悪戯心をいただきます


ぐぅ。
「あっ」
今いる部屋の様子に見とれていたプレサンスはお腹のコフキムシかはたまたビードルか、とにかく虫タイプがひときわ大きく鳴く声にはっと我に返って小さな声を上げた。これはお腹が空いたってことかななんだか恥ずかしいな、と思いながら時計を見ればやはり針がいつの間にか頂点へ向かって動いているところだった。やっぱり、それならお腹が空いたって仕方ないでしょと誰に言うでもない言い訳をしながら幸せをかみしめる。
付き合い始めたばかりで今日初めて訪れたズミの部屋は何もかもが新鮮だった。白い家具と青いファブリックで統一した室内が大きな窓から差し込む日差しを受けてなんだか輝いているように見える。ミロカロスを象った置物がある。紅茶が注がれた白地のカップにも青い模様が美しく映えている。加えてこれはやはり職業柄だろう、リビングから見える広々としたオープンキッチンはよく整理整頓され磨き上げられていて彼の性格を伺わせた。シンプルだが家具に詳しくなくても良いものだと分かるインテリアやそれを選んだズミのセンスにただただ惚れ惚れしてぼうっと見入っていたら、30分かそこらの時間などあっという間に過ぎていた。ズミさんらしいなあ、こういうお部屋で暮らしてるんだ。目に入るもの全てをそう思いながら眺めていた。
…だが、新鮮なのはそういったものだけではなくてもう一つ――ソファの隣に掛けるズミのいつもとは違う横顔だ。何やらリビングテーブルに置いてあったノートのページを長い指で繰っている彼を見ながらまたドキドキと心臓が騒ぐ。今日は、というより誘われた日から今日まで好きな人が普段過ごしているところへ招かれたとあって胸は高鳴りどおしだし、そして出迎えられた瞬間からまたいっそう加速している。何よりオフの日の顔を初めて見た微かな興奮も相まってまだまだ収まりそうになかった。素敵だなかっこいいな、とそっと見ていると、視線を感じ取ったらしいズミがプレサンスの方へ向いて口を開いた。
「プレサンス、今日は何を召し上がりますか?あなたの好みそうなランチ向きのメニューのレシピを何枚か選んだのですが」
「えっランチ?作ってくれるんですか?」
「無論です、このズミが腕を振るうといたしましょう。いかがですか?」
指し示すテーブルの方を見れば、確かにそこには彼が書いたとおぼしきレシピが数枚あった。先ほどめくっていたのはレシピノートか何かだったようだ。それにしてもなんという願ってもない幸せな申し出だろう。途端に顔がぱあっと輝きだすのが自分でもわかった。恋人が、それも伝説のシェフとも噂されている彼が自分のために振る舞うと言うのだから一も二もなく乗るに決まっているではないか。心なしかお腹の虫タイプも喜んでいるような気さえしてくる。
「ホントですかやったあ!えっと、どれがいいかなあ」
無邪気に喜ぶプレサンスの様子を見たズミはふっと微笑した――かけている銀縁眼鏡のブリッジをクイ、と押し上げて直しながら。怜悧な雰囲気を強めていながらも、同時に険しい眼がレンズ越しに優しく見えるのだから不思議だ。眼鏡ってこんなに人の雰囲気を変えるんだ、とプレサンスの心臓はまた跳ねる。彼女は生まれてこの方視力が悪くなったことはないし、家族や周りの友人も皆目が良いほうで眼鏡に縁がなかった分とても新鮮に映った。何してもかっこいいんだからいいなあ、お料理もバトルも、それに眼鏡をかけても。部屋に続いて新しい一面を見ることができたのが嬉しくなって言った。
「そういえばズミさん」
「何でしょう」
「その…メガネ、ほんとに似合っててすごくかっこいいですね」
出会ったばかりの頃の彼は刺々しくて近寄るのが少し怖かった。けれど、ただひたすらに美食を求めて自分の道を進み続ける生き方とその姿勢に迷いが無いことにだんだんと惹かれるようになって。チャンピオンになったからには彼のそれこそお眼鏡に適いたくて、バトルにも何もかも全身全霊を打ち込んでようやくこうして彼の隣にいられるようになった。そして今日のように色々な面を見ることができるようになった。好きです、って勇気出して言って良かったな――プレサンスはそんな思いを口に出したわけではないけれど、瞳を輝かせる恋人が贈る裏表も媚びもない素直な称賛はズミの耳にとても心地よく響いた。
「ありがとうございます」
「いつもはメガネかけてないですよね?裸眼ですか」
「いえ。シェフの仕事をする時やバトルに臨む時はコンタクトレンズを、今日のようなオフの日は眼鏡といったように使い分けているのです」
「そうだったんですか。でもどうして?」
「眼鏡をかけたまま料理やバトルをしては湯気や水飛沫でレンズが汚れます。その都度拭っていては手間がかかりますし、何より視界が悪くなればタイミングを見誤り両方とも台無しになりかねません」
「なるほどそっかあ、確かに面倒そうですもんね」
説明に新たな発見をした気分で頷きながら不思議に思う。メガネをかけてる時とそうじゃない時ってどれくらい違うんだろ?好奇心を刺激されてまた尋ねてみる。
「メガネもコンタクトもしてないと見えにくいものなんですか?」
「ええ。わたしは強い近視ですから、近くの物が特に見え辛くなります」
「そうですかー」
訊きながら好奇心は更に膨らんでいく。見えにくいってどれくらい?それに好きな人が使っているものを自分も身に付けてみたくなってもきた。だが、そこでどうしたことか悪戯心が首をもたげ出した。普通に貸してと言うのはなんだか芸が無くて面白くない。そうだ、それならちょっと驚かせてみようかな――普段は見えない部屋や眼鏡をかけた姿を見たことがきっかけで、もっと他の面も見てみたくなったのだ。驚いた時はどんなするんだろう、また新しい面が見られたりしないかな。
そんな期待を胸に悪戯を仕掛けてみたくなったなら、することは1つだ。
「じゃあ…この状態でどれ位見えるんですか?」
「! こら、返しなさい」
ズミの顔に手を伸ばし、眼鏡をそっと外すと自分の顔にかけてみる。初めての眼鏡が好きな人がかけていたもので嬉しいのと、レンズ越しに恋人の少し慌てた顔が――またいつもと違う顔が見えたのとでプレサンスは歓声を上げた。
「わあーこれがズミさんがレンズを通して見てる世界なんですねー!目の前が分厚く見えるーすごーい!」
「話を聞きなさいそして返しなさい!見えにくいではありませんか!」
一方突然の行動にズミは一瞬虚を突かれ悪戯を許してしまい焦っていた。視界がぼやけてしまうし、何よりこれでは恋人の顔だって見づらくなってしまうというのに彼女ときたら!これはなんともいただけない悪戯だ。クリアな視界を取り戻そうとするけれど、プレサンスはそんな思いを余所にまだ眼鏡をかけたままだ。ズミがかけていた時にフレームに移ったらしいほのかな体温を感じられたのが嬉しいやら、いつも表情をあまり崩すことの無い彼が焦っているのもまた新鮮やらなんだか面白いやらでクスクス笑って彼の表情の動きを楽しみながら。
「取られてはプレサンスの顔がよく見えないでしょう、返しなさい」
「えっ嘘、こんなに近くにいるのにですか?」
「近くが見えにくくなると言ったでしょうが!」
こちらは不便な思いをしているというのに!自分の予期せぬことをされるのが嫌いなズミの声は段々と不機嫌さを孕みかけてきていた。だが調子に乗ったプレサンスは気が付かない。ああなんだか面白い、ズミさんが焦れば焦るほどもっともっと悪戯したくなっちゃう。あっそうだまたいいこと思いついた!いい気になって彼を刺激することに気が付かないまま、更に心の中で企んだことをしてみようとほくそ笑んで、でも顔には出さないで。
「分かりましたよ返しまーす」
「全く、早く返せばいいものを。料理にありつけなくなりますよ」
ぶすくれた声で言いながらも眼鏡を外す様子がぼんやりとだが見えて、ズミはようやく返す気になったか、と手を差し出して受け取ろうとする…が。プレサンスはまだ握ったまま言う――口元をにんまりさせて。だが見えていない彼は気が付かないままだ。
「そういえば見えにくいって言ってましたよね、メガネ無いと」
「ええ、ですからすぐ返すようにと先ほどから言って」
「はぁい…じゃあ、これくらいなら見えます?」
「な、っ」
眼鏡を返す仕草をしかけた、が。プレサンスは差し出されたそれに気を取られた彼に顔を近づけて。ズミがいきなり視界に大写しになった恋人の顔に面食らっていると、ちゅ、と音がした。その音に彼女が唇を重ねてきたのだと気が付いた時には軽く3度以上は自分のそれが奪われていて、またしても驚いてしばらくそれを受けるがままになっていた。

そうしてプレサンスがズミの唇を味わったあと。
「はいっ不意打ち大成功!ズミさんの驚く顔もかっこいいですねーごちそうさまでーす、あっメガネ返しますね」
顔にかけてきたそれのおかげでぼやけていた視界が元に戻り、とても満足そうに笑いながらご満悦といった風のプレサンスが視界に入ってきた。
しかしそんな彼女とは反対にズミは実に不機嫌だった。顔に朱が走っているのが分かる。キスをされたことにではなく振り回されたことに、だ。顔を褒められたのはいいとしてしてやられた、これではどうも癪だ…それに「ご馳走様」だと?思い返せば料理を振る舞うところだったというのに。彼女は満足したという意味でそう言ったのだろうが、悪戯はさておき自分の料理を味わう前にそう言われるなどシェフとしてのプライドが許せない。どう意趣返しをしてやったものか…よし、それならば。しばし思案して、今度はズミが反撃に出る番だった。
「あ、そういえばまだレシピ選んでなかったですね。ズミさんのお料理だー迷っちゃうなあどれにしよ、っ!?」
プレサンスはのんきにそう言いながらテーブルの上のレシピに手を伸ばしかけていた。先ほどまでのことをけろっと忘れたかのようだ。
だがズミはそれを遮るように手を掴んでくい、と自分の方に抱き寄せてこちらを向かせると、掴んだ手はそのまま指を組み。そしてもう片方の手はソファの座る面に置かせて、その上からそっと痛くないくらいの強さで押さえるように自分の手を重ねてプレサンスの顔を覗き込む――つまり、彼女は体を半分捻るように彼の方を向かされている状態になっていた。
今度はプレサンスが面食らい半分、見とれ半分になった。見下ろしてくるレンズ越しの三白眼の中の瞳は、少し不機嫌そうでありながらもどこか楽しげに何かを企んでいるかのような光を浮かべている。まずい、調子に乗ったせいで怒らせてしまったかとプレサンスは今更ながら焦り出した。しかし何故なのだろう、とても鋭い目なのに怖くない。もっと見ていたくなる、見つめられたくなる。眼光に縛られたかのようにぽうっと見とれながら尋ねれば。
「どうしたんですか」
「悪戯へのお仕置きとして、プレサンスの唇をいただくことといたします。ああ、料理はしばらくお預けですよ」
「えーっ!」
ズミがしれっとした顔でそう言ってのけたことにプレサンスはひどく慌てた。ああ、これって怒らせちゃった!?しかもお腹もそうこうしているうちにもっと空いて、お腹のコフキムシはハイパーボイスでも覚えたかのように先ほどから唸りどおしだ。
「いえあのあれはっていうかああもうお仕置きなんてやだーごめんなさーい!というか手離してくださいよレシピ選べないしもうしませんしお腹すきましたからー!」
自業自得とはいえ彼が腕を振るう料理にありつけないのは嫌だ、謝ろうとして支離滅裂気味になりながらも舌を高速で回すけれど。
「いいえ、悪戯をする手にもお仕置きが必要ですので…それに案ずることはありません、空腹は最高のスパイスなのですから」
時すでに遅し。答えになっているようでいないその言葉を紡ぎ終えて近づいてくる唇は弓なりで――そういえば、目は口ほどになんとやらという言葉があったような。見下ろしてくるレンズ越しの眼は相変わらず格好良くて――そして口もないのに「料理はしばらくお預けですよ」とはっきり言っていた。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -