こたえあわせ


目を見て解った……違う。プレサンスは伝える前からとっくに覚悟していた。この思いをセイジに告げても、その先に喜びは待っていないのだと。

「その気持ちとってもサンキューよ、プレサンス。せやけどこればっかりはどうしても『イエス』も『はい』も言えなんだわ。なんたってセイジのセイ……ここらでラスト復習まいろうか?」
「誠実の『セイジ』だから」
「エクセレント。そう、誰にだって。つまりマイワイフにもプレサンスにもってことだね」

卒業式が終わって数時間後ともなれば、もうアカデミーに人の姿はまばらだ。その上空は、完熟した大きなオレンジを思わせる鮮やかな夕陽が沈んで、見事に実ったグレープのような色をした深い夜空へと変わりつつあった。友人たちにパーティーに誘われていたプレサンスだったが「ごめん後から行く!証明書の不備で受付に呼ばれた」と伝えて居残っていたのだ。でもそれは方便。「卒業式のあと2-Gのクラスに来て」と、前もってセイジを呼び出していたから。そして、それにはちゃんと応じてくれた彼だけれど――言うまでもなく、プレサンスがずっと抱いてきた想いにまでは、応えてはくれなかった。

いつもの調子でユーモアも交えて穏やかに、しかしキッパリと断りの言葉を返したセイジは、まっすぐプレサンスへ笑顔を向け続けている。初めて会ったときから変わらない、優しい目だ。その様子はプレサンスにレッスンの様子を思い出させた。今は授業中ではないので教壇に立ってはいない(あと、卒業式ということでいつもより落ち着いた柄のスーツに身を包んでいて、そしてそのポケットにはサングラスではなくてスクールカラーのポケットチーフが挿されている)けれど。

――そう、変わらない。女性としてプレサンスを見ることは決してなくて、あくまで教え子に注ぐ眼差しであり続けてきた。これからも。言葉も目も、そう「言って」いる。

「言いたいこと言えてスッキリしたよ。あたしの自己満に付き合ってくれてありがとねせんせー、ぶっちゃけ来てんなくてもしょーがないって思ってた。みんなに囲まれまくってたし」
「なんのなんの、何でもかんでもセイジにテルミーっていつも言ってきたものな。てっきり写真撮影がしたいのかと思って来たもんだからラブをテルされるとはちと予想外だったけども!とりまワシのクラス始まって以来にグングン伸びまくった親愛なる教え子に呼ばれたんじゃあ、逃げも隠れもできっこないだろー」

フラれたけれど、不思議と気分は晴れやかだ。プレサンスは「答え合わせ」が「正解」だったことに内心ほっとしていた。だよね……ラブラブな奥さんいるし。てか、その前にせんせーだし。もしもだけど「イエス」って返ってきてたら、嬉しいどころかむしろドン引きしてたな、と思う。

「せんせーさ、言ってたじゃん? 自分の気持ち伝えんのとっても大事だよって。一方通行でも、あたしがセイジせんせーのこと好きなのはホントだから。言えないままなのヤだった。だからどうしても、そうしなきゃって。ワンチャン狙いで食い下がる気とか無いし、マジ。こうなるよねって納得してた。どう言い表していいか知ってても、それを伝えても……受け止めてもらえないこともある、って」
「アメージング大正解。レッスンでパーフェクトなだけじゃなく、教えてないとこまで“予習”バッチリ。大先生だなプレサンスは」
「そんな褒められたら照れるし。そうだあたしね、好きっていう思いももちろんあるんだ。けどそれ以上にセイジせんせーに伝えたいことあってさ」
「Huh?」

いよいよ、だ。プレサンスは小さく深呼吸して、口を開いた。セイジにずっと抱いてきた思いを告げて、そして彼への思いからも卒業するために。苦しくても、つっかえたって、言い切るまで諦めないという気持ちで。

「セイジせんせーと逢えて、っ、良かった、あたし。せんせーが先生でマジ嬉しいなって。ありがとう。宝探し結局やんなかったけどもう見つけられたと思ってる。セイジせんせーと会えたこともせんせー好きになれたことも、伝えるって大事なんだって知ったことも、そうしようと思う気持ちも、パルデアの言葉身に着けられたことも。とにかく、っ!セイジせんせーに関係あること全部だよ、あたしの宝物は」
「……!!!」
「なんでポカン顔。てか泣いてるし!?フツー逆じゃん?」
「だ、だっでっ、嬉しゅうて嬉しゅうて!ワシとのことがプレサンスのトレジャーなんてそらもうキョダイカンゲキ、ハッサク先生に負けないくらいクライしちまいそーだ……HAHA、今のも言語ジョーク……それはこのくらいにして。笑顔で、送んないとだよな」

