移ろいゆくブルー(後)


と、目の前にプレサンスの手がにゅっと伸びてきた。いきなりなんだろうと面食らっているとそれがパン、と打ち合わさって音を立てるものだからハッとした。ボクをびっくりさせようとしたのかな。さっきまで見とれていた仕草はどこへやら、口をへの字にしてこっちを見てきていた。
「ねえ博士聞いてるの?」
「えっ?あっうんもちろん、フラージェスが進化しないって話だったよね」
まずい、プレサンスの話を聞くふりをしていたらいつの間にか本当に聞こえていなかったみたいだ。取り繕って慌てて答えたけれど、返ってくるのはお叱りの声。
「違う全然違うそんな話してない!デートするときってどういう格好ならぐっとくるのってさっきから何度も訊いてるのにぼーっとしちゃっておまけに答えになってないことばっかり言うんだから!そもそもフラージェスは最終進化形なんだしメガシンカだって確認されてないでしょ、どうしちゃったの」
「ごめんそうだったね、それで…あー、服のことかあ。プレサンスが着たいと思うもの着ていけばいいんじゃないかなー」
「ちょっと私真剣なんだよ!なのにいつもそうやってテキトーに答えるんだから」
「テキトーじゃないよー、ボクだったらどんな服着てきたって嬉しいよ」
「だからその服はどんなのならいいのかってことを知りたいのにっ!」
「ごめんごめん」
怒る彼女の相手をしながら内心でこっそり溜息をついた。
今まで何度飲み込んだのかな、「カルム君じゃなくてボクはダメ?」って言葉。今まで付き合った相手には気楽に放ってきた告白をするのにこんなに臆病になるなんてボクらしくないったらないよ、断られるのが分かってるからってさ。
プレサンスがボクを恋愛対象として見ることが無いのは明らかだった。カルム君カルム君って。心に入り込む隙間なんかバチュル1匹が入れるくらいもありやしない。こんなおじさんなんて相手にされる訳がないんだ。たとえ勇気を一滴残らず振り絞って言ったところで、また冗談言っちゃって、って笑って流されるのがオチだろう。そして意気地なしのボクはうん冗談だよ、って本心を隠してへらっと笑ってそれっきりになるだろう。そんな結末が目に浮かぶ。
なのに、なのにどうしてまだ諦めきれないんだろう。お願いだ、そんなに惑わせないでおくれよ…
「弱虫」自分を嗤ってけなして罵倒しては自分に言い返す。しょうがないじゃないか、思いを告げたりしたらあの子とはもうこういう関係でいられなくなるんだから。アドバイスを求められてもはぐらかしてそれらしいことは言わずに、でもこうして話し相手になっているのは少しでもプレサンスの近くで一緒の時間を過ごしたいから。関係を壊す勇気が無いからって突き放すことができない上にするに事欠いてこんな情けないことしかできないなんて。自問自答ならぬ自罵自答って言ったらいいのかな。不毛なことこの上ないボクの脳内をあの子は知る由もないんだろう。焦がれてやまないのにどんどん遠ざかるキミに追いつきたくても追いつけない。ボクは年下の女の子に息を切らして待ってくれと情けなく頼んでも置いて行かれてる、そんな哀れないい年の男――いい男、だったらよかったなあ――でしかないのか。

そんなことを思っていたら、ふと頭によぎるものがあった。あの指輪のことを思い出したんだ。他愛無いやり取りの記憶のかけらが宿るもの。受け取った時はどうとも思っていなかったのに、でも今となってはそんなものにさえすがりたくてたまらない。プレサンスはちゃんと覚えてくれているんだろうか。「けっこんしてね!」なんて言ってたんだよ、あの時のキミは――確かめてみたくなって、さり気なく切り出した。
「それにしても熱心なことだねー、髪も染めてダイエットもしちゃってさ。恋は人を変えるねえ」
「えへへ…でもだってカルム君に意識してもらいたいし、少しでも綺麗になりたいんだもん」
からかうように言えばはにかんだ笑顔。そんなに彼のことが…痛む胸に蓋をしながら言葉を続けた。
「でも、そんなに彼にお熱だとあれの約束が果たされないんじゃないかって心配になっちゃうよ。ボクは今も持ってるのにさ」
――さあ、どう来る?
「あれの約束?それに持ってるって何を?」
「え…覚えてない、かなあ」
「って言われても…」
プレサンスは本当に思い出せないみたいだ、困ったように眉を寄せている。それがもどかしくて記憶を掘り起こそうとさらに促した。
「ほらあの小さいときにくれた指輪だよー、結婚しようねなんて言ってさ」
焦って畳み掛けるように訊いてみれば――「結婚」のところは心持ち少し強めに言って――ちょっと考えたあとにああ、という顔。よかった、思い当たったらしい。あれのことかあ、あのビーズの、って。強調した2文字になんの反応もないのは残念だけどよかった、記憶にはあるみたいだ。
だから安心してビンゴだよーそれのこと…そう、続けようとした矢先。

