を誘い、だから勝手に下がろうとする彼の瞼をなおのことぐったりと重くさせている。新しいのをそろそろ見繕おうかなあと思いながら、それでも絵本の文字を目で追いつつ口を動かし続けた。
「『こうして、わるいまじょはたいじされました。そして、おうじさまとおひめさまはいつまでもしあわせにくらしました。めでたし、めでたし。』…ふあぁ」
娘のプレサンスが大好きな絵本を寝物語に読み聞かせ終えて、大きなあくびを1つした。大人からしてみればそう遅い時間でもないのだが1日出かけた分の疲れのせいと、それから絵本の内容に代わり映えが無いからでもあるだろうか。子育ては当然妻と協力しあってしているが、彼の役割の1つが寝かしつけだった。読んでいたのは『むかしむかし、あるところに…』というごくありふれた出だしで始まりお姫様と王子様が出会って恋に落ちるけれどそこに悪い魔女が現れてお姫様に呪いを云々かんぬんして、だが最後は先ほどのように魔女をやっつけハッピーエンドになっておしまい、というよくある物語。何度も読んだから表紙の印刷も薄くなってきたし、買ったばかりの時には当然あった本の角も今はもうすっかり取れ丸みを帯びていて指先に妙に心地よい。だがプレサンスは絵本がこんな状態になるほど繰り返し聞いてもこの話が大層気に入っていて、寝る前にはいつもこれを読んでとせがむものだから、読む方ももうそろそろ諳んじることができそうなほどになってきた。事実眠気に塞がりかけた目で字を追わなくても口は勝手に動いていた、ような気がする。
さて、それはさておき寝付いたろうか。パタンと絵本を閉じ、眼の前のベッドに横たわり話に耳を傾けていたプレサンスの様子をうかがった。自分と同じ灰色の瞳は、幸せな終わりを迎えた物語の余韻に浸っているのかキラキラと輝いていて…それは可愛らしいのだが、見る限り少しも眠そうではない。目を輝かせて聞き入った後すぐに眠りに就くはずなのだ、いつもであれば。だが今日は誕生日だということで気持ちが高ぶっているのか、まだまだ大きな目はぱっちりしていて眠気のかけらさえ見つけられそうにない。お祝いにと遊園地に連れて行って遊び倒した今日、自分の眠気はピークに達しているというのに。研究職という仕事柄普段さほど体を動かさないことのツケかもしれない。娘とこうして過ごす時間も勿論大事にしているけれど、だからといって眠いのを我慢できるかと訊かれたら話はまた別だ。気が付けばもう夢の何歩か手前に来ていて…ここにベッドが飛んで来ればなあ、いやボクがベッドに飛んでいけばいいか…そんなまさしく夢のよなことを考えながらウトウトしかけていた、が。
「ねえってば!ねえパパおきて!ねちゃったの?」
「んー?」
「んーじゃないの!ねちゃだめ、ききたいことがあるんだもん」
「寝てないよー」
プレサンスがプラターヌのシャツの袖口を小さな手でクイクイと引っ張る仕草は、彼をにわかに現実に引き戻した。小さな子供なので力があるわけではないけれど、あどけない強引さにはかなわないなあと醒めかけの意識の中苦笑いしながら娘の方を向く。だが、これは妻から受け継いだふっくらとした唇を尖らせてものを言う様子を愛おしく思いつつも、これは…と見覚えのある兆しにピンときた。いつもの「聞きたがり」が始まりそうな気がしたのだ。物語はどこへでも、いつもなら夢見の世界へ連れて行ってくれるけれど、今夜ばかりはプレサンスをいわば不思議がりの世界に連れて行ってくれてしまったらしく。
「しわあせってなあに?」
「え?しわあせ?」
「だからぁ、しわあせ!ってなんなの?」
「しわ…幸せが何かって?」
「うん!」
