移ろいゆくブルー(前)


誰にも話していないから誰も知らないけれど、ボクのデスクには小さなビーズ細工の指輪がしまってある。小さいころから知っていて今は助手をしているプレサンスが昔くれたものだ。ボクの白衣と昔から気に入っていて今でもよく着ているシャツの色になぞらえたのか、白と青を交互にワイヤーに通して。ただ、子供らしく自分と同じサイズだと思ったのか小さく作ったから嵌めることはできないのだけど。
「これあげる!おっきくなったらけっこんしてね!」
あれはいつの時のことだったろう、満面の笑みで渡してきたエンゲージリングのつもりらしいそれを無邪気なものだなと思いながらそうだね、と何の気なしに受け取ってデスクの引き出しへ入れたのは。昔から使っていたデスクは研究所を構えたときにも中身もそのままに使い続けているから、指輪もそのまま何となく捨てずにいて。
そして、気が付けばそれなりの月日が流れていた。少なくともボクが世間でいい年と呼ばれて久しく――そして、「おっきくなった」プレサンスを一人の女性として意識するようになって少しが経つくらいには。

「プレサンス、お茶にしようよ」
お盆をテーブルの上に置いて、少し離れた棚のところにいるプレサンスに声をかけた。お茶を淹れるのはいつもなら助手の皆が持ち回りでするけどたまには自分でしようとキッチンに立っていたんだ。誘いにはーい、と答える声の次にはトントンという音。見れば整理していた資料の角をテーブルで揃えてる。その音がしてからようやく白衣の裾を翻しながらこちらへやってきていた。
そろそろ3時を回る頃。論文の寄稿もこの間済んだし、学会や執筆依頼もないからのんびりしたものだ。スポーツで言うならオフシーズンってとこかな。助手たちもそれに合わせて休みを取って、だからお盆に載った食器はボク用のコーヒーの入ったマグと、それから休みをもう消化したプレサンス用の野菜ジュースのグラス。あと、今日のお茶請けのマカロンの乗ったお皿。最近評判のお店が出しているものを差し入れにもらったんだ。本当ならみんなで食べるんだけどクリームが挟んである分日持ちしないだろうからもうお腹に片付けてしまおう。おいしそうだな、早く食べたいなと到着を待ちながらこっちへ来るプレサンスを眺める。

「ごめんね博士お待たせ―」
「お待たせしました、でしょ」
「はーい」
「こらこら伸ばさないの」
「はーい、いただきます」
注意しているような響きだけど別段怒ってなんかない。それを分かってるからプレサンスも屈託のない笑顔を浮かべて気楽に返事をする。プレサンスとは小さいときに隣に引っ越してきた時からの知り合いだからお互いにもう遠慮はなかった。他の助手がいる時はさすがにわきまえてるのかですますを付けて話すけど、他の目がないとこうフランクになる。初対面の挨拶をした時は目をまん丸にしてこっちを見た、と思ったらすぐにお母さんの後ろにぴゃっと隠れたくらいの人見知りだったのになあ。グラスを手渡してそんな昔のことを振り返りながらマカロンを口に運んだ。ん、おいしい。アーモンドの風味がしつこくないな、もうひとつ…手を伸ばしかけた時だった。

「そういえばさあ」
一人品評会はプレサンスの声で急に中断させれられた。なんだろう、と彼女の方を向きながらつまみかけたマカロンを戻せば柳の絵の上にメレンゲの粉が落ちる。
「ん?」
「この間カルム君久々に研究所に来たんでしょ?」
「ああ、うん…」
…また、そのことか。ツキンと心が痛み始めた。でもプレサンスはそんなことはつゆしらず、期待に弾んだ声と表情で問うてくる。
「どんな子が好きとかそういう話しなかった?」
「うーん残念ながら…というかね、そもそもこれまで恋愛のれの字すら話題になったことがないんだよー。図鑑や生息地についてのことばっかりさ」
「なんだあ」
わくわく、という形容詞が似合いそうだった声は不満そうに、表情ははあからさまにがっかりしたものになった。その様子に少しの苛立ちを隠しながら苦笑いを返す。そんなことどうしてボクに訊くんだい、直接話せばいいだろうに。大体もし知ってたとしても教えるわけが…いや待てよ、今度それとなく聞き出してみようか。でもだからって正しいことは教えずにあえて反対のことを伝えて彼に嫌われるように、もっといえば元通りになるように仕向けてしまおうか。
「私ほんとタイミング悪い。来てくれる時に限ってフィールドワークとかでいないからすれ違いになっちゃう」
「そっかー」
「だからまだホロナンバーも訊けてないの。セレナやサナは知ってていいなあ…でもやっぱり教えてもらわないで自分で訊かなきゃ意味ないし!次カルム君に会えたら交換しようよって絶対言うんだから!」
「それはすごいね」
「だってカルム君…」
相槌は途中から投げやり極まりないものになっていた。おかげで会話がかみ合わない。でもプレサンスはボクの生返事なんてまるで気にする風でもなく話を続けてる。聞くふりをしながら唐突にニャスパーが羨ましくなった。あんなふうにいつも…とは言わないけどせめて今この時だけキミの声をふさぐことができたなら、その名前を耳にしなくて済むだろうから。
コーヒーブレイクは始まったばかり。なのにこのひとときにまであの話題になるなんて。いつもなら他の研究員もいるから話の中心は仕事に関係することがほとんどだけど、今はボクしかいないのをいいことに。ああ、何が悲しくて好きになった子の好きになった相手のことなんか眼の前で聞かされないといけないんだろう。こんな休憩時間を過ごすくらいなら、無性に仕事にとりかかりたいと思ってしまう。何か降って来ないものかなあ。今なら悩みを忘れるために没頭できそうな気さえする。

