涙雨のち、ずっと(前)


出迎えたプレサンスと挨拶代わりのキスをしてから、通されたリビング。そこに空いたスペースはもうあまり無かった。小さくない荷物がいくつか、それとページの間から何枚もの付箋が覗いている本十数冊が壁際に寄せて積み上げられている。

「準備は順調か?」
「うん、色んな手続きはもう済んでる。今日は手荷物以外であっちに送る物の荷造りも終わったし明日送るの。飲み物注いでくるからソファ座ってて、アイスコーヒーでいい?」
「ああ。ありがとう」

ソファを勧めてから、リビングとつながっているキッチンへ向かう恋人の背中を見送り、ズミは改めて周りをそれとなく見回した。

目に入ってくるのはまず【送り先:ジョウト地方エンジュシティ オドシシが谷通上る】と書かれた荷札の付いた荷物。それから『ジョウト地方の料理――その神髄』やら『よく分かるジョウト地方の風習』やら、タイトルからしてかの地のあれこれについて解説する内容であるらしい本。そして目線を上げれば、壁に掛けられた今月のカレンダー。7日のところは赤ペンで丸く囲まれていて、余白には『出発』と目立つように大きく書かれている。引っ越すわけではないから家具類はほぼそのままだ。けれど、それを使っていたプレサンスが自分のもとをしばらく離れてしまう日は着実に近づいて来ている。今日が出発前に直接顔を合わせる最後の機会になるだろう。

できることならば夢のためとはいえカロスから遠く離れた地に行かないでほしい、それも1年も、だが……冷蔵庫を開け閉めしたりする音を聞きながら飲み物が出てくるのを待つ間、彼は抑えていたはずのそんな葛藤をまた感じ始めていた。



料理人の修行をしていた店で知り合ってやがて恋仲になり早数年。プレサンスは知り合ったそのころから念願だと口にしていた「ジョウト地方で修行をする」という目標を実現させ、7の並ぶ日にかの地へ発ち1年間留学する予定だ。ジョウト地方の料理は今や遠く離れたここ、カロス地方でも受け入れられすっかり定着していて、そういったレストランもそれなりに進出してきてはいる。だが彼女はそれには飽き足らないのだと言い、その理由とゆくゆくの目標についてこう話していた。

「胡散臭いローリングドリーマーとかよりも本場でしか解んないことがきっとあるはずだから、やっぱり一度はちゃんとジョウトで素材の活かし方とか、あと料理そのものの精神とか直接勉強したいんだ。そしてそういうもの色々取り入れて、もっと美味しい料理を生み出したいの」

――普段はドライなのに、料理のこととなると一言一言に燃えるような情熱をたぎらせて語る様子に惚れ込むまでに時間はさほどかからなかった。その姿もしばらく遠くなるのか……ズミが過去を振り返りつつぼんやりとそう思っていると、眼の前でコトリという小さな音と恋人の声がした。

「ちょっとどうしたの、なんかボーっとしてるよ?ズミらしくない」

見れば、戻ってきたプレサンスがアイスコーヒーのグラスをリビングテーブルに置いたところだった。不意に話しかけられると思わず本音が漏れるなどというが、それは自分にも当てはまることだったらしい。

「……いよいよ長い間離れてしまうことになるのかと思ってな」

横に座ったプレサンスの問いかけに、寂しいと思う心の中がこぼれ出た。

だが、彼女はというと。

「大げさなんだから。長いって言ってもも1年でしょ、永久にってわけじゃないし」
「それはそうだが」

しばらくの別離について特に何か思っているわけではないらしい。実にあっけらかんと言うものだから、ズミは少し拍子抜けした気分だった。

物事を率直に言う自分とは違い、照れ隠しや強がりで本音を言わないふしがある彼女の性格上仕方がないのかもしれない。しかし自分とのこの温度差はどうしたことか。出発直前の慌ただしい中に時間を作って招いてくれた、ということはプレサンスも会いたいと思ったからだろうし、それは嬉しい。けれどこの様子からして、寂しいと思っているのは自分だけであって、空回りしているのではないか?

なんだか気恥ずかしささえ感じ始めながら、ズミはそれを忘れようとして飲み物を一口飲んで口を開いた――プレサンスが隠した思いに気が付かないまま。

「それはそうとマーシュからも伝言で、信頼のおける良い店だから頑張ってほしいと」
「わかった。あっちで落ち着いたらお礼の手紙でも出しとかないとね」

……また、マーシュって言った。素直に本音を言えなかった自分を叱りつつ、そして芽を出していた不安の種が育っていくのを、アイスコーヒーを飲むのに紛らわせて根こそぎ流し去るように答えながらも、プレサンスは内心穏やかではなかった。


ズミの友人の一人である、歴史の国から来た乙女。彼女と直接顔を合わせたことは一度しかないプレサンスだが、他ならぬ恋人のズミがマーシュと交友があることに前々から複雑な感情を抱いていた。

