猫撫で日和


言い出した以上やらなくちゃだめ、とプレサンスは自分に言い聞かせた。だがまだ心の中では言わなきゃよかった、という後悔がリフレインしてやまない。加えて頭に付けた「それ」も憂鬱の種だった。土台がカチューシャだから頭を締め付ける分あまり付け心地がいいとは言えないのだ。恋人の部屋とセンスのいいデザインのソファはそんな後悔の堂々巡りを続ける彼女を優しく包んではくれる。ただし、それだけだ。プレサンスのとある感情――気恥ずかしさまでは勿論どうにもすることはできない。
そもそもなぜあんなことを言ったのだろう。はあ、今度はため息が出た。全てはプラターヌに仕事をちゃんと全うしてほしかったからだ。だがもっと別の選択肢があっただろうに…。脳内に浮かぶことはまた振り出しへ戻った。というより先ほどから思考が何か強力な接着剤で固められてしまったかのように動くことなくそのことばかり考えている。それにしてもよりによってなぜ…。あの提案をした自分と今恥ずかしがっている自分は果たして本当に同一人物なのだろうかとさえ思ってしまう。
「はあ、やっぱり止めればよかった…」
自分はなんてことを請け合ってしまったのか、と後悔しながらごちた時だ。
「おや、なーんか忘れてるんじゃないかいプレサンス?」
「う…」
独り言はプラターヌの耳に入ってしまったらしい。キッチンから戻った彼はにやにやしながら部屋に入ってきた。先ほど飲み終えたカフェオレのお代わりが注がれたマグをソファテーブルに置き、ソファに腰かけるプレサンスの横へ座った。そしてそうするや顎をクイと持ち上げて、彼女の一番好きな、耳の奥まで届いて心もとろかすような声――それこそ猫撫で声で話しかけてくる。
「ボクは約束破りのニャオニクスちゃんは嫌いになっちゃうよー、ほらほらテイク2行ってみよう?はい、いち、にの、さん!」
二人の表情はまるで違う。かたや甘いマスクを崩して至極楽しそうに促すプラターヌに、かたや今にも恥ずかしさと恋人の格好よさに叫び出しそうなプレサンス。もう、その顔と声に弱いの知ってるくせに…ヤだなんて言えなくなっちゃう。先ほどからの恥ずかしさと相まって顔が赤くならないわけが無かった。
そう思いながら口をもごもごさせたのち、少ししてプレサンスは言い直した――もともと付いていた方の耳を真っ赤にして俯きながら。言いだしたのは自分だからしなくてはいけない。でもそれでも恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
「や…やっぱり、止めればよかった…にゃお」
付けた耳――布製のパーティーグッズであるメスのニャオニクスの耳は付けている人物の心中なぞ知る由もない。俯いたプレサンスの頭の動きに合わせクタリとしなるだけだった。

ことの発端は、一昨日プレサンスがプラターヌの前にとあるニンジンをぶら下げたことだった。恋人にして上司でもある彼の専門分野であるメガシンカについての学会発表が目前に迫りつつあった。だがそろそろまとめなくてはいけないのに行き詰まり、彼はカロス人お得意のストライキを決め込む寸前まできていたのだ。
しかし仕事にかけては妥協を一切許さないプレサンスはそんな状況を許せずにこんなハッパをかけた――「明後日までに原稿ちゃんとしっかり仕上げられたら、私は一日ニャオニクスの耳付けて語尾に『にゃお』って付けて過ごしますよ」と。
そんないわば「ニャオニクスごっこ」は、これまで何度もねだられたけれど恥ずかしかったので断ってきたことだった。だからその分それを果たすと約束すれば彼の原動力になるのではと思ったのだ。
するとそれを聞いたプラターヌは俄然やる気を起こした。ここのところ一日に数百字書ければよい方だった発表原稿を驚異的なスピードで、しかも今すぐ発表に使えるくらいの完成度で仕上げ。そして唖然とする彼女ににっこりと笑いながら、ニャオニクス耳の付いたカチューシャをずいっと押し付けるように渡してきたのだった――「約束だもんね?いつか念願のかなう日のためにばっちり用意してたんだよー!」という言葉と共に。
プレサンスは驚きひどく慌てた。やる気を起こさせようとして言ったけれどまさか本当にしてのけるとは思わなかったからだ。あくまで仕上がりがもう少し早くなれば、ぐらいの気持ちだったのに。だが言いだしたのが自分である以上言葉を曲げるわけにもいかない。かくして約束通り頭にはカチューシャを、そして語尾には『にゃお』と付けて過ごすことと相成ったのである。

