ゆりかごの物思い


プラターヌは前を行くプレサンスに附いてふらふらと力ない足取りで彼女の部屋への階段を上がっていた。十数段を踏み越えて2階へとたどり着けばその正面にはベッドが見えてくる。そこに一足先に近づいたこの部屋の主に続いて安息の地へ到着したとばかりに腰かければ、その動きに合わせてローズ柄のカバーをかけたコンフォータが擦れる音がかさりと鳴った。目的の場所に落ち着きまずはふう、と一息つく。
と―様子を見届けてから、ベッドに座らないで立っていたプレサンスはやおら彼と向かい合わせになり脚で挟む形で膝の上に座った。プラターヌの脚が長い分深く腰掛けられるから安定したその部分に座った少女が、恋人の顔を見てにこりと微笑めば―彼はだいぶ年下の恋人の華奢な肩にそっと腕を回して顔を埋めた。項からはふわりと嫌味なく鼻をくすぐる甘い香り。これはムスクかしらと考えながら、体重を預けてくる愛しい人を受け止めた。
触れ合った体にはゆっくりとだが互いのぬくもりが通い始めている。ここへ来るまでに吹きすさぶ木枯らしや鉛色と灰色を混ぜた寒々しい空が身体にも目にも寒かったのが嘘みたいだ。ぬくみをもっと欲張ろうとシックな緑のリボン付きプルオーバーにいつもの濃い色のシャツを縫い付けるようにさらに密着して、プラターヌは耳に心地よいテノールでこの空間に言の葉を放った。
「ね、プレサンス」
「なんですか博士」
「大好きだよー」
「私もですよ」
柔らかなスプリングの上で愛しい人にぎゅう、とくっついた彼はいつもの間延びした声で言う。心も耳もとろかすようなその声にノーと返せるはずがない。「私も」と言う以外何と答えればよいのだろう―プレサンスも心底その通りだというように、プラターヌを惹き付けてやまないおっとりした声で応える。

と、ここだけ聞けばありがちな恋人同士の愛の囁きの幕開けにしか聞こえないだろう。「ごゆっくり!」とでも叫んですぐさまこの場を離れたくなる雰囲気が醸し出され始めそうな…
しかし。果たしてその交歓の次に二人の間に降りてきたのは――沈黙、であった。愛情表現がきっかけになって甘い時間の始まり始まり…とは相成らず、プレサンスの返事を最後にどちらも口を閉じたまま。誰も、何も動かない。強いて言えば呼吸と時計の音―今時珍しくアナログの―がかすかにするくらいだ。
カチ、カチ。そのうちに時計の長針がたっぷり10動いていた。それでも部屋は無音のまま。冷たく強い風が窓を打ち枯れ葉を叩き付けるのが耳に入る。けれど、そんな外の様子とは切り離された空間の中でやはり誰も何も言わな―いや、プラターヌがようやくまた口を開いた。
「プレサンス、だーいすきだよ」
「ええ、私も」
名前と、愛の言葉と。〈おしゃべり〉を覚えたてのペラップのように同じセリフを繰り返す。もう時計はたっぷり1周しようとしている。なのにこの応酬はこれでまだ5度目だ。
カチ、カチ、カチ。やり取りを最後に時計の針の音が耳につくほどの沈黙が再び部屋を覆いかけていた。愛を囁き愛に応じる言葉は確かに発せられても会話へと繋がることはなく、二言三言で終わるだけ。二人が腰掛けてからというもの、プラターヌは幼い子供が母にするかのように触れ合う肌の感触をただただ請うだけ。そして埋めた顔を上げるそぶりは全く見せず、時折存在を確かめるかのように少女の名を呼ばわる。そうする時以外は実に静かなものだ。

彼はたまにこうして恋人を訪ねては、ぬくもりを補う以外は何をするでも無く過ごしてまた戻っていく。いつものように「元気?」とかの前置きをせずに「今日行きたいけど、どうかな。返事もらえたら嬉しいな」とだけシンプルなホロメールをよこしてくるときは必ずこう。体を寄せてきて、その上で時折思い出したかのように名前を呼ぶ。そんな繰り返しを心行くまで続けるのだ。この時ばかりは寡黙ではない方のプラターヌにしては珍しくほとんど話さない。
今日は、一段と…プレサンスは恋人の背中を見下ろしながら思った。ほとんど微動だにしない、青いシャツに包んだ体。自分を想ってくれる大事な人がこんなにも近くで寄り添ってくれることも、同じ時間と空間を共有できることも。それが嬉しくないというのは嘘になる。だが、理由を分かっていればこそ複雑な気分でもあるのだ。
なぜならこの日は、彼が行き詰りかけている証拠でもあるから。
今日は一段と『重い』かしら。原因までぽろっと言っちゃうくらいだもの。この重いという表現は彼の体重を指す物理的なものではない。うまく言えないが言うなれば「症状」が…ということだ。

