涙雨のち、ずっと(後)


プレサンスは一体何を言っているのだろう、もしやジョウトの古代語でもいつの間に習得していたのか。ズミは彼女の今しがたの言葉が解らなくて、頭の中が一瞬フリーズするのを感じた。予想だにしていなかったことに直面して、らしくもなく非現実的な考えに走りそうになった自分を止めながら思う。

留学を止める?今になって?あれほど志していたことを?何故だ?疑問が次から次へと、激流のように迸ってやまない。なのに呆気にとられたせいで、何と答えたら良いやら。

「私、留学止めたい……ううん、止める」

その間にプレサンスはもう一度ぽつりと、しかも口を開くごとにさらに強い意志を込めながら、またそんなことを繰り返すではないか。その横顔をまじまじと見れば、自分の話を上の空で聞いていた時とはまるで違う決然とした表情を浮かべていて。そして、愛してやまない相手のことくらいもう十分に知っているから確信できる……この声色は、本気だ。

しかしいくらそうだといってもエスパータイプではないのだから、言葉が無くては心のうちまでは読めはしない。「何故そのようなことを言い出すんだ、プレサンス」と、ズミは困惑しながら問うてみる。けれど。

「何でもない。ただ、止めるものは止めるってだけ」
「だから何故と訊いて」
「何でもないってば」
「言わなくては埒が明かないだろう」
「だから何でもないって言ってるじゃない」

素直に理由を言えたらなあ――言い返しながらプレサンスは思う。心配をかけたくなくて口に出さなかったけれど、遠く離れてしまうこと、そして何より彼とマーシュの関係への不安も。今の自分は、そんなもやもやを空気の代わりに入れすぎて破裂寸前の風船のようだ。でも、押し隠そうとする心と口は本心を塞いでしまうくらい心底意地っ張りで、言いたいことをまるで紡いではくれない。唐突すぎるし、引っ込みの付かないままやり取りを続けたところで何にもならないのに……自分に苛立ってしまう彼女だが、ズミも困惑の中に同じものを感じ始めつつも何とか押さえていた。こうして訊くそばからピシャリと跳ねつけられるばかりでは、このまま続けても押し問答になるだけだ。そう考えて、ひとまず直球で理由を訊ねるのは横に置くことにして質問を変えた――それがプレサンスをさらに刺激するとは思わずに。

「自分で何を言っているのか解っているのか?プレサンスは何かを途中で投げ出すような性分ではなかったはずだろう、それに目標やマーシュの面目はどうなる。不安であろうとは想像できるが、もう少し落ち着」
「……!」

ズミの口から出てきたその名前を聞いたプレサンスは、もう爆発寸前だった。きっと今の顔は苦しさに歪んで本当に醜いに違いない。

――また!またマーシュって言った!そもそも前からちょくちょく名前出してたけど普通彼女の前で女友達のことベラベラしゃべる?本当にズミって鈍感なんだからこの料理バカ!こんな顔見せたくない、1年なんてあっと言う間なんて強がりだったの、そりゃあ顔を見るくらいホロキャスターでもできるけど直接会うからには綺麗でいたかった、やめてこっち見ないで。色々な言葉にならない思いがせめぎ合いながら、風船にどんどん入り込み始めて、もやもやを受け入れる余裕はどんどん失われていって、反対側に顔を背けてから拗ねたように言った。

「もう私なんか捨ててマーシュさんと付き合えば。この際だからチャンスなんじゃないの、どうせ私なんかお邪魔虫なんでしょ」
「一体どうした!?答えになっていないだろう、そもそもどうしてマーシュと付き合う云々の話が出るんだ!彼女は友人で」
「やめて聞きたくない!やだ!」

もう一度耳にした――しかもズミの口がまた言った!――その名前に、プレサンスはとうとう我慢の限界を迎えてしまった。思いたくなかったけどこれってやっぱり嫉妬じゃない、しかもとんでもなく醜いのに、隠してきたのに見せてしまった!ズミが驚いた顔で見てくるのを背中に感じながらも、ソファの肘掛に突っ伏して自分の声とは思えないくらい大きくて、裏返った声の限りに泣き叫び始めてしまった。