セイジが初めて見せるそんな表情に、プレサンスは驚きを隠せなくて。一方の彼はというと、浮かんだ涙をきちんとアイロンが当てられたパモ柄のハンケチで拭い取ってから――再び、にぱっと笑ってみせた。

「その言葉まねっこするよ、アリガトサンキューなのさプレサンス。そう言ってもらえたことこそセイジの宝。ここで、セイジのベリベリファイナル・アドバイス!いつかプレサンスのとっておきのラブ、その人にたっぷりギブしてあげてほしいんだ。その素直な気持ちや言葉を忘れずに。これからもいろんな相手にたくさん思い伝えて……受け止めてもらえないときもちろんある、だけどそれでもへこたれずにどうか元気でハッピーに過ごしてくれな。プレサンスならできます、絶対に。卒業おめでとうさん!以上!」
「……うん!セイジせんせーも奥さんとずっとずっと仲良くねっ」
「おうよー。アディオスバイバイ!プレサンス!」

その言葉に送られて、2-Gの教室をプレサンスは振り向かずに去る。テスト合格のご褒美にもらって、ボトムのポケットにお守り代わりとして忍ばせていたけいけんアメの感触を覚えながら。

「……言う通り気持ち伝えたから、ハッピー…… …… ……の、はずなんだけどな」

セイジが自分を女性として愛することは決して無い。解っていた。それでも。ジワリ、というよりブワリとせりあがってきたものは止められなくて、続く言葉は涙声になって。プレサンスの目からとうとう、彼の前では見せなかった一粒涙が落ちた。卒業生が着けるコサージュは花の形だから、露に濡れるところを思わせる光景だ。そのまま廊下を思い出と一緒にゆっくり、ゆっくりと歩きながら、プレサンスはほろ苦い“レッスン”の余韻に浸る――。



父の仕事の関係で急に決まった、パルデア地方への引っ越し。言葉も風習も何もかもが違う未知の地。両親ともパルデアに留学していたことがあるから日常会話は親に教わることになったし、「勉強しておきなさい」と、この地の言葉を学ぶためのテキストも買い与えられてはいた。とはいえ、発つまでにあまり猶予が無かった上に、プレサンスにしてみれば自分の意志とは無関係のこと。慣れ親しんできた地を好きで離れるわけではない分、進んでテキストを開いてみようという気にも、親から習おうという気にもなれなかったから、それのページをパラパラめくるだけで一通り済んだということにしてお茶を濁した。そんなヒマがあったら、友達との別れまでのわずかな時間、一分一秒まで無駄にせず遊び倒していたかった。それに結局親も親で色々な手続きだとかに忙殺されていたので、思ったように時間が取れなかったのだ。

そんなこんなで新しい地にやって来て早々、父から「プレサンスのアカデミー転入の手続きを済ませてきたから明日から行きなさい。ほら前に話したろう、教頭先生とパパはタマムシ大学時代からの誼があってね。言葉は通ううちに自然と覚えられるさ」などと促され、プレサンスは着慣れない制服に袖を通し、重い足取りで渋々登校した。なのに、同窓のあれこれがあるなどとはいっても連携が取れていなかったらしい。丁重に迎えられるどころか、いかにもやる気の無さそうな受付スタッフから、早口でおざなりで不親切な説明を受け、書類を放るように渡されただけだった。

また説明を求めようかとも思った。だがその前に他の生徒が話しかけていたし、おまけに件のスタッフは面倒そうに舌打ちしていたから止しておくことにしたのだ。そして気が重いまま、まだ校内の勝手も(トイレの位置を除いては)よくわかっていなかったから、とりあえずそこから一番近い教室へ赴いたのだ。

それが言語学のクラスだったわけだが、一言で言えば散々だった。何を言っているのかほとんど解らない。なのにお構いなしに「はい、じゃあそこのあなた答えて」とばかりに当てられて、中年ぐらいの女教師の言うことを真似ながらしどろもどろに答えた。すると彼女は、クラス中にニコリともせず何かコメントしたではないか。するととたんに広がったのは、教室中に広がる忍び笑い。愉快なものでないことは確かで――きっと、笑われていたんだろう。プレサンスは耳まで真っ赤にして俯くしかできなかった。「笑うのを止めて」と言いたい。でも、一体なんて言えば?ちゃんと勉強しておけばよかったと、今更ながらに思った。

