唇を罪で塗ったなら


プレサンスの左手を取ったプラターヌは白い手を握る。かすかに震えるのを怖がらないでとばかりに撫で――そして手を薬指へ移してそこからするり、とプラチナの輪を取り去れば小さく息を飲む声がした。窓の外から差し込むミアレの街の灯に反射して輝くそれ。これが月明かりならば詩的な情景だったろうがあいにくここは眠りを知らない大都会、煌々とした人工の光ではどうにも風情がないがまあ仕方がないか。そんなことを思いつつ輪を自分の人差し指にひっかけたまま唇を左手の指で封をするよになぞれば、桜色の粘膜はどうにも熱っぽかった。欲しくてたまらなかったそれはもう手の届く距離にある。そう思うとゾクゾクした。
そして唇から指を離すと奪い去ったものをそのままスラックスのポケットに入れる。これで少なくとも2人の視界から指輪という名のくびきは消えた。当惑の視線がしまった場所へ向けられるが意に介すことなく余裕を漂わせて事を運んでいくプラターヌに比べて、プレサンスの目線の動きは先ほどから落ち着かない様子だ。自分の薬指にやったかと思えば奥の部屋へと移ったり、彼の顔をちらっと見上げては背けたり。いきなりのことに動転しているのだろうがその様子がおかしくて思わず吹き出せば今度は彼女は静かにしてと言いたげだ。もっとも人差し指を唇にあてる仕草はなかったけれど――プラターヌが腕の中に抱き込んでいるせいで身動きが取れないのだ。こんな小さな声が聞こえるとは思えないが夫に気付かれてしまわないか心配なのか。とはいってもここは玄関、彼が寝ている寝室は一番奥にある。それに酔いつぶれて当分起きてきそうにないのだし。
「彼が起きてこないか心配ですか?」
「あ、当たり前です!それにどうしてこんな、指輪までとって…離してください」
「生憎ですが」
請うてみても軽く往なされてしまって、プレサンスは困ったことになったと思うばかりだった。久々に会って思い出や近況について語らい合っていたプラターヌを、相手をしていたものの酔って眠ってしまった夫に代わって玄関先で見送るだけのはずだった。なのにどうしてこんなことに。見られてしまったら、でも…びくともしない腕の中で芽生え始めたある感情とせめぎ合いながら逃れられずにいた。

夫の同期で今日を含めてこれまでせいぜい数回会っただけの知人。プレサンスはそれくらいの間柄のプラターヌからつい今しがた「結婚式の日に貴女を初めて見た時からずっと好きでした」と告げられたばかりだった。
もちろん今の今まで彼が自分を好いているなど夢にも思っていなかったから、何の冗談だろうかと思った。自分は飲まなかったが今夜開けたワインは上等なものだったけれど、いいお酒を楽しんだからといって酔いやその果ての冗談まで質の高いものとはならないようだ。第一自分はもう結婚した身だというのに。プラターヌの整った顔を見れば赤みがさしていて吐息からはアルコールの香りがする。そうだ、きっと酔って言っているのだ。それにしても酔ったときのパターンって色々あるのね、夫みたいに寝てしまう人がいるかと思えばこうなる人もいて…そう思いながらご冗談を、お帰りの時はお気をつけて――と答えるにとどめた。好きだと言われてかすかにドクンと跳ねた心臓の音は聞こえなかったと言い聞かせながら。
しかしそのすぐ後だった。いきなり抱きしめられて腕の中に閉じ込められ、その上結婚指輪も取られてしまった。夫を気遣って小さい声ながら抗議をしたけれどまったく取り合ってもらえず、そのまま数分が過ぎていた。
「ええ、分かっています。もちろん道ならない恋ですからずっと封印していたんです。でも今日貴女にお会いできたはいいけれどあんな指輪に縛られていると思うともうかわいそうでたまらなくなりましてね、つい」
「! あんな指輪だなんて…ずいぶんですね」
「すみません、彼が贈ってくれたものなのに失礼なことを言いました。でも」
夫婦の証を悪しざまに言われて鼻白むプレサンスに謝りながら、プラターヌは言葉を続けようとした。

奥のベッドルームで熟睡する、プラターヌの学生時代の同期にしてプレサンスの夫。仲間内でも一番真面目な、ともすれば堅物としばしばからかわれた彼が結婚したのは2年ほど前のことだった。結婚式に招かれたその日に、言葉の通り一目で禁断の恋に落ちたのだ。
楚々とした雰囲気もだが、プラターヌを何より惹きつけたのはプレサンスの唇だった。好みそのものだったからだ。薄すぎず厚すぎず、つやつやと血色もよい上に柔らかそうで。晴れの日の場にふさわしくルージュで美しく彩られていっそうの輝きを放ち彼の脳裏に強烈に焼き付いた。誓いのキスをしようとする同期を蹴飛ばしてその場所に代わって収まりたいという衝動にかられそうになったほど。その時からプレサンスを自分のものにしたいと焦がれてやまなかった。結婚していようと欲しいものは欲しいのだから――そして、こうして2人きりになれる機会を手を回しつつうかがっていたのだ。今夜はまさに絶好の機会。逃すまいとさらに主導権を握る。
「真面目が服を着たような彼の不真面目な話を聞いてしまいましてね、貴女が傷ついてはいないかと心配だったんですよ」
「!」
聞いたプレサンスの目は大きく見開かれた。
「彼、最近帰りが遅いそうじゃないですか。奥さんに寂しい思いをさせる奴だなんて思っていませんでしたよ。貴女というひとがありながらね」
腰から手が離れた、かと思えばそれは今度は肩に置かれた。意味深な雰囲気をまとう言葉と掌。驚いて思わず目をやれば夫の手とは違う、大きいが男性としては優美な手が目に入ってきて――するとその手はチルタリスの綿毛もかくやというくらいに軽く柔らかなタッチで華奢な肩を撫で始めた。
(あ…!)
途端に体温が上がり始める。体の芯から指の先まで隅々に、瞬く間に熱が及んできていた。
くらくらする。それは久々に意志を持って触れてくる異性の人肌。だがしかし夫のものではないというのに。浅ましい、だめ何してるの、私にはあのひとが…そう言い聞かせながらプレサンスはそれを止めることもできずされるがままになっていた。
「ん…」
触れられるたび体がいっそう熱を帯びていく気がするのはなぜだろう。果たして熱は彼の手のものなのだろうか、それとも自分の――?
どうして拒めないのだろう。夫以外の男性にこんなことを許すなんて。普通なら即座に突き飛ばしてでもなんでもしているはずなのに。そうだ、その前にそもそも何故彼が…
「どうしてご存知なんですか…主人の帰りが遅いって」
「同期のつながりは深いものですからね。今どこで誰がどんなことにあたっているのかは聞くつもりが無くても耳に入ってしまうものなんですよ」
微笑して瞳を覗き込んでくるまなざしはとても蠱惑的だ。思わず視線を吸い寄せられてしまう。
「そう聞いたときに決めたんです。想いに蓋をするのはもうやめよう、私なら彼みたいに貴女を放っておかないと伝えようって」
「っ…」
「愛してるんです。ありがたいことに色男なんて言われることもありますけどね、この先ずっと見つめたいのはプレサンスだけ。心移りなどしないと誓います。さあ、素直になって…?」
「いけません…だめ、です」
顔を赤らめながら背ける仕草には妙に色気がある。理性と誘惑のはざまで揺れ動く切なげな瞳の光がたまらない。これが人妻の魅力というものか。心はぐらついているだろうになかなかどうして意外に折れないものだ。
しかしこうしてためらう姿もたまらないけれど、この一途な彼女を落とすことができたら――この様子ならいけるかもしれない。想像しただけで喉がゴクリと鳴る。陥落までそう遠くはなさそうなのだから、せっかくのチャンスを逃してなるものか。このまま押していけばいずれは…そう踏んだプラターヌは、耳の奥まで届くように甘く低い声で愛の言葉を滔々と囁き始めた。

彼が摂取したアルコールは気化性の媚薬にでもなったのだろうか。囁かれるたびに浴びる吐息に早鐘のように騒ぐ鼓動が鎮まらない。どんどん理性をとろかされていく。頭がぽうっとして、もう何もかも彼に委ねてしまえたらと気持ちがどんどん傾いて歯止めがかけられそうにない。
(だめ、こんなにドキドキしちゃうなんて…でも、)

好きだと言われた時プレサンスに芽生えた感情、それは悦びだった。
不謹慎だが嬉しかったのだ。熱っぽく心をとろかす言葉を私はまだかけてもらえる…こんなに情熱的な囁きはいつぶりに受けたことか、それすら思い出せないほど遠いものになってしまっていたから。
以前は夫だって不器用な性格なりにプラターヌのように滑らかではないが愛していると言ってくれた。照れくさそうに、でもはっきりと。嬉しくてたまらなかった。その一言だけで天にも昇る気になれた。
なのに最近はその記憶が抜け落ちてしまったかのようにすっかりつれなくなった。今日のように知り合いの前ではそんなそぶりも見せずに振る舞うものの2人きりになれば冷めた雰囲気。おまけにここしばらくは毎晩帰りが遅いし――だから、夫婦の時間も満足に取れていない。新婚のころは帰宅するなりベッドになだれこむこともしばしばだったのに。たまに早く帰ってきた時にありったけの勇気を出して自分から誘いをかけても気のない返事ばかり。あまつさえキスも面倒がられ、まして甘い囁きなど望むべくもない。
そんなことが続きいつしかプレサンスは女性としての自信を失っていて。だからプラターヌの言葉に心をだんだんと動かされつつあるのは事実だった。

こう思い返している間にも彼の囁きは続く。終わりなど見えそうに、ない。
「悪いのは私じゃない。ましてプレサンス、貴女でも。誰が悪いとすれば彼ですよ」
「やめてください、主人のことを悪く言わないで」
震える声で止めようとするプレサンス。だがその声はとても弱弱しい。この時間だけでもう何度目かの狂おしいほどの熱をまとう囁きに包まれるうち、彼女はいつしかほだされつつあった。指輪を外されたことで理性のたがまで外れてしまったかのようだ。
いくら仲が冷めているとはいえ夫を悪く言われるのは嫌か、と訊かれたらこうなる前は嫌だと答えるはずだ。
でも、今は…このままプラターヌに心を預けてしまおうか、そう思わされてしまっている。もう夫のことを忘れて彼の誘惑にとろかされたいと思ってしまっている自分がいる。思いとどまるんだと必死に止めようとする理性は、下卑た笑みで何を言ってるもうどうだっていいじゃないかあんな男…と唆す誘惑にもうほとんど絡め取られていた。
それを見透かしてプラターヌはさらにプレサンスを追い詰めていく――もちろん誘惑の肩を持ちながら。陥落見えたり。もうあと少しだ、あと二言三言できっと落ちるはずだ。そんな確信を持って。
「愛してるよ、プレサンス。ボクは貴女の全部が欲しい。唇だけじゃとても満足できないから」
「…!」
「本気だよ」
「…」
答えは無い。だが一気に顔が赤らんでいく。誘惑という名前の毒は心を確かに冒している…その様子を内心ほくそ笑みながら計画が首尾よく運んだと悦に入った。
もっと早くに別れさせ屋のお世話になっておけばよかった、2年も悶々とする必要なんかなかったかもね。あのマチなんとか名乗った少女は実にいい仕事をしてくれた。プレサンスの夫を誑しこんで妻への関心を無くすようにという依頼を見事にやってのけてくれた。名前を正確には思い出せなくても、どの道あの手の連中お約束の偽名だろうからこの際どうでもいいか。まあ、報酬のゼロの桁をもう1つ加えるくらいの色は付けておこうかな。
「キスしよっか」
仕組んだ策略が上々の結果と相成りつつあることを喜ぶ気持ちを愛の囁きで蓋をしながら誘った。するとプレサンスは一瞬の間を置いて――今度は素直にコクリと頷いた。口元に微笑さえ浮かべて。
(―堕ちたな)
「じゃあロマンチックに行こうか。目閉じて?」
その言葉に促されて、落ち着いたブラウンのアイカラーが引かれている瞼が素直にゆっくりと落ちていく。その動きは何故だろう、色からして全く違うものなのに例えるなら白旗にとてもよく似ていた。プレサンスが心を籠絡されたことを示して打ち振るように。
そうして完全に瞼が落ちたのを確認して、自分もとうとう彼女の心を手に入れた歓びに酔いしれながら目を閉じた。そのまま唇を重ねようと顔を近づけて――
だから、酔いが醒めて起き出してきたプレサンスの夫が眼の前の光景を飲み込めずに呆然とする姿を彼らの瞳が映すことはなかった。



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