コイビトキタル


「んー……まだかな?」

そわそわ。プラターヌは落ち着かない様子で、研究所を左へ右へとせわしなく動き回る。その姿を見て主人を待ちわびるヨーテリーを思い浮かべる助手もいれば、いつものことだと流す助手もいて、反応は様々だ。

「もうちょっと、だと良いなあ」

うろうろ。出張に次ぐ出張の片付けはうっちゃって、すっかり気もそぞろだ。春のミアレに差し込む暖かな陽光がブラインドをすり抜けて入り込み、プラターヌが部屋を行き来するたびに彼のシルエットがブラインドのそれに重なっていた。

プラターヌがこんなに落ち着きがないのは、最愛の恋人であるプレサンスに本当に久々に逢うことができる日だからだ。

このところ学会が立て続けにあり、プラターヌはその関係にしばらく忙しかった。先々月は学会のためシンオウ地方に渡り、先月の中旬にはシンポジウム出席のためジョウト地方へ出向き、そしてつい先週までは大学での特別講義のためイッシュ地方に滞在していて、つい一昨日帰ってきたばかりなのだ。

まだかまだか、と呟きながらひとしきり研究所を歩き回ってから、プラターヌは自身のオフィスのあるスペースに戻った。ドアは無いから行き来はすぐにできる。ふう、とため息を吐いてソファーに座った。ここは自分のオフィスなのになぜこんなによそよそしい雰囲気なのだろう、ここを離れていた時間が長かったからだろうか……そうぼんやりと考えながら、ここ最近のことを回想した。

「ようやく一段落だ。ああそれにしても拷問のようなというか拷問そのものの日々だったなあ……」

ここのところ参加したような場は、まだ研究のヒントになるから遠路はるばる出かける価値はある。出席にあたって発表やコメントの準備を入念に整えておかなくてはいけないのも楽ではないが、下手をするわけにもいかないのでこれも仕方のないことではある。

しかし何より煩わしいのは、その前後にあるお歴々との交流レセプションという名の研究成果の詮索合戦、そしてそこで二言目には持ちかけられる彼らのご令嬢たちとの縁談話、エトセトラエトセトラだ。中でも、とある教授のしつこさには毎度参っている。分野が近いため、会う機会は少なくない顔見知りといった程度の関係だが、その度に娘との見合い話(ちなみに彼は写真を見せてきて「どうだ美人だろう」と胸を張る。実際なかなかなのだがつゆほども興味が沸かなかった)を持ち掛けるのだ。プレサンスがいるというのに見合い話なんてとんでもない、と毎度丁重に断ってはいるのだが。今回もどうにか撒いたものの次が怖い。

こうしたことはなんとかやり過ごして、積極的に関わるのは避けたい。だが、研究者は人のつながりというアナログ極まりないものをなぜだか重んじるもので、そんなことばかりが繰り広げられるのは嫌というほど解りつつも、そういった場をあまり蔑ろにするわけにもいかなくて。毎度のことだし、学界に身を置くためには仕方のないこととはいえ、そのラッシュにはさすがに堪えた。一昨日帰宅してから、昨日は日曜日ということもあって夕方まで熟睡していたほどだったのだ。

しかし、そんな疲れなどこれから恋人が来るのだと思えば吹っ飛んでしまうというもの。この研究所は自分のオフィスだし、プレサンスとは研究員たち公認の仲なのだから何もやましいことなどない。午後からという約束だがもう本当に待ちきれない、今この時だけ、プレサンスが来る間まででいいから時計の針が倍速にならないものだろうか。なにせ、この数か月間小さく華奢な手を握ることも、つややかな髪をもてあそんでそこから香るフローラルな香りを楽しむこともできなかったのだから。

確かに連絡だけならホロキャスターや電話ですぐに取り合うことはできる。

「やープレサンス、元気にしてるかい?いつもなかなか会えなくてごめんよ。でもどんなに離れていたって大好きな気持ちに変わりはないよー」

そう送ればプレサンスも

「博士こそお元気ですか、私は元気です。お返事ありがとうございます」

と出だしで必ず答えるのだ。そして近況を短くそして要領よく伝えたあと、最後ははにかみながら嬉しそうにこう伝えてくれる。「私も大好きです、博士がどこにいたってこの気持ちは変わりません。お体に気を付けて」と、愛らしいほほ笑みを浮かべて手を振り締めくくるのだ。

そのホログラムをある時はホテルの部屋で、ある時は飛行機に乗り込むために通信機器の電源を切る直前に何度見返したことだろう。でもそれだけで満足できるわけがなかった。目の前に相手がいないからだ。ホロキャスターの機械越しの声よりも、直に聞く柔らかい声に鼓膜を震わされたい。握りしめたところで、せいぜい自分の手のひらのぬるい温度が少し移ってすぐ消えるだけの通信機器よりも、プレサンスを抱きしめて彼女の体温を感じたい。さっきから考えるのはそんなことばかりだ。ホログラムを見るだけでは満たされないこともたくさんあるのだから。

そうこうしている間に、腕時計の針は1時半を指していた。さて、そろそろ待ちに待ったプレサンスを迎える準備をしなくては。荷ほどきや旅費の精算は後でもできることなんだから後回し。せっかく会える時間が作れたんだ、あの子の喜ぶ顔を見るために出来うる限りのことをしておきたい。それにあたっては……プラターヌはそう考えながらオフィスを後にするとキッチンへ入った。

まず、マグに汚れでも付いていないかな?キッチンの食器棚に置いてあるマグ――付き合い始めて最初にプレサンスにプレゼントしたものだ――をチェックする。果たして染み一つ付いていない。誰かが漂白しておいてくれたのかな、ありがたい。ともかくこれは大丈夫そうだ。