やっぱりか…くりっとした目に利発そうな光を浮かべて見上げてくる娘の問いに、プラターヌは眠い目を瞬かせながらペラップ返しに答えた。彼女の言うところのしわあせ、とは幸せのことか。子供にはよくあることだが、まだ舌がうまく回らず前後の文字が入れ替わってそうなったようだ。そんな様子を微笑ましく思いつつも内心で驚く。今日5歳の誕生日を迎えたばかりの彼女の口からそんな哲学的な問いかけが出てこようとは。一方でプレサンスの方は父親が話に乗って来たのが嬉しいのか、瞳は瞬きするごとに輝きを零しそうなほどになっていて。
「ごほんでみてなんだろうってずっとかんがえてたの。パパはハカセだからなんでもたくさんしってるでしょ、しわあせのこともわかるんでしょ」
「うーん、まあね」
いつものように答えてくれるはず、という期待をこめた目で見上げてくる娘に、プラターヌは親バカ半分、困ったの半分の気持ちになりながらひとまずへらっと笑って見せた。プレサンスは本当に好奇心が旺盛だ。そして研究者の両親譲りなのか、興味を持ったことは子供向けの図鑑を読んだりあるいは今のよにあれなあに、これどうして、といったふうに訊いたりして何でも深く――とはいってもそこはやはり4歳、いや今日で5歳になったばかりの子供なので高が知れてはいるのだけれど――自分なりに納得が行くまで調べたがる。しかし好奇心は災いのもと、と教えるおとぎ話が確か無かったろうか。災いと表現するのは大袈裟だろうが、ちゃんと取るべき睡眠を取らずに明日眠い思いをするのはプレサンスだ。子供は早く寝かしつけないといけないし自分も眠い。かといって父親として娘の期待は裏切れない。さて、どうしたものかなあ。一旦気になったことがあったら気が済むまで放り出さないし、また明日考えようねとなだめたところで頑固さもある子だ、「いまじゃなきゃやだ!パパのいじわる」と機嫌を損ねて困らせられるだろうことは目に見えている。
それにしても…幸せ、かあ。プラターヌははたと考えた。振り返ればこれまでその言葉を口にした記憶こそあるけれど、意味についてまで真剣に向き合い考えたことがあったろうか。いや、思い当たらない。そして同時に娘可愛さもあってやはり無視はできない、とも思い始めていた。ボクの子ながら天才なんじゃないだろうか、いやそうに違いない、5つになったばっかりなのにそんなことを考えられる子なんてこの世が広いとはいってもそうはいないはずだ。よし決めた、親バカだ甘いと言われようといいじゃないか、プレサンスもまだ眠くはないみたいだし、今日もあと少しとはいえ誕生日だったんだ。時計の針が12時を指すまでもう少しだけボクの可愛いお姫様のワガママに付き合うとしよう。ひとまず特大のあくびをして――普段ならしないが、プレサンスの躾に悪いのでちゃんと口元は手で覆って――眠気をなんとか隅に押しやって、と。
「そうだなあ…パパも実は今までちゃんと考えたことが無いんだ、いいチャンスだから一緒に考えようか。それじゃあプレサンスは、そもそも幸せって何だと思うのかな?色んな人がいるからね、その分色んな幸せもあると思うんだ。聞かせてくれるかい」
質問に質問で返すのは何だとは思うけれど、まずは5歳なりに幸せについてどう思っているのか気になって訊ねてみた。
「しわあせってうれしいこと?かなしいこと?」
「うーんそうだね。嬉しくないことは幸せとは言わないと思うよ」
「んっとね、えっと、うれしいこと…あっ、リンゴがあること!だいすきだもん」
「なるほど。リンゴを食べてる時のプレサンスはとっても嬉しそうだからねー」
目を寄り目にしてちょっと小首を傾げながら何やら考えた後、ぱあっと笑みを浮かべて答えたのにつられてプラターヌも少し笑った。表情が豊かな子でもある分見ていて飽きないものだ。あたかもリンゴがそこにあるかのようにニコニコして…そう、確かにこの子の大好物だしそう思うのも分かるな、と思って頷きかけた――が。
「あー!ちょっとまって」
「ど、どうしたんだい」
横たわっていたベッドからいきなりガバリと起き上がるものだから――しかも今度は先ほどまでの表情から一転、見る間に半べそになったではないか――いきなりのことに驚いて頷きかけた首の動きを止めると、プレサンスはプラターヌにひしっと抱きついてきた。一瞬の間に彼女の中で何があったのかはわからないが、ひとまず受け止めて次の言葉を待った。