「わ、私だってそりゃ不安よ、魂かけてる料理のためとはいえ好きなズミと離れて遠くに、カロスとはまるで違うところに行くんだよ?そう思わないわけないでしょ!?でもそう言ったら心配かけるじゃない、だから寂しいのと不安なの必死に隠してたのに!なのにそこに他の子の名前出されてもみてよ、感謝はしてるけど……ほんとは、ほんとは2人が仲良いのだってずーっと不安だった!でもマーシュさんと友達付き合いするのだってズミの勝手だし私がしゃしゃり出ることじゃないからって、ヒック、それもずっと言わないようにしてたのっ!でも……でも……もう、無理……ほんと……離れたら……ズミに、捨てられちゃわないか……不安、で……」

隠してたんじゃない、素直に言えなかっただけなのに。そもそもは自分が心の内を率直に明かせなかったことが全ての原因だったのに、本当にどうして治らないの。プレサンスは責任転嫁をしてしまう自分を叱りながらも、一気にぶちまけ終わったところで胸がいっぱいになった。話したくても喉が詰まったように伝えたい言葉が出てこない。涙は流れてやまずソファに張られたフェイクレザーの表地を濡らすだけ。最低だ、私。そう思いながらも。

「……ごめん。呼んどいて何だけど帰っ……!」

これ以上こんな姿を見られたくなくて俯せのまま言いかけた時だった。ズミに肩を掴まれそっと抱き起されて、そしてこれまたそっと彼の方へ向き合うようにさせられた。不思議だ。その手に込められた力は、限りなく優しい。

「こんなとこ見られたくないっ、……ひどい顔になっちゃった、から……帰っ、て……」

目から降り出した土砂降りの雨でずぶ濡れになった顔を見られたくなくて、そう促したけれど。

「帰らないからな。そもそもひどい顔などどこにある?一番美しいと思うプレサンスの顔しか見当たらないが……落ち着いたか?」
「う、うん」

いつものズミの険しい雰囲気が緩んだ柔らかな眼差しで、しかしさらりとそんなことを言われて。何故かそれが妙に嬉しいやら、ギャップが面白いやらでプッと吹き出したら、段々と落ち着きを取り戻せてきつつある気がしてきた。心なしか顔も火照っているように感じる。鏡で見たら赤かったりして――そう思いつつプレサンスは、やがて訥々と語り始めた。

「私ね、しつこいかもしんないけどズミのこと好きなの。大好きなの……普段あんまり言えない、けど、今みたいにちゃんと受け止めてくれる、から。だからね、すごく好きだから、私以外の他の女の子とも話したりするんだって思うだけでドロドロしたのが止まんないの。ほんと、そういうのやなの。私には私、ズミにはズミの世界がある。解ってるの。なのに止めらんないし、不安に思うのにちゃんと素直に言えない自分ももっと嫌になる」

照れ臭いけれど今度は本心をちゃんと伝えられた。でもなんだか自分らしくない気もする、いつもの強がりはどうしたんだって思われるかな……。

「そうか。そこまでプレサンスに思われているとはわたしも幸せ者だな」
「え……?」

だがそれは杞憂だったらしい。ズミの反応にプレサンスが驚いていると、今度は彼が思いを吐露する番だった。整った顔に苦悩を滲ませながら、言い聞かせるように。

「それはわたしも同じだ。プレサンスを愛しているが、それぞれの世界があると思っていることも、離れたくないと思っていることも。夢はもちろん応援している、誰よりも。そうでなければマー……いや、伝手のありそうな相手を当たることなどしない。しかし、しかし、カロスに留まってほしいと思うのも偽りない事実だ。だがわたしのエゴとプレサンスの強い志、どちらを尊重すべきかなど言うまでもないはずだ」
「ズミ……背中、押してくれるの……?」
「そう言っただろう。ともかくプレサンス、もっと自分を素直に出せばいいものを」