満足して呟いてから、続いてお菓子は、と戸棚の中を見ながらがさごそと目的のものを探す。うーん、あるにはあるけどもう少し欲しいよね。そういえばミアレガレットを買ってくるようにデクシオ君に頼んだけどまだ戻らないし混んでるのかな、そろそろ焼き立てが並ぶ時間だろうしタイミングがよければ買えるかもしれない、プレサンスが喜んでくれるといいな。おっとこの間カフェ・ソレイユの限定パウンドケーキを食べてみたいけどいつも売り切れだって残念がってたなー。悪いけどほかの誰かに頼んでちょっと買ってきてもらおう、マスターとは顔見知りだし連絡しておけば何とかしてもらえるはずだから。そうそう着てくる服も楽しみだな、プレサンスは衣装持ちだし、春に合わせてピンクの服なんか最高に似合うはずだ、でもそれ以外の服だろうと何を着たってプレサンスが一番可愛いことに変わりはないよね。

「ああ、それにしてもまだ来ないのかなあ」

と。

「……博士、よろしいですか」
「ん?」

そこまで考えたところで思考は突然破られ、行動はストップした。その声の主にプラターヌが目線を向けると、そこはジーナがいた。彼女は物事を率直に言う性質だから、上司でこの研究所の所長たる彼にも言うべき時は臆せず意見する。実際ジーナの言葉には何度となく助けられてきた……けれど。いつもであれば冷静なはずのその顔に浮かんでいる表情には今『呆れた』と大きく書いてある。コホンと咳払いを一つしてから、彼女は諭すようにプラターヌに言った。

「博士がプレサンスさんはまだ来ないのかと誰彼かまわずお訊きになる回数はこの30分で24回目ですわ。そしてわたくしが心の中で答えたのは21回、声に出して答えるのは初めてになるわけですけれど」
「か、数えてたのかい」

その問いに「ええ」と短く答えたところでジーナは続けた。

「もう少し落ち着いてくださいまし、そんな姿をもしプレサンスさんが予定より早く到着して目撃したらどう思われるか。それからミアレガレットのお店は一昨日から仮店舗に移転して研究所から遠くなりましたの、内装工事とかで。だからデクシオの戻りが遅いのですわ。でもあと5分くらいで戻ると連絡がありましたから、お茶と一緒に焼きたてをお出しできるでしょう」
「鬱陶しかったらごめんよー、でもだって待ち遠しいじゃな……ん?デクシオ君の帰りが遅いってどうして心の中で思ってたことが分かるんだい?キミってエスパータイプだったかな」
「いえ、そういうわけでは……ただ何せ心の中で思っていらっしゃるであろう内容がまるまる口に出ておいででしたから、どうしても聞こえてしまいますの」
「そう、なのかい?」
「そうです」

ジーナの指摘にプラターヌは途端に気恥ずかしくなった。なんてことだ、心の中で言っていたはずが浮かれるあまり口に出してしまっていたらしい!慌てて周りを見れば、研究員たちはわざとらしい咳払いをしたり、新人研究員など上司の思考が想い人一色に染まっているのを目の当たりにして唖然としていたり。ディグダでもホルビーでも連れてきて掘らせた穴に1ヶ月は埋まりたい気分だ。

「あ、あはは……それもこれもボクのプレサンス分不足が深刻なのが原因だねー」

ごまかすためにそう笑ってみせるプラターヌ。全く上司のベタ惚れぶりときたら、と研究員たちは目線を交わして、もう何度目か分からない苦笑いをこぼした。

そこにルルルという音を立てて内線が鳴る。プラターヌはすわ、と待ち遠しさ半分、この雰囲気をどこかへ押しやりたい気持ち半分で、飛びかからんばかりに受話器を取った。そしてモニター付きの内線を通話状態にすれば、果たして待望の知らせがもたらされた。

「博士、プレサンスさんがいらっしゃいました。今エレベーターに乗り込まれていますよ」
「ありがとう!」

とうとうだ、とうとうプレサンスがやって来てくれた!プレサンスの到着を告げる受付の女子職員の言葉に、声も心も弾ませながら礼を言い通話を終わらせる。それと前後してチン、という軽い音――エレベーターが起動した音だ――がした。

プラターヌは途端に目を輝かせ始める。彼にもしチョロネコの耳が生えていればピンと立っただろうし、ヨーテリーの尻尾でもあったらちぎらんばかりにそれを振り始めているのだろう。横でそんな想像したジーナは、上司を少しほほえましく思ってクスリと笑った。そして、二人が水入らずの時間を過ごすことができるよう、キッチンへお茶を淹れにその場を離れていった。

「プレサンス!今行くよー!」

返事など来るはずがないのは知りつつも、嬉しさのあまり叫んでしまう。早歩きだったはずの歩みは、いつのまにか走っていると言っていい速度になっていた。ボクが走ったところでプレサンスがこっちへ上がってくるのが早くなるわけでもないのは解ってるのになあ、本当に重症だよと自身を笑いながら足を動かして。

――そういえば。エレベーターへ駆け寄りながら、プラターヌの頭にふと浮かぶことがあった。シンオウに留学した時に、運勢を占うくじを引いたことがあるけど、それには待ってる相手が現れないことを『マチビトキタラズ』って書いてあったっけ。

なぜ今そんなことを思い出したのだろう。でも、ボクの場合は嬉しいことに待ちに待ったマチビトキタリ……いや、「コイビトキタリ」だね。あの時教わった意味を思い出しながら、軽やかな足取りでエレベーターへと急いだ。

ああ、扉よ早く開いておくれ!1分1秒でも早く長く、プレサンスに逢いたいのだから。



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