「あのねっ、ごめんね、すきなのリンゴだけじゃないよ、パパもママもだいすきだよ、だからしわあせだよ」
「そうかい?あはは、そう言ってくれるプレサンスがパパは大好きだよー。パパも幸せだなあ、大好きなプレサンスから嬉しいことを言ってもらえるなんてね」
忘れちゃいけないとばかりに慌てたように付け足す姿に今度は声を立てて笑った。それと同時に例えようもない愛おしさがこみ上げてくる。腕の中の体温は子供らしく高くて、だけどそのせいだけではなく心がじんわりと温かくなっていくのをはっきりと感じて――そこで分かった。そうだ、幸せっていうのはつまり。今まで考えたことも無かったそれについて、なんだか自分なりに答えがまとまりかけてきた気がする。
だがそれを口に出すのはプレサンスの方が一歩早かった。今度はまた嬉しそうに、そして何か思いついたという顔でプラターヌを見上げて口を開いた。
「わかった!パパわかったよ」
「え?」
「しわあせってね、すきなひとがいることなんだよ!だってね、ごほんのおうじさまはおひめさまがすきで、おひめさまはおうじさまがすきでしょ、だからすきなひとがそこにいてくれたからしわあせにくらしたの。プレサンスね、ごほんよんだりいろんなことおしえてくれるパパも、リンゴのかわホルビーのおみみみたいにしてくれるママもだーいすき!だからね、プレサンスもしわあせ!パパも?」
「もちろんさ!大好きなママと結婚してプレサンスがパパたちのところへ来てくれたんだ、これ以上に幸せなことなんてないよー。ママだってきっとそう言うさ」
『幸せって、何か好きなものやひとがそこにあったり、いたりすることじゃないかなあ』――プレサンスとの話の中で出た結論は、彼女も子供なりに思っていたことのようで。愛おしい娘と考えが重なったことも嬉しくて、そっと優しく頭を撫でた。そう、ボクにとっての幸せっていうのは、愛しい相手がここにいることなんだ。その間に新たな疑問を抱いたらしい、また何か考えている顔になりながら訊ねてきた。が、その顔はなんだか目がトロンとしていて・・・?
「そういえば、しわあせってどこにあるの?どんなかたち?」
「幸せはね、ここにあるよ」
「ここ?」
プラターヌは娘の問いに力強く頷いて答えた。
「そう。さっき色んな幸せがあるって言っただろう?色々あるからね、リンゴやプレサンスやママみたいにちゃんと形のある幸せもあれば、目には見えないものだってあるんだよ。そして、どこにでもある。もちろんパパたちがいるここにもね。だって、プレサンスがいてくれるから…おや?プレサンス?…寝ちゃったかあ」
いつの間にか腕の中の温もりがもたれかかって来ていたことに気が付いて見下ろせば、プレサンスはプラターヌの胸に顔を預けてすぅすぅと小さな寝息を立てていた。子供はネジが切れたよにコトリと眠りに落ちるものだが、どうやら色々と話をしている間に眠気が一気に来たようだ。さて、ぐっすりと眠るあどけない寝顔を微笑みながら見つめたら。
「おやすみプレサンス。誕生日おめでとう、そして…生まれて来てくれて、ボクたちを幸せにしてくれて本当にありがとう。いい夢を見るんだよ」
そっとベッドへ横たえてコンフォータを掛けてやり、親愛の情をありったけ込めて額にキスを落とした。プレサンスの夢が、今夜だけでなくずっと幸せなものでありますようにと願いを込めて。
さあ、ボクもそろそろ眠ろうか。プラターヌはそっと椅子を持ち上げ、音を立てないように子供部屋を後にした。あんな可愛らしいことを言ってくれる娘を授けてくれた妻の待つベッドで、一緒に幸せに包まれながら眠りに就くために。



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