とはいっても嫉妬とかそういったものではない、とプレサンスは思う。ズミと別れるように言ってきたとか、彼を誘惑して略奪しようとしたとか、恋路の邪魔をされたわけではまったくないし、ライバルと呼ぶような存在でもない(むしろこうして夢への後押しをしてくれてさえいるのだから)。けれど、かといって彼氏の仲の良い女友達だと気楽に捉えるのも違う、なんとも名前を付けにくいがあえて付けるのならもやもやした思いとも言えた。

思えば、そもそも今回の留学先が決まったことだってマーシュのおかげだ。ジョウト料理の本場はエンジュシティだから、プレサンスはそこにあるどこかの店で修業をしたいと思っていた。とはいえ、良く言えば保守的、悪く言えば排他的な土地柄のことも情報を集める中で知ったし、そう簡単には決まらないだろうという覚悟もあった。

だが、予想以上に苦労する羽目になり、そのことをあるときプレサンスはズミにぼやいた。すると彼がそのことをマーシュに話したところ、彼女が伝手を辿り受け入れても良いという店を探し紹介してくれたのだ。後日詳しいことを打ち合わせるために初めて顔を合わせた際に知ったが、彼女がカロス地方へ来る前に贔屓にしていた縁だとか。頭が上がるかと訊かれたら否と答えるほかない。

ともかくそんなわけで話がまとまったが、そういう相談をもちかけて動いてもらえるからには、ズミとマーシュの仲は悪いわけがない。ただ、プレサンスはどういう経緯で2人が知り合って今に至るのか、訊いたことが無かった。恋人だからといって彼らの間に立ち入り探るような真似をするのは嫌だったのだ。ズミにはズミの、私には私の世界があるんだし、と考えて。それに紹介してくれたことのお礼を伝えたら、マーシュは「大事なお友達の大事なお人のためやもの」と答えたのだから、ズミのことは友達だと思っていて「そういうこと」はないはずで。もしそうでなければ彼から愛している、恋人になってほしいと言われた自分は恋人でなくて何だというのか。そう考えてきた……今までは。

でも、なんだか最近は出発の日が近づくにつれて、プレサンスの不安は膨れ上がっていくばかりだった。ジョウト地方はカロス地方からずっと遠い。離れた分、ズミの心が私から離れちゃうのかな、それで前から仲の良かったマーシュさんと付き合いだしたらどうしよう……現地では当然色々なことが違う分、慣れないこともあるはずだからその不安もあるけれど、そのこと以上に急に怖くて仕方がなくなってきたのだ。

おまけに「1年くらいあっという間に経つのだから寂しくなんて」などと、自分の心の中で思っているだけならまだ良かったが、ズミにもそう言ってしまったなんて……出発の日にも空港で見送ってもらえることにはなっているが、その前に2人きりで過ごしたくてせっかく来てもらったのに、どうして素直に寂しいって言えなかったんだろう……この性格は損だと、プレサンスは自分でもつくづく思う。そしてその間にも、必死に押し隠してきた不安が徐々に水嵩を増して、どんどん自分を浸食していくのが解って。

そうだよね。プレサンスは心の中で呟いた。初めてマーシュさんに会ったとき見惚れたもの、元モデルっていうだけあって綺麗だし。それに私満足にバトルしたこともないけど、四天王とジムリーダーなんて実力もある同士だしお似合い……ズミが何やら話しかけているようだが、音を吹き込み忘れた映画でも見ているみたいにまるで耳に入って来ない。気分が沈んでいくのとシンクロするように目線の位置も下がっていく。と、厨房で負った火傷や切り傷の跡がうっすらと、だがいくつも残る自分の手を見てひどくがっかりしてきて。これまでは仕事の勲章だ、美しいとひそかに誇りに思っていたのに自信が無くなっていく。ズミは食にもバトルにも「芸術たりえる」美しいものを求めるひとだ、そう思ってもらえはしないのかも。その点でもあの人はデザイナーなんだから美的センスもあって話が合うんだろうな……。

思考はどんどんマイナスの方向へ加速していく。惨めで不安な気分に抗えずに押しつぶされてしまいそうで、もがけばもがくほど辛くなって。逃れたくてどうしたらいいのか、考えて――やがて、プレサンスは思った。それならいっそここで取り止めちゃえばいい。ぎりぎりだけどまだ間に合う。それはもちろん色々な料理のことを学びたいとも思ってる、だけど留学を今焦ることなんてないじゃない、そうすればこんな苦しい思いせずに済むんだし……唇を引き結んだときだった。

「……それで……どうした、プレサンス」

話が耳に入っていそうにない様子を不審に思ったズミに、不意に話しかけられて。

「私、留学やめちゃおっかな」
「!?」

プレサンスは驚きに目を見開く彼に構わず、決意の揺らいだ本心をこぼしてしまった。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -