未来確定図


届いた資料や文献を開封して、分類して、スキャナにかけてデータ化して。そんな作業の合間にも、プレサンスは一粒ダイヤが眩しいエンゲージリングが輝いている左手の薬指に目をやっては笑みをこぼしていた。今は仕事中だから抑えているし手も塞がっているのでできないけれど、プロポーズを受けて指に嵌めてもらったすぐ後から暇さえあれば鼻歌など歌いつつこの指輪を撫でるのがすっかり癖になってしまった。この世で一番固い宝石なのだからそんなはずがないけれど、終いには撫ですぎてすり減ってはしまわないだろうかと心配になったこともあったほどだ。
――ただ。今鼻歌を歌う気にならない、いやなれないのは仕事中だからというだけでもない。それでも指輪を見ていれば今自分を襲っている痛みが紛れる気がしていたのだ。
が、見つめている間にするべきことが頭から抜け落ちてしまっていたらしい。
「気に入ってもらえてるみたいで嬉しいよー。でもそんなに見つめてるとボクが贈ったものだっていうのに妬けてきちゃうなあ」
「わっ」
指輪に見とれている間に近くに寄ってきていたプラターヌに甘いテノールで囁かれて我に返った。いけない、今は作業の真っ最中だったと思い出す。やんわりと指摘されると怒られるよりもなんだか却って申し訳ない気がしてくるのは不思議なものだ。
「ごめんなさい、集中してませんでした」
「幸せに輝かんばかりっていう言葉は今のプレサンスのためにあるに違いないねー!それはそうと読み込みはどんなペースかな?」
「あ、あと10ページで終わります」
「ありがとう助かるよ。よーし頑張ろっか」
「はい!」
苦しさを隠して返事と一緒に笑顔を向ければ、彼も微笑み返してまた資料の読み込みに取り掛かった。
ああ、幸せだなあ。手が止まっていたのに詰るでもなくさらりと褒めてくれてさりげなく仕事に戻るように促してくれた。いつも優しくて素敵な博士と結婚できるなんて夢みたい――でもあとは、これさえなければ言うことなんてないんだけど…プレサンスは何でもないふりをしてまた資料を封筒から取り出した。プラターヌが背を向けて先ほどまでの作業に戻ったのを見て、忘れかけていたのにぶり返した痛みを少しでも和らげられたらとそっと下腹部を撫でながら。

いつも詩のように甘い言葉を囁いてくれるプラターヌからの「ボクと結婚してくれませんか」という飾らない直球のプロポーズを受け、晴れて婚約してから早いもので数か月。結婚に向けて色々と準備を進めてきたが、今日は早めに来て大量の資料にざっと目を通してから家具を見に行く予定だった。今はそれほどでもないがこれから学会が立て込む分時間がいくらあっても足りないほど忙しくなるのだからその邪魔にならないよう、そして式や新婚生活にちゃんと間に合うよう、今の時期に済ませられることは済ませておこうとプレサンスから提案したのだ。
だが心配をかけたくなくて口にこそ出さないが、彼女は今日訪れたばかりの一月に一度の憂鬱に悩まされていた。見えない手に繰り返しお腹の奥をゆっくり、しかし強く握られるようなあの痛みは何度経験しても嫌なものだ。女に生まれた以上避けられないことだけれど、それが何故憂鬱な気分になったり痛みに苦しんだりといったものでなくてはいけないのだろう。痛みは増す一方だしこの調子では行けるかどうか。かといって準備はできるだけ早くしておこうと言い出したのは自分なのだし、それに今日を逃したら次にいつまとまった時間が取れるかもわからないのだ。元からこの時期の痛みは軽いものではなかったのだから来る前に鎮痛剤を服んでおきさえすればこんなことには、始まりの頃は軽いからと油断したのが良くなかった。それにしてもよりによって今日こんなに重くならなくてもいいじゃない…データ化をなんとか終えて今度は資料の原本をファイリングする作業にかかる。内心で自分の迂闊さも責めつつ、痛みを紛らわそうとパンチで穴を開ける作業に力を込めて資料をファイルに綴じ込む下準備をする。
けれど時間が経つにつれて症状はさらに悪化していく。見えない手は力を強めてプレサンスを襲いそのせいで明らかにペースが落ちていた。これでは資料整理にも予定にも響いてしまう、お願い良くなってと誰に言うでもなく願うけれどその甲斐も無くて、気が付けばじっとりと脂汗まで浮いている。まずい、今日は今までにないくらい辛い…そう思った時だった。
「ううっ…」
「プレサンス?」
とうとう我慢が利かなくなるくらいの痛みの大波に襲われたプレサンスは声を上げてその場にうずくまってしまった。小さなうめき声だったけれど、少し離れたパソコンのディスプレイを見ながら論文に引用できそうな箇所を探していたプラターヌは耳ざとく聞きつけた。異変に気が付きプレサンスのもとに駆け寄って顔を覗き込むや、彼は途端に驚きの表情を浮かべて叫んだ。
「! 顔が真っ青じゃないか、それにこんなに汗までかいて」
「だい、じょうぶ…」
「誰がどう見ても大丈夫じゃないよ一体どうしたんだい!?」
口では反射的にそう言ってしまったものの治まる気配は全くなかった。いつもの穏やかさをどこかへやったプラターヌの言う通り、確かに大丈夫とはもうとても言えなくなっていて――
「…お腹…痛、い… …」
「プレサンス!?しっかり!」
力を振り絞ることができたのはそこまでだった。慌てる彼にやっとのことでそれだけ訴えると、プレサンスは痛みにもう口を開く余裕すら失くしてぐったりと目をつむってしまった。

「どうすれば…」
ひとまずプレサンスをソファのある応接間に連れて行って横にさせてから、プラターヌは大事な婚約者の一大事に何をすべきなのか必死に考えを巡らせた。この状態はただごとではない、早く何とかしないと。とは思うけれど、いざこういった事態に直面するとなると動揺してなかなか行動に移せないことにもどかしさを募らせながら――何より近くにいながら具合が悪いことに気が付けなかったなんて不甲斐ない、と自分に苛立ちながらも対処方法を考える。お腹が痛いと言っていたけどまさか…?いやそれはない、プレサンスとはまだ清い関係だし何より彼女に限って自分を裏切るわけがないからその線はないはずだ。ともかく理由が何であれ体を冷やすのは良くないだろうから何か羽織らせるか掛けるかしないといけないな、あとはホットミルクでも作って…とはいってもグズグズしていてはプレサンスが苦しい思いをしてしまうのに、周りを見回しても何か上にかけられそうなものがあいにくと近くに見当たらない。ブランケットを探して持ってこようか、どこにしまったっけ――だがそこまで考えて閃いた。そうだ、掛けるものを探して時間をかけるよりも今はプレサンスが少しでも楽になるようにする方が先だしとにかく体を覆えればいいんだから何もそういうものに限らないじゃないか!プラターヌは白衣を脱いでプレサンスにかけてやってから足早にキッチンへ急いだ。

ホットミルクを作って戻ると部屋は先ほどよりも暖かくなっていた。暖房を入れてたかなあ、と独り言を言いかけて周りを見回した時その理由が分かった。いつの間にかボールからヒトカゲが出て来ていたのだ。よく見知ったプレサンスの異変を彼も感じ取ったか、ソファに横たわる彼女を心配そうに見上げながらその方へ炎を宿す尻尾を向けていた。どうやら温めようとしているようだ。ヒトカゲは戻ってきたプラターヌに気が付くと何とかしてあげてと言いたそうに見つめて来たので、それを受けて頷くとそっとプレサンスに話しかけた。
「プレサンス、具合はどうかな?ホットミルクを作ったけど飲めるかい?でも無理に今すぐ飲むことはないからね」
「ん…のみます…」
呼びかけにプレサンスは薄目を開いた。ヒトカゲも力を貸してくれたおかげで体が暖められたか、先ほどまでと比べて少し気力を取り戻したように見える。体を起こそうとするのでそっと助けて口元にマグを運ぶと、少し中身を啜ってからほっと息を吐いた。
「助かりました…」
「大丈夫?救急車呼ぼうか?」
「ありがとうございます…でもだいぶ良くなったから救急車はいいです」
「本当に何ともないのかい?」
「あ、はい…それにしても、あんなに重くなっちゃうなんて思わなかった」
ごちるように呟く様子を見守っていたプラターヌもそこまで聞いて原因を何となく察した。お腹の痛みを訴えていて、それに「重い」となると…そうかもしかしたらアレかな、と心の中で呟く。もしそうなら男の自分から女性の一番デリケートなことについて口に出すのは控えたいので言わない代わりに、それならこうするのがいいんだっけなと手を伸ばして。
「良くなーれ、良くなーれ」
お腹に乗せた手をあやすように優しく動かしてさすり始めた。手のひらからじんわりと伝わるぬくもりは何にも勝る最高の特効薬だ。それが嬉しくて少し微笑ったプレサンスの様子を見て彼も安心した。よかった、笑えるくらいには回復したみたいだ。大事にならなくて本当によかった。
「ちょっと痛くなくなってきました。ありがとうございます」
「いやいや、こんなことくらいしかできなくてごめんよ」
ミルクの香りがする甘い吐息を吐きながらトロンとした目で見上げるプレサンスと、それを受け止めて優しい眼差しを注ぐプラターヌと。ヒトカゲは見つめ合う2人のそんな「いい雰囲気」と自分の役目が果たされたことを理解したようだ。ソファのそばから離れると自らが入っていたボールのもとへ戻ってスイッチを押し、出た光線を浴びてその中へ収まった。健気で賢い彼にプラターヌもプレサンスもありがとう、と声をかけるとそれに答えるかのようにカタリとボールが動いた。それを見届けたプレサンスははあ、と溜息を吐き。
「ごめんなさい…迷惑も心配もかけちゃった」
申し訳なさそうにうなだれながら謝った。
「そんな、迷惑だなんてとんでもない!大事なプレサンスが苦しんでるのを放っておけるわけないよ。むしろボクの方こそ辛いときに気が付かなくて無理をさせてしまったね…本当にごめんよ」
「いいんです。だけど今日の予定が…それに資料もファイリングしないと」
「家具を見に行くこと?あはは大丈夫大丈夫、家具は足や羽を生やして逃げたりなんかしないからねー!ファイリングは急がないでまた時間のある時にすればいいさ。その前に何よりね」
「え?」
恋人、いや将来の夫はやおら左手をそっと持ち上げてエンゲージリングに口づけを落とし。そして真剣な表情を浮かべて力強く、でも先ほどまでの柔らかな眼差しはそのままに言った。
「これから手を取り合って生きていく、ボクの大事なたった一人のプレサンスじゃないか。いたわるのは当たり前のことさ」
その言葉にプレサンスは顔が勝手に微笑みを浮かべるのを抑えられずに頷いた。最愛の人の大きな手の平と彼が纏っていた白衣のぬくもりが痛みを癒していくのと、そしてこれほどに自分を想ってくれる人と一緒に歩んでいける幸せが体中に満ちてくるのも感じながら。



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