眼差し


あ、始まった。夕食は夫であるズミが腕を振るうので、その後片付けと食後に家族全員分の飲み物を淹れるのはプレサンスの役割だ。そのためにキッチンに立っていた彼女は、リビングから聞こえてきた夫と息子の会話を耳にして笑みがこぼれてくるのを抑えきれなかった――とはいっても。
「…だから!」
「!〜〜〜」
聞えてくるのは、半ば叫ぶようなやり取り。その会話はおぼろげに耳に入ってくるだけだが、父と子の団欒と言い表すのはとても難しそうだった。親子の穏やかな語らい…というよりかは喧嘩でもしているかのよな声色だ。とはいっても慌てて割って入るようなことではない。だってその中身と言えば他愛のない、そしてプレサンスをこの上なく幸せにするものであることは間違いないのだから。今日はどんなやり取りが見られるだろう。期待しながらもテキパキと準備を進め、後片付けの間にゆっくり温めておいたモーモーミルクも丁度いい温度になった。自分達用の白地に青い模様が入ったペアのマグ、それからデフォルメされたウデッポウの描かれた息子用のマグ。ミルクパンからそれぞれの容器に注いでお盆に乗せ、リビングへ戻ってみれば。
「だーかーらあさっきからいってるでしょパパはにばんめなんだってば!ママはぼくがいちばんすきなんだもんっ」
「先ほどから聞いていれば我が息子ながらまったく痴れ者と言うほかない!プレサンスが一番愛しているのはわたしに決まっているでしょう」
そこには――かたや自信満々といった風な表情で主張する息子と、かたや子供相手に真顔できっぱりと言い返す夫と。彼らは同じ形をした目から火花を発しながら、自分こそがプレサンスに愛されているのだと主張しあっていた。やっぱり今日もやってる、ほんといつも飽きないんだから。微笑ましく感じながら夫と息子にそれぞれ容器を手渡して、その間だけ戦いは中断されたのだが。
「あのねぼくママがパパよりずーっとすき!だってパパぼくのことしれものっていってギャクタイするんだよ」
「あら、パパに意地悪はだめよって言っておかなきゃね」
今度は彼女を味方につけようと考えたのだろうか。ぱあっと満面の笑みを浮かべてそんなことを言うものだから、穏やかではない言葉なのになぜだか妙におかしくて吹き出してしまった。視界の隅でズミが思い切り顔を顰めるのが見えたけれど、よもやそんなことをするわけがないのは十分知っている。気にしないでと目配せして、子供の言葉って急に増えるのよねと深刻にとらえることなく微笑交じりに聞いた。それにしても一日ごとにまるでスポンジのように実に色々なことを吸収してくるものだ。成長とはそういうものだろうか、この間自転車に乗れるようになったと思えば今日みたいに知らなかったはずのことを覚えるようになって。この子実は天才なんじゃないかしら。愛してやまない夫と同じ目に、大好きな母親の手の温もりを喜んで無邪気な光を浮かべて見上げてくる息子をぎゅっと抱きしめた。だって仕方がない、たとえ親バカと言われようと可愛いものは可愛いのだから。
しかし妻と息子の様子を見ながら、傍らにいるズミは複雑な気分でミルクを啜りつつ眉間の皺をさらに数本増やしていた。カルシウムをこうして摂っていなかったらもっと苛立っていただろうと思う。口を開けばイヤと言う時期をようやく過ぎたら次はこれか。3歳になり口が達者な、というか最早生意気と表現してもいいくらいになってペラペラと喋り始めたら…それに、プレサンスのことも。眼の前のことを眺めつつ、これまでから今のことを何とはなしに振り返り始めた。
ズミとてこうして口喧嘩こそするが我が子が嫌いなわけではない。とはいってもそもそも最初の頃は、大抵険のある目つきを怖がられるので扱いが苦手だったために子供という存在自体が好きではなく、心から欲しいと思っていたわけではなかった。マリーと結婚する時にも一生夫婦二人だけで過ごそうという話はしていたのだが、その後周りを見てやはり欲しくなったという彼女に幾度もせがまれたので授かるように協力しただけ。でも愛しい妻の面差しをしっかり受け継いで生まれてきてくれた息子のおかげで、子供というのも思っていたほど悪くないとは思うようになった。これは随分な心境の変化と言っていいはずだ。
だがしかし、面白くないことがただ一つ――妻は男の子が欲しいと前々から言っていただけあり念願がかなったが、代わりに恋人時代に比べてさほど構ってくれなくなったことに少しばかり不満…というよりか、プレサンスの眼が自分より子供に向くようになった気がしてならなくて、微かに嫉妬を覚えるようになってもいた。息子が例えば彼女に抱っこをされている時などどうだいいだろう、と言わんばかりの顔でこちらを見てきたりするからというのもある(現に今この瞬間だってそんな視線を寄越してきているので余計に)。もちろん今だって時々息子を預けて夫婦水入らずで過ごすこともあるが、それまでは自分だけの彼女だったというのに。これまでこの目つきのせいで何度も誤解されてきたけれど、プレサンスは強い意志が宿ったその眼差しがとても好きなのだと告白してきたし今でも折につけそう口にする。自分の気に入らなかった点に惹かれてそう言ってくれる相手を愛おしく思わないはずがないし、そうして互いに惚れ込んでいるのだから「妻は母になると夫より子供に関心が向く」とよく言われるようなこともないだろうと心のどこかで高を括っていたのだが。母親が子供を愛おしく思うのは分かる。まして息子は、プレサンスに本当によく似た顔立ちと彼女と同じ色の髪と瞳を持って生まれてきたけれど、大好きだと語るズミのそれと全く同じ形の眼をしているのだからなおさらだろう。「私ね、あの子が目を開けた時本当に嬉しかった。だって大好きなズミとの間に授かったっていうだけでも嬉しいのに、あなたと同じ形の目してるんだもん。こんなに幸せなことこの世にそうないでしょ」とも話していたくらいだし。実の子相手にジェラシーを感じることなど実に大人げないのも理解している。だがそれでもどうにも悔しいのだ…だが、それでも。
「あっそうだママ、パパさっきママよりガメノデスとおりょうりのほうがすきなんだっていってた!だからぼくがママのこといちばんすきなの!」
「パパったらそんなこと言うなんて、ママ悲しいわ」
「そのようなことは言っていません嘘を言うのはよしなさい。プレサンスに嫌われますよ」
「えーやだー」
ホットミルクを飲みつつも口喧嘩は止まらない。かといってプレサンスはこれを止める気などまったくない。面倒だからではなくて、愛してやまない同じ形の眼同士が視線を交わして罪の無い嘘を吐く様子も、子供相手にムキになり早口で答える姿さえも愛おしくて、このやり取りの続く限りいつまでも見ていたいからだ。息子が生まれた頃は最低限の世話はするけれどさほど子供に関心を示さないズミに、もっと構ってあげればいいのにと産後のストレスからくる苛立ちもあってそう感じていたしそのことで喧嘩もした。けれど話し合いを重ねたり様子を見たりするうちに、夫にとってはこれ位の距離感が丁度いいのだろうと段々と捉えられるようになった。言葉が出てくるようになった息子も、なんやかやで父と今のようなやり取りをして構ってもらえるのが楽しいようだし、今ではこれが2人なりのコミュニケーションの取り方なのだと思う。ああ、私って本当に幸せ者。世界で一番愛しい相手と、彼の間に授かった子と。そんな2人に取り合いをされるなんて妻、そして母冥利に尽きなくてなんだろう。心が温もりに包まれてくる気がするのはホットミルクのおかげだけではないはずだ。目を細めて彼らを眺めつつ、そんな幸せにどっぷり浸っていると。