「ん?どうしたの下向いちゃってさ、ボクの可愛い可愛いニャオニクスちゃんはてれやな性格なのかなー?」
先ほどからのにやにや笑いを浮かべたままプラターヌが顔を覗き込んで尋ねてきて、プレサンスは真っ赤な顔のまま答えた。
「は、恥ずかしいに決まってるじゃないですか…にゃお。でも約束は約束…にゃお。だからやってるん、です!…にゃお」
「あはは、プレサンスも変なところで律儀なんだからさあ…それにしてもそもそもどうして言い出したの?今までボクがどんなにお願いしてもこういうことしてくれなかったのに。だからこそプレサンスの方から言い出したこんなまたとないチャンスを逃すわけにいかないぞって思って頑張れたんだけどね」
そこまで訊けばプレサンスが口を開いた。今度は俯いていた顔を上げて。
「だって…博士にちゃんとお仕事頑張ってほしかったから、にゃお。正直言えばあんなに早く仕上げるなんて予想外だったけど…じゃなきゃ、してない…にゃお」
「そっか。ボクのこと思ってしてくれてるんだね、すごーく嬉しいよ。ありがとうプレサンス」
言葉は途切れ途切れでも、自分を思ってしてくれているのだという気持ちは十分に伝わってくる。しかも恥ずかしさまでこらえて。これ以上ないくらいの幸せがこみあげてくるのを感じながらプラターヌがそう囁くと。
「…そう喜んでくれるなら…これも悪くないかも、なんて。にゃお」
プレサンスもはにかみつつもそう答えてくれて、彼の幸せはとうとう頂点に達した。
「うわあ…ちょっとプレサンスそれ破壊力ありすぎるよ…!」
彼はここが自分の部屋で本当に良かった、と心の底から思った。いつものクールぶりはどこへやら、恥ずかしがりながらもそう言ってくれるなんてなんと可愛らしい恋人なのだろう!やはり持つべきものは有能でそして可愛い助手兼恋人だ、と格言もどきを拵えたあと。
「よーし、そんな可愛いニャオニクスちゃんにはご褒美だよー」
ご機嫌に任せて指を顎の下に伸ばす。そして良い子良い子、などと言いながら本物のニャオニクスにするように撫で始めた。
「ん…ふぁ」
ああ、なんだか気持ちいい。プレサンスは思わず悩ましげな吐息を漏らして目を細めた。普段ならくすぐったくてすぐに振り払っているだろう。でもなぜか今日はその感触がたまらなく心地よい。ニャオニクスみたいに振る舞っているせい?あ、っていうより…やっぱり、最近は博士にちゃんと集中してほしくてお誘いがあってもあえて応えなかったからかな。でも今はもう学会の準備も整ったんだし…、いいよね――プレサンスは一切の思考をストップさせて彼の指がなすがままに任せることにした。

だがそんな様子を愛おしく見つめ指を動かしながらプラターヌは思う。本物のニャオニクスみたいだなあ――でも、さ。耳も付けて声もそれらしくしているけれど、まだ足りないものがあることに気が付いたのだ。それに触れているうちにもっと、もっとと思うようになってしまったということもある――だって最近は発表準備に専念してください、と言われスキンシップを図ろうにもすげなく断られて、おかげで恋人同士の甘い時間も満足に取れなかったのだから。
しかし今はもう障害など何もないのだから、プレサンスに触れられなかった分を取り戻すのだ。それにしてもつくづく人間の欲は本当に際限が無い。満たされればまた次を求めたくなる。その欲求に素直に従って少しだけ、ほんの少しだけ不平を言わせてもらうなら。
「でも一つだけいいかい」
「なんですかにゃお」
恋人の声にプレサンスは閉じていた目を開けた。
「ちょーっとだけワガママ言うとね、尻尾もあればもっと可愛くなるだろうなって…」
こういうことは彼女の機嫌がわりと良さそうなうちに実行するに限る。プラターヌはそわりと意味深に、本来ニャオニクスなら尻尾の生えているあたりへ手を伸ばしかけた――が。
「もう何するんですか、いやらしい博士にはこうですにゃお!」
「あいたっ痛い痛いごめんよボクが悪かった!」
伸ばそうとした手はあえなく掴まえられてギリリと音がしそうなくらい手の甲に爪を立てられた。ご丁寧にフー、と唸るよな物真似付きだ。控えめなネイルアートの施された爪は少し伸びていて皮膚に食い込みなかなかの威力を発揮した。
「あーもう二度としないこんなこと!…にゃお!」
「えー、さっきはなんだかんだ乗り気だったじゃな」
「はーかーせー?まったく油断も隙もないんですからにゃお!」
「ひえっ」
フォローしようと目を合わせたけれど、プレサンスの形のいい目が吊り上がりながらそれこそニャオニクスさながらにこちらを見て来たのでぎくりとした。まずい、これは怒り始めのサインだ。このままではせっかく取った機嫌を損ねるだろう。こんな可愛い姿をそうそう見られるわけでもなし、徹夜の末に手にした「ご褒美」なのだからもう少し愛でさせてほしいのにかなわなくなってしまいそうだ。どうにかして直さないと、と頭をフル回転させる。できればこのままニャオニクスにかこつけて、というかこじつけて何かないだろうか、そしてもっとプレサンスに触れ続けられるような口実は…あ、そうだこの手でいこう。ややあって浮かんだアイディアにプラターヌは内心ニンマリしながら、でも顔には出さないようにプレサンスに向き直った。
「可愛いニャオニクスちゃん…ううん、プレサンス。さっきはごめんね?」
「…」
「調子に乗りすぎちゃったけど、仲直りさせてほしいな…だめ?」
またお得意の甘いニャオニクス撫で声で囁いてみせれば――
「もう…次は絶対こんなことしないから…にゃお」
よし、ひとまずきっかけは掴めた。慎重に言葉を選びつつ意図する方へことを運んでいく。
「ありがとう!ところでね、今日はちょっと変わった仲直りの方法を試してみない?カントーあたりではそのために『ニャンニャンする』んだよ。どんなことするんだと思う?」
「えーっと…『ニャンニャンする』?なんですかそれ、にゃお」
いいぞ、思惑通り話に乗ってくる様子に舌なめずりしたくなるのを抑えながらなおも訊く。
「知りたい?」
「はい…にゃお」
「よーし決まり!教えてあげる…仕事も仕上がったことだし、ね。あっそうだ、してる間ももちろん耳は付けたままでねー!あと『にゃお』も」
学者というのは気になることがあれば知りたいし解明したいもの。プレサンスもその一人だから御多分に漏れずそうだろうという読みは当たったようだ。よしいいぞ。とうとう内心のニンマリが顔に出てしまったのが顔の筋肉の動きで分かった。彼女も気が付いたらしく怪訝な顔をする。でもまあいいか、だってその顔はきっとすぐに…。
「ニャンニャン、っていうからには鳴くんですかにゃお?」
「うんそうだよ。さ、こっちおいで」
といっても。「鳴く」の意味はちょっと、違うんだけどね――そんな思いを抱きながらプレサンスを促したプラターヌの足の向く先は、もちろん。



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