まるごとすべて


研究所の空気を静かに震わせていた音は初めは確かに二種類あった。一つは、つい昨日泊りがけのフィールドワークから帰ってきたプラターヌがその結果と、それから今度進化学の専門誌に寄稿する原稿を考え考え打ち込む音。そしてもう一つは、久々に図鑑と顔を見せに来た恋人のプレサンスが彼の周りで立てている音だ。
しかし今や前者はほとんど止まりそうなところだった。カタカタとキーを打っていた音は、彼女が小さな鼻の孔をひくつかせて立てるスンスンという音に気を取られ立ち消えるようになってそろそろになる。プラターヌはうっとりした表情を浮かべてフロアを左へ右へ歩き回るプレサンスを横目でそっと見て思う。うーん、一体何の香りをかいでるのかな。今している作業に取り組み始めて早くも小一時間。恋人の前でダラダラ仕事をしている姿なんて見せられないぞ、と自分に発破をかけたおかげかどちらも普段よりスムーズにすることはできた。でも、そろそろ集中力も途切れてきたころだから意識が彼女の方に移って余計に気になって来ていたのだ。手をキーボードから傍らのマグに伸ばしてぬるくなったコーヒーを啜っている間にも、プレサンスはニコニコしたまま先ほどからの行動を続けている。それはもちろん笑顔でいてくれるほうが嬉しいのだが、何とも不思議な光景だ。立てている音が不快なので止めさせようというわけではない、久々に会えたプレサンスの一挙一動は何度見ても飽きないものだから。けれど何故そんな嬉しそうな表情で香りを嗅いでいるのだろう。気になったプラターヌは資料を繰るのを一旦やめて、休憩がてら恋人の心の内を確かめてみることにした。
「あのー、プレサンス?何か匂うの?」
姿を見せた時、来てくれたのは嬉しいけれど集中したい仕事があるからあまり構えないかもしれないよ、と言っておいたし彼女も分かりましたとは答えた。それでも声をかけられたことが嬉しいのか、プレサンスは途端に顔をぱあっと輝かせ始める。全く可愛いなあ…だがその様子を微笑ましく思う反面、そこではたと嫌なことに気が付いてしまった。考えたくもないけれど、ひょっとしてその、まさかとは思うけれど…加齢臭というあれじゃないだろうか。まだそうなるには早いと思ってたんだけどな、ボクももうそんな年なのかな…いやひょっとして香水の付けすぎかな、プレサンスの様子からして顔をしかめてるわけじゃないみたいだし、何よりそのほうがマシだからそうだといいなでも付けすぎたって良くないし気を付けないとな。プラターヌは一人落ち込みかけながら訊いた、が。
「博士の香りかいでるの!んーいい香り〜大好き!」
「え、ボクの香り?どんなの?」
満面の笑みを浮かべたプレサンスから返ってきたのはそんな答え。いい香りと表現するからにはひとまず彼女を不快にさせたわけではないのだろう、そして加齢臭でもなさそうだと考えてプラターヌはほっとした。だけどそういうの自分じゃ慣れちゃって案外気が付かないんだよね、どんなものなんだろう。そう思って更に質問を重ねれば。
「香水とコーヒーの混ざった香りかなあ。普通絶対合わないじゃん?でも博士のだから全然気にならないの、ほんともう大好き!」
「なるほど、そういうことだったんだね。どっちも好きでよく身に着けたり飲んだりしてるしねー。でもそう考えるとボクってシュシュプみたいだなあ、プレサンスの好みの香りを纏ってるなんてさ」
「でしょ、実は思ってたの。髪形似てるからなおさら…あっでも一つ訂正!」
「ん?」
「私香りもそうだけど雰囲気も使ってるものもお仕事してるところも博士のいる場所も…とにかく博士が関わってるものならみーんなまとめて好きだから!もちろん博士もね!」
その言葉はプラターヌの眼を大いに細めさせるには十分だった。ほんと、もう、たまらないよ。心の底からこみ上げてくる愛おしさは、一瞬で仕事のことを頭から溶かし去っていて。そして彼の頭に今残っているのは、もう今すぐプレサンスに触れ彼女を愛で尽くすことだけ。あまり逢ったり構ったりしてあげられなかった罪滅ぼし、の「つ」の字の書きかけみたいなものだよ。誰に向かってでもないけれど、そう言ってから。
「そっかー。ああ、何だかそんな嬉しいことを言ってくれちゃうプレサンスのことをギュってしたくなってきたなあ。こっちにおいで?」
「やったあ!」
自分をまるごと愛してくれるプレサンスの、その柔らかな感触を久しぶりに愉しませてもらおうか――進み具合は順調だったのだ、ここで彼女とのひとときを楽しんだところで何の支障も出ることはないし出たって帳尻をどこかで合わせればいい。鼻をひくつかせても口を開いて言葉を紡いでも可愛らしい恋人が目の前にいたとして、構わないなんてことができるわけがないのだから。ほとんど書きあがったそれを保存してからキーボードの上で踊っていた指をしばし壁の花にすることにして、柔らかな感触をすっぽり腕に収めよう。途端に更に目を輝かせ始めたプレサンスに向かって手招きすれば、飛ぶようにこちらへやって来ている。受け止めるまであと何秒も無いだろう。さあ、自分も愛してやまないプレサンスをまるごと堪能することにしよう。



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