「ママはぼくのほうがすきでしょ!ね?」
「何を言いますか、プレサンスがわたしを一番に愛しているなど言うまでもないことです。そうですね?」
ほら来た。夫と息子がこちらを向いて投げるのは定番の質問。いつものやり取りはあることを期待して、いやもうほとんど信じて結局ここへ着地するのだ。大好きな眼差しを2人分向けられたプレサンスの心はますます幸せで満たされていく。愛する人はこの2人。でも、こう訊かれた時の答えはひとつしかない――そう、お決まりの。
「ケンカしないの、ママは2人ともだーい好きなんだからね」
こういう時は息子にも夫にもそう答えた後、それぞれの頬にキスをする。こうすることで――名残惜しくはあるけれど――自分を巡ってのバトルは終わるのだ。すると彼らの眼は途端に、そして同時に満足げになる。そんな何気ない一瞬の瞳の動きがシンクロすることさえも嬉しくてまた笑みをこぼした。このあたり、やはり親子なのだと思うと。そして今日は眠気が早く来たのか、しきりに目をこすりながら口を開いた息子が言う言葉もいつもと同じ。
「ふーん、じゃあママのすきなひとだからぼくもパパすきだよ」
「そうなの?あっだめよ擦らないの、赤くなっちゃうからね」
「うん、うそじゃない!パパとおそろいのおめめ…かっこいいから、だいすき」
「好きなのは目だけですか」
「ん!」
眠そうではあるがいつもと変わらない元気のいい声での正直な答えに、ズミとプレサンスは目配せをし合って笑った。何がどうして「じゃあ」に繋がるのかは分からないが、子供はえてして突拍子も脈略もない理論を展開するものだ。
「ほら、もう寝る時間です。眠いのでしょうが料理を美味しく食べられるように歯磨きは念入りにするんですよ」
「んー」
その間にもいよいよウトウトし始めた息子にズミは声をかけて促した。すると一言話す度に眠気が襲ってくるのを耐えながら返事をして、リビングを出て行く前に。
「あのねパパ」
「何です?」
「さっきの…うそ…ふぁあ…パパのおめめだけじゃなくてパパもすきだから、ね。おやすみっ」
その一時だけ眠そうな気配はどこへやら、そう満面の笑みで言われたら。覚えた嫉妬も今日のところは帳消しにしようか――そう思ってしまう。これまでもそうだったし、今日ももちろん、そしてきっと明日から先だって。洗面所へ向かっていく背中を見つめるズミの眼差しはとても柔らかく、優しい。やっぱりズミと結婚して、あの子の母親になれてよかった。プレサンスは夫にも子にも尽きることない愛情を感じながらその様子を見守り、夫に訊ねた。
「ね、ズミ」
「何です?」
「子供もそう悪くはないでしょ?」
「…ああ。生意気を言う時は腹が立つこともあるが、それを補ってあまりあるいとおしい存在なのだと思えるようになった」
生まれた直後に息子を抱っこした手つきのぎごちなさにハラハラしてから3年、そんなに子供が好きではなかった夫の口からそんな言葉が出るなんて。プレサンスはその変化が無性に嬉しかった。このひとは、なんだかんだいってもちゃんと父親になってくれたのだ――と。
「さてと、寝よっか」
「時にプレサンス」
「何?」
「あのような幸せをまた味わいたいものだと思いませんか」
「んー…まあ、そうだけど」
「今度は娘から言われたいのです、プレサンスのような可愛らしい子に…今日はあれを付けずに致しましょう」
「ちょそんな急に!そもそもあの子作るのだって乗り気じゃなかったのに、ふぁっ」
プレサンスはその真意を読み取って赤面したけれど、妻の腰に手を回し時折口づけながら寝室へ導くズミの手と眼差しは、大いに熱を帯びていた――まるで、急に火照り始めた彼女の顔の熱でも移ったかのように。



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