「なんだ、まだ持ってたんだ」

本当に軽い調子で、プレサンスは言った。あざ笑う響きも呆れるトーンもない。言われたことをもう一度繰り返すときみたいなときの声色でしかない。
それを最後に会話は途切れた。体の芯が急にすう、と冷やされていく。もちろん大事に持ってるよいつ式挙げようか、なんていつもだったら口をついてくるだろう軽口も叩けない。自分の周りから酸素が消えた錯覚に陥ってひどく息苦しい。
なんだ、これ――少しして、息苦しさの原因が分かった。ショックがじわじわ込み上げてきているせいだ。頭がホワイトアウトしかけてる。でもプレサンスはといえば1人呆けているボクをよそに、ひとしきりしゃべって喉が渇いたのかごくごくと野菜ジュースを飲み干してふう、と息をつく。そして、お代わり飲もっと、なんて独り言を言いながらグラスを持ってキッチンへ歩いていった。一方でマカロンはボクが手を付けた分以外はまるまる残ってる。痩せたんだから頑張ったご褒美にでも1つくらい食べたらいいのに…眼の前にあるそんな光景全部が、同じ空間でのことのはずなのに遠くで起こっていることのように感じられた。
あの子の記憶には、あった。でも隅っこに追いやられていて、ボクの問いかけにようやく引っ張り出された。その程度の存在に成り下がっていた――いっそ、そんなのあげたっけ覚えてないよ、って言われた方がはるかにマシだった。バカじゃないの、どうか忘れないでって言いたくて昔の話を始めた挙げ句にこんな目に遭ってさ。ほんと…バカじゃないの。思い出にとらわれた滑稽な自分をさらすだけで終わってしまった。幼かった日の約束が果たされるなんてただのボクの夢想に過ぎなかったんだ。ごまかすように手つかずのコーヒーを流し込めば、冷めているうえにひどく苦い味が舌に張り付いて思わず顔をしかめた。

プレサンスがキッチンから戻ってきた。グラスはお代わりをしてからそのままシンクへ置いたのか手ぶらだ。こっちへは戻らずに整理していた資料の置いてあるところへ向かっているから休憩前にしていたことをまた始めるつもりなのかな。でもなんだか無性に1人になりたい気分だ。時計を見れば4時ちょっと前。定時は5時だけど、今日は早めに帰ってもらうことにしよう。
「少し早いけど、今日はもう特にすることもないから上がっていいよ」
声がかすれて絞り出すようになってしまっているのに気づかれませんように。
「え、いいの?まだ資料のファイリング途中なのに」
「いいよ、しておくから。たまにはボクも片づけをしなくちゃね」
本当はそんな気なんかさらさらないけど、そう伝えるとプレサンスは途端に瞳を輝かせ始めた。
「ありがと!よかった早めに行けそう」
「何かあるのかい?」
問いかけにうん、と頷いた顔がほころぶ。
「あのね、サナとセレナといっしょに」
ああ、図鑑を渡した子たちか。約束があるのかな。幸いなことに男の子の名前は出ないけど、ティエルノ君やトロバ君はいいとして愛しのカルム君は来ないのかなあ?
…なんて訊くのはやめておいた。変な意地なのは分かってるけど、勝てない恋敵の名前なんか口に出すのも嫌だ。よかったねそれは、いろんな意味で。プレサンスが喜ぶのも彼が来ないのも、ね。それにしてもいいなあ、女の子3人か。さぞかし賑やかで華やかだろうな。

――だから、話はそこまでで終わればよかったのに。
「カルム君と付き合うために作戦会議するの!」
プレサンスはほころんだ顔のまま続けた。ボクの思考がフリーズするのも知らずに。
「2人とも私がカルム君のこと初対面で好きになったの分かったんだってすごいカンだよね、それで協力してもらえることになったの!いきなり二人っきりってなったら緊張しちゃうだろうけどそうなるまえに対策を練ろうってことになって、この間見つけたカフェで待ち合わせしてて…」
嬉しさのあまりこれからの計画を流れるように話してる。よかったね、なんて言ったけどボクの心は声にならない叫びをあげていた。やめて、お願いだやめてくれ…ずかずかと入り込んでくる声に抵抗しようとしてでもなすすべもなく鼓膜を踏み荒らされながら、突然そうか、と分かった。プレサンスの目に映る青の記憶は、ボクがまとうシャツの色じゃなくてあの彼が気に入っているのか(確かめる気なんかしないけれど)いつも着ている青いパーカーの色になっていくんだね。いま、悟った。そして、そうなっていくのをボクはもう止めることはできないんだろうな――とも。

「でね、ゆくゆくは」
「ストップストップ!そんなに話してたらせっかくの時間が無くなっちゃうでしょー」
「いっけないそうだった!」
話を続けるにつれヒートアップしていくプレサンスを遮ってようやく作戦会議とやらの計画の披露は終わった。白衣を脱ぐとハンガーにかけて、それから慌ただしくカバンを掴んでエレベーターのボタンを押す。3階で止まったままだから扉はすぐに開いた。
「じゃあ出ます、お先でーす!」
「はーいまた明日。楽しい時間になるといいね」
弱虫のボクはいつも通りにプレサンスを見送ることしかできない。行かないでよ、頼むから――そう思いながらも。背中が扉の向こうに消えるまで精一杯笑顔を作って、キープして…そして、エレベーターが下に降り始めたのを見送ってから一気に崩してはあ、と息を吐いた。
食器の片づけやファイリングの続きをする気はしない。踵を返して背中を丸めながら自分のデスクへ戻った。ガラガラと力なく引き出しを開ければ、なんだかその音さえ気落ちしているみたいで。ええと、どこだったかな…あった。片隅にぽつんと置いてある指輪をつまみあげて思う。ボク、ふられるんだなあ…プレサンスが無邪気な好意を寄せてくれていたときへ戻れたら。カルム君と出会うもっと前にあの子に好きだと伝えられたら。
ただそんなことはもうできない。それにもしもの可能性を想像するのがこの上なく虚しいことなのは分かってる。だから、せめて心は移ろってもこれだけは変わらないでほしいな、なんてことを思いながら白と青の輪を少しの間ぼうっと見つめて
――そのうちにふとある考えを思いついた。指輪は持つものじゃなくて身に着けるものなんだし嵌めてみようか。小指にならどうだろう。入らないのは明らかだからそういえば試してみたことはなかったんだけど、でも付け根までは無理でも指先くらいにはいけるかも。何よりピンキーリングを気取ってみようか、って。気取るだけなら勇気は要らないんだ、そう思いながら実行すれば果たして指先にはなんとか入った…というか乗ったのが嬉しくて思わず口元が緩む。さっきのショックもほんのちょっとだけ癒えた。見てる人はいないけど、そんなことで喜んでいるボクはいい物笑いの種に違いない。こんなちゃちなものに救いを求めるなんてばかげてる。まして恋人同士がはめるものになぞらえるなんて、ますます。そう自嘲しながらでもこのまま…って、下へ降ろそうとしたけれど。
「あっ」
プチリという音がしてワイヤーが切れてしまった。やっぱりサイズが小さすぎたのに加えて、あれからゆうに10年以上は経ってるから多分経年劣化で弱くなるかしていたんだろう。白と青の一列をなしていた粒は、途端に机に跳ね返っててんでばらばらの方向へ飛び散って行った。
でも、拾う気が起きない。途端に体から力も気力もくたりと抜けていく。鉛でも押し込まれたように重くなっていく体をデスクによりかかってなんとか支えた。無垢な愛のしるしを形作っていたものすら壊れていってしまうのか。もう、留めることはできないのか――そう思いながら散り散りになる2色の小さな粒をただ遠い目で見ていたら、一番遠くに転がっていった青いビーズがクロスの白い部分にぶつかって動きを止めるのがぼんやりと見えた。



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