抱え込んでいた不安が、嘘のようにみるみるうちにしぼんでいく。代わりに、他の誰でもないズミに愛されているという幸せが体を包み始めた。ぬくもりがもっと欲しくなった。自分を、いつもまっすぐに想う彼が、本当に愛おしく思えて仕方がなくて。プレサンスがそっと寄り添って彼の手に自分の指を絡めれば、拒むことなく受け入れる優しさに甘えながら答える。

「……うん。私が悪いのに、イライラぶつけたりしてごめん。それとズミの気が移るの疑ったことも、ほんとにごめん」
「わたしも気が付かずに不安な思いをさせてすまなかった」
「いいの!だって、私もちゃんと言わなかったのが原因だし……でさあ、改めて訊きたいんだけど」
「何だ?」
「私とマーシュさん、どっちが大事?」
「……それは」
「それは?」
「恋人と友人はどちらも大事で、っ!」
「そういう時は私の方が大事って言うもんでしょ!ほんっと鈍感!」

恋愛ドラマに必ずと言っていいほど登場するやり取りだが、なんとも正直に答えたズミは、少しだけ不機嫌な顔をしたプレサンスに人差し指で頬を付かれて驚いた。涙の名残で潤んだ瞳、頬に走るその跡を付けたまま目を三角に吊り上げて――比喩とはいえ自分の眼の形といい勝負だ――怒りの表情を浮かべるというのはなかなかシュールなものだったが、その形相をすぐに笑顔に変えて言った。

「なんてね。ズミが私のこと大事に想ってくれてるんだってちゃんと実感した。突っついてごめん」
「それでこそわたしの愛してやまないプレサンスだ」

良かった、吹っ切れたか――涙の跡はさすがにまだそのままだが、悩みが去ってさっぱりとした表情を浮かべるプレサンスの様子にズミは安心して額に口づけを落とすと、彼女が嬉しそうに目を細めた。

「それでとにかくさ、こういうことこの先もたまにあるかもしんないよ、私達人間なんだし色々感情あるし。だけど私絶対ずーっとズミのこと大好きだからね。だからズミも私のことずーっと好きでいてよ?」
「ああ。絶対だ」
「絶対だからね?もしも約束破ったらハリーセン飲ますんだから。覚悟してよね、水タイプ使いさん」
「何故ハリーセンなんだ?」
「ジョウト地方とかでは約束しといて破ったらそう言うって本で読んだの。あっちに行くからには風習とかも勉強しておこうって」
「そうか……それは破るわけにはいかないな」

ハリーセン云々というのは、あくまで比喩表現であってまさか本当にそうするわけではないだろうが、あの棘だらけのポケモンを飲まされるというのはなんともいただけない。背中に少し寒いものが走るのを感じて、だから飲まされないためにも――つまりこれほど自分を想うプレサンスを泣かせないためにも、この約束を絶対に破るまいとズミは心に決めた。

「マーシュさんは教えてくれなかったんだ?」
「生憎と」
「ほんとに?」
「ああ」

頷いてみせると、それに気を良くしたのかプレサンスはまた話し出した。

「それと私がジョウトに発つ日って、あっちでは、えーと……あっそうだ、タナバタって呼ばれてるんだって。あそこに積んである『よくわかる!ジョウト地方の風習』って本で読んだんだけど、なんでもあるカップルが色々あってすごく広い川に阻まれて離れ離れになっちゃって、でもまた色々あって年に1度だけ会えることになったっていう伝承があるのね、それが7月7日なの。地方によっては違う日になることもあるっぽいけど。ともかくさ、なんだかこれからの私たちにちょっとだけ似てない?」
「確かに似ているな。特にどれほど離れようと、プレサンス以外に心移りをすることなどありえないところが」
「でしょ」

そう言って笑い合う2人の間にこれからしばらく横たうのは、川どころか広い広い大陸に海。当然触れ合うこともかなわなくなる。けれど、その分を補うかのように互いの手を握る指は、ズミがプレサンスの家から帰るまで固く結ばれたまま、どちらも解こうとはしなかった。



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