プレサンスの心は、半年とちょっと前に図鑑を渡した5人の子の1人のカルム君を追うようになっていた。だからなのか必然的に話題は彼にまつわることに集中して(しかし付き合うたびに不思議に思うんだけど、女の子は恋に落ちたら四六時中相手のことを考えてないと死んじゃうのかなあ…)そしてなぜかしらん、他の研究員でなくてこっちに話を振ってくる。そういう話は向かないよー、女の子たちとしなよって水を向けたことはあるけどボクの思いを汲んではくれなくて「だって博士色男って言われてるでしょ、男の人視点でああしたらいいとかこうするのはダメとか教えてほしいなって」ときたものだ。
うん、そりゃ結構付き合ったよ。カロスに生きる男に恋愛は酸素みたいなものだしおまけに自分で言うのもなんだけど顔はいいほうだし。だからその経験をもとにアドバイスの1つや2つくらいお手の物―でもそれはアドバイスを求めてくるのがプレサンスでなきゃの話なんだ。好き好んで片思いの相手の恋が実るのを応援する奴がいると思う?恋愛話の相談相手として頼られている、そう素直に喜べるほどボクはおめでたくない。だって男性視点の、って言ってくるからには一応異性と見なされてる。けどそういう相談を持ちかけてくるのは恋愛対象じゃないってことを意味しているわけだから。こんなことになるくらいなら過去へ戻ってカルム君を選んだあのときの自分を全力で止めたい。彼を選び出さなければ今こんなつらい思いをしないでいられたろうに。

そもそもプレサンスがカルム君を想うようになったのは、図鑑を渡した5人の子供たちが研究所へ来た日から。お茶出しを頼んだけどその時に一目ぼれしたんだって帰ったあとで打ち明けてきたんだ。ほっぺを今までになく真っ赤にして、クールでかっこよかったなんて言って。
その姿にボクはあらゆるパンチって名前の付く技を全部くらったくらいのショックを受けてそうなんだ、って返事するのがやっとだった。これまでプレサンスのことはシンオウに留学していた時以外はずっとそばで見てきた。でも昔からの年の離れた知り合いで今は有能な助手、という見方しかしたことがなくて、つまり付き合いたいとか思ったことなんてなかった。
だけどその日目にした、うっとりと遠くを見つめるような瞳は妙に美しくて。あの小さかったプレサンスが、恋?あんなにキラキラした表情初めて見た。今まで気が付かなかった、なんて可愛いんだろう。ねえ、いつの間にそんなカオするようになったの――ボクはその一瞬でクラクラするほど心を奪われていたんだ。
でも、キミの瞳に映るのはカルム君だけになった。皮肉なことにボクがあっという間に恋に落ちた瞬間に、この恋心は報われないってことも悟ってしまった。

恋心を意識してからのあの子はあっという間に変わり始めた。たとえば、今指先でクルクル巻いてる髪。地毛は深紅だったのに、今はもう詳しくなかったはずの流行の色に染めてしまった。新しい色の髪を初めて見たときも染めたんだねよく似合うよ、なんていつも女の子にするみたいに(どうにかだけど)平静を装って褒めたっけなあ。髪を染めるのなんて普通に誰だってすることじゃないか、って言い聞かせながら。そしたら「カルム君も褒めてくれるかな?」だって。そこは聞こえなかったふりをしたけれど。
でも内心はとても悲しかった。元の色の髪と鮮やかな緑の瞳のコントラストが気に入っていたから。今どき赤毛じゃキマらないと思った?モテたいならこうでなきゃって?そんなわけあるもんか、一番似合ってたのに。
それに前はもう少しだけふっくらしていたのに最近スリムになった。ダイエットまで始めたからだ。だから今だって、シュガーとミルクを入れないと飲めないコーヒーの代わりに野菜ジュース。せっかく差し入れにもらったマカロンにも手を付けてない。成果が出てきたなんてご機嫌だけど、ボクは(こんなこと言ったら絶対怒らせてしまうけど)体型だけでももう少し健康的でいてほしかった。それもこれも、全部ひとえにカルム君に近づきたくて努力した結果だと思うと…。

プレサンスが恋をし始めたのと同時にボクもあの子への想いに気が付いた。でもキミの心の向く先を考えたよ。だってボクはもう大人、あれが欲しいなんてひたすら駄々をこねる代わりにどこかで折り合いをつけることを学んでいるんだ。だから悲しいけどタイミングが悪かったんだって言い聞かせて何度も諦めようとしたさ。応援しようとしたさ。努力が実るといいねって。年が近い同士ボクよりもお似合いだろうなって。そうやって断ち切ろうともがいたんだ。

なのに。恋する相手のために外見は変えても、芯のところはどんどんボク好みになっていく。今だってそう。彼への想いをペラペラ語っていたはずが急に静かになったプレサンスの方を見れば、憂いを含んだ遠い目をして、寂しそうに長いまつ毛を震わせていて。おまけに「会いたいなあ」なんてことまで呟いてる。
ほら、それ。心臓がトクリと鳴って騒ぎだす。ボクは女の子のするあらゆる仕草や表情の中で目にした途端にさらいたくなるくらい好きなんだ。キミが恋をするゆえの変化を間近で見せつけられて、そうするぐらいあの彼が好きなら恋路を邪魔しまいって想いを封じようとする。なのにあの子の背中を押して想いを断ち切ろうって決意をするたび、何のイタズラなのか不意に僕をひきつける姿を目の当たりにさせられて諦めるのをやめたくなる。でも思いを告げる勇気は湧いてこない。ウジウジウジウジ、この繰り返し。無限のループ。一思いにプリズムタワーのてっぺんから身投げしたら楽になれるのかな…。



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