「論文まとまらなくてねー、まいっちゃったよ」
ホロキャスターで今日の都合を尋ねるとき、彼はごく軽い調子で本当に何気なくそうぼやいていた。顔にはいつものように穏やかな笑みを浮かべながら。
でも、その笑顔に隠しているつもり(もっとも彼は隠しおおせていると思っているらしいのだが)の何かのことをプレサンスはとうに察している。
プラターヌは言うまでもなく有名人だ。今では進化学の定説となって、専門家ではない一般の人々にも広く知られるほどの研究成果を得て地位を築いて。その成功により大都会の一等地に研究所を構えて。おまけにこれは本筋からは逸れるが頭脳に加え整った容姿さえも併せ持つと来れば、人々に広く注目されるのはごく当然のことと言えた。
しかし今までに築いたものを保ちつつ、さらなる発見へつなげることがどれほどの重圧であることか。注目を浴びる中で次々に学説を発表し論文を寄稿し。プレサンスはトレーナーだが、研究者の世界では成果がものを言うことくらいは知っている。プラターヌが研究に忙しくしている姿は、幼いころに読んだ物語の中の「その場に留まりたければ、常に持てる力全てをもって走り続けるほかない」という一節を思い出させた。
だがいつも全力で、というわけには当然いかないものだ。彼は常々研究は天職だと本当に幸せそうに言っている。会える時間が短くて寂しい気持ちもあるが、そんな時の誇らしげな表情もまたいいものだと思っている。
けれど、仕事が好きだからといって全てがバラ色であるわけがない。それどころか時に苦しいことだって、若くしての成功を嫉妬交じりでやっかまれることだって、ある。
プレサンスは付き合ううちに、プラターヌは楽天的に見えてその実はとても繊細なのだと気付いた。いつも飄々として余裕がありそうに見えてはいたけれど、当たり前ながら彼も1人の人間だから時には悩みも苦しみもする。ただ心配をかけたくないのか、そういった苦労について自ら口にすることはほぼなかった。
それだけに今日のように自分が今抱えていることについて言及するのは、見せていないつもりなのだろうがひどく疲れている証拠だ。かくして溜め込んだものの限界が来つつあるころにそれを押し隠したまま、こうしてプレサンスに誘いをかける。ある時は「なんだか会いたくなったんだー」、またある時は「静かなところでふたりっきりで過ごしたい気分でね」と言って、本音は漏らさずに。

だから。ネガティブなことは言わなくても弱っている彼が他の誰でもない自分をこうして頼ってくれることを裏切りたくないから、プレサンスはこの静けさを受け入れる。余計な心配をかけるまいとする恋人の思いを尊重したいから「もっと頼ってくださいよ」などと言ったりしない。「がんばってください」も「大丈夫ですよ」とも、突き放すつもりなど毛頭無いがこの時だけは言わない。こうなった彼が求めるは100の言の葉よりもただ自分の体温だけなのだともう分かっているから、ただプラターヌを受け止めて。もっと声が聞きたいだの好きと言ったのだからそちらも言ってくれだのと駄々をこねたりなどせずにするがままに任せて。そしてたまに名前を呼ばれれば何度目であろうとも絶対に返事をする。大事な人の気が自分の存在で少しでも紛れるのだと思えば、そのループに倦むことなどない。

すると、ふと肩のあたりに何かが擦れる感触。それに気付いて見下ろせばプラターヌが少し顔を上げて形のいい目で見上げてきていた。外に広がる曇天と似た色なのに限りなく違う。

「ごめんよ、さっきからしつこくて…でも好きな子の名前はつい何度も呼んじゃうなあ」
垂れ気味の目がさらに下がっていた。もし擬音を付けるように言われたなら迷わず「へにゃり」とか、とにかくそういう締まらない感じのを添えるだろうな。目は口ほどに…とはよく言ったもの。動きが出てきたからなんだか調子が戻ってきたのかもしれない。それに来たときはいつも滑らかな舌もどこへやらの状態だったけれどこれくらい話せるほどには回復してくれたらしい。よかった、と胸を撫で下ろす。
「しつこいなんてそんな。博士の声素敵だから、名前呼んでもらうたびに嬉しくて」
「あー、キミって子はなんでいつも優しいのー」
プラターヌの目はもうエネコといい勝負といえるくらいに細められている。
「でもプレサンスがそうやって優しいとボク調子に乗っちゃうけどいいの?もっともっともーっと、嫌になるくらいぺったり甘えちゃうよー?」
「いいんです、たくさん存分に甘えてくださいね。だって今外寒いでしょ?人肌が恋しいんですよ」
ありがちな「疲れてるんでしょ、私で癒されて」だなんてセリフは嫌い。おこがましいにもほどがある。だから悟らせないようにわざとワガママに振舞うのも、彼を想うからこそ。
「あれれ、ボクは湯たんぽか何かかい?まあいいや、そう言ってくれるならさらにお言葉に甘えちゃうよー。あのさ…」
ありがとう、プレサンス。プラターヌは口には出さずに礼を言った。男は好きな子の前では見栄を張りたい生き物だけど、この子にはお見通しなんだなあ。ちょっと聞いただけでは自分本位この上ないさっきの答えは、ひとえに自分の思いを汲み取って何にも知らないふりをしてでも受け止めようとしてくれているから。その心遣いがとても嬉しかった。
「外寒いからもっとこうしてたいんだけど…いいかな?」
「はい、外が寒くてもそうでなくても気が済むまで」
「ありがとう」
今後は感謝を口に出したプラターヌはまた顔を埋めた―その前ににっこりしながらこんな爆弾を放ってから。
「一緒にいると安心できるし受け止めてくれるし…ボクは本当にすてきな恋人を持ったなあ」

博士が顔を下げてくれていてよかった、今だけはこんな顔見せられないもの。プレサンスはそんなことを思いながら蓋でもするように手を伸ばして濡れ羽色の髪を撫でた――だって、まっすぐな呟きに顔が緩んで緩んで仕方がなかったのだから。


(和よし様へ)
この度はリクエスト企画へのご応募ありがとうございました。「甘える博士、ヒロインの反応はお任せ」ということで、プラターヌ博士が甘えてくるのを受け止めるお話に仕上げましたがいかがでしたでしょうか。言葉は少なくとも察しあう関係を表現しきれていたらと思います。
今後とも当サイトをお楽しみいただけたら幸いです。



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