しかも、その中で一番大きな声で笑った女子とその取り巻きが厄介だった。授業が終わってもその日一日、廊下ですれ違う度、食堂で見かける度、プレサンスに何か悪口と思しきことを小声で浴びせ、思わず彼女が振り向けば、取り巻きと目配せをしては嘲笑混じりの苦笑いをプレサンスに投げつけてきて――言葉がまだよく解らなくても。いや解らないからこそ、視線や仕草に込められた意味は言葉以上に感じ取れてしまったのだ。

「アカデミーもパルデアもありえない無理!来たくなかったこんなとこ!!」

その晩、プレサンスは与えられていた寮の自室ではなく家に帰った。そして、テキストをゴミ箱に放り投げたあと一晩中ボロボロ泣いた。ただただ、悔しかった。恥ずかしかった。悲しかった。惨めだった。事情を聞いた両親は「困るなあ、寄付金だってうちにははした金とはいえアカデミーに一体いくら積んだと思っているんだ」「パパの言う通りよ。それなのにプレサンスの面倒もろくに見ないだなんて!」などと揃ってピントのずれた憤りを口にしていたが、問題はそこではないのに。

そして次の日から、登校しようとするとお腹がひどく痛くなったり、吐いてしまったりで休み続け、そんなこんなであっという間に数か月が経っていた。来てからしばらくは、自宅のベッドでスマホロトムをいじってSNSでやり取りするのが心の支えだった。でも、前に仲の良かった友達は皆、あの地で忙しくも充実した生活を送っている様子で。こんな状態の自分との対比が惨めで、いつしかそれすら開かなくなっていた。学校関係者はプレサンスの件の釈明にもついぞ訪れなかった。来たのかもしれないが彼女は知らなかった、どうでもよかった。ただ日がなぼんやりスマホロトムをいじり続けた。当然何を言っているかは解らないが、動画サイトでおすすめに出て来た配信者(ピンクと水色の髪に黄色い服という、サムネイル画像で既に目立つ出で立ちだった)に気まぐれにスパチャを投げたり、アカデミー関係の投稿――例えば制服を着崩して星形のフレームのサングラスをかけているグループとか――をうっかり見てしまってはブロックしたりするのに忙しかった。

その間に「もといたとこに一人で帰りたい」と意を決して切り出してもダメ。それならばと「転校したい」と泣いて申し出ても却下され。そんなやり取りが続くうち、最初はプレサンスがまた登校する気になるまで待っていた両親はついにしびれを切らしたらしい。タイミングの悪いことに同じ時期には、当時のイヌガヤ校長が家庭訪問をして「指定の期日以内に登校し事情を説明しなければ退学も検討せざるを得ない」ということも言われたらしい。

そんな報せに泡を食った母は、次の日アカデミーに向かうそらをとぶタクシーに嫌がるプレサンスを強引に引っ張り込んだ(父は相変わらず仕事が忙しいらしく、起きたときには既にその姿は無かった)。娘がいじめられて不登校になろうとも、パルデア一の名門に通わせ続けることのほうが両親にとっては重要なのだ。タクシーの扉がロックされる音に、プレサンスは絶望を覚えた。

冷や汗が一筋、体を伝い落ちて行く。そらをとぶタクシーが校舎に近づいていく度、喉の奥がギュッと締め付けられるようで苦しくてたまらなかったし今もそう。そもそも、窓からアカデミーで一番高い尖塔の先端が遠くに少し見えただけで体の震えがずっと止まらずにいるのに。イキリンコはどうやらご機嫌らしいのに、乗客の気分は正反対だ。ヤバい酔いそうなんだけど、とプレサンスはげんなりした。目の前のアカデミーなんか見たくない、クラクラする。目ぇ瞑りたい……でもそしたら、あの日のこと浮かんじゃう――ちっとも楽しくなんかなかった、アカデミー初日の記憶が。

「やっぱ止める!行きたくない、どうせまた授業解んないしみんなの前で笑われるっ」
「そんなこと言って何になるの?気にしなければいい話でしょう、ともかく行きなさい。パルデアの言葉だってそうすれば自然と身に付くわ。まったくあなたって子はもう……不登校、おまけに退学寸前にまでなったかと思えば挙句に校舎の目の前で泣きわめくこの体たらくは何!お願いだからママに恥ずかしい思いさせないでちょうだい、ねえ何が不満なのパパやパパのお知り合いのおかげでこの名門に入れたっていうのに!ともかくママ先に校長先生にご挨拶とお詫びしてくるわね、みすみす退学なんかさせるものですか」

タクシーの運転手の「あのー、次つかえてますんで」という言葉に急かされて、母娘はアカデミーの敷地に降り立ちしばし口喧嘩をした。母は言いたいだけ言い放つと、さっさと校内へ入って行ってしまうが、プレサンスは後を追う気にもなれない。来いって言われても困るんだけど。そう思いながら、隅の方にある日当たりの良くないベンチに座った。そそくさと逃げるように。

こちらをチラとも見ずに登校していくほかの学生たちは、みんな眩しい。だけど。プレサンスは俯いた。あたしはああなれないんだ。ヤだな、帰りたいよ――彼女が気落ちした、そのときだった。

「おはよーさん親愛なるオヌシよ、ご機嫌うるわしゅう!」
「え!?」

そこへ影が差して。次に聞こえたのは慣れ親しんできた言葉。「うるわしゅう」とはとても言えない気分だし、少し発音だって違うけれど、懐かしさの前ではそんなことは気にならない。プレサンスはとっさにその方を見上げた。パルデアに来てから、家族以外にその言葉で話しかけられたのはいつぶりだろう?

「なんとも元気ハツラツな顔が見れてワシたいそうハッピーよ。おっと申し遅れたな。マイネームイズセイジ、ニューティーチャー!ユアネームよろシルブプレ?」
「は?」

だが、その次には違う意味で面食らった。そこにいたのは、頭には剃り込みを入れ綺麗に整えた顎髭を蓄えて、派手な柄のスーツに身を包んだ褐色肌の男性。アカデミーには年上の学生だって少なくないといつか聞いたけれど、制服を着ていないのでどうもそうではないようだ。声のしてきた方向にいるのは彼だけだし、その表情はにこやかそのものではあるけれど……どゆこと?ってかこの人誰?イカつすぎくない? プレサンスは嬉しかった気持ちも忘れ固まってしまった。

「……」
「ンンー?お返事無いとサッドネスだー」
「プレサンス、だけど」

一方セイジと名乗った相手は、プレサンスのそんな反応を見て取りつつも言葉を紡ぐのは止めず、しかし打って変わって悲しそうな表情を浮かべたものだからつい反応してしまった。すると、プレサンスが応えるや彼はとたんに「ベリベリグッドなお返事サンキューなのさプレサンス!」と、ぱあっと笑ったのだ。外見と珍妙な言葉遣いのせいで近寄りがたい雰囲気だが、根はとてもフレンドリーらしい。

「なんでその言葉解んの?こっちじゃ話せる人ほとんどいないのに」
「疑問をすぐに質問する姿勢やイイネ。実は何を隠そう、セイジはまだニューライスやけども言語学の先生!なもんでさっきのオヌシとママさんが話してた言葉で、パルデア以外からいらっしゃったってわかるワケだな。いや、聞きイアー立てるつもりはなかったんやけども。これ言語ジョークな。ときにプレサンス、オヌシもしやパルデアの言葉初心者さんか?」
「……ん」

プレサンスは顔を強張らせながら返事をした。さきほどの親子喧嘩を聞かれていた以上に、相手が言語学の教師だと知ったからだ。

「実はパルデア以外から来た少年少女、いや老若男女に向けて『ゼロから勉強するパルデア語』ってクラスを開くことになったのよ。オヌシも出てくれたらワシ、ハッピーなんだがな……もちろん何か事情があって辛いなら無理にとは言いません。けど、いつか伝え合うことと解り合うこと通して、新しい扉を開いてほしいって気持ちもあるんだわ。プレサンスとレッスンで会えるの、セイジは首リキキリンにして待ってるでんがなー。ほな、トゥデイはここらでチュッス!」

そう言い置き手を振ってから、セイジはアカデミーの正面玄関へと向かっていく。脚が長い分、その姿が見えなくなるのに時間は掛からなかった。

何言ってんだか、あの人。プレサンスはその背を呆れ笑いで見送っていた。言語学なんか行くわけないし。セイジのせいではなくても、たった一日で嫌な思い出ばかりできてしまった科目なんて。

……でも。このアカデミーで、いやパルデアに来て初めて「待っている」と言われたら。嘲笑うようなイヤな感じではない笑顔を向けられたら――扉を開いて踏み出して、彼のあの笑顔にもう一度会いたいという気持ちが段々と芽生えてくるというもので。そして、いつか習った言葉で「好き」と言いたいと思うわけで。初恋、だったのかもしれない。

それに背中を押されるように、プレサンスは動いた。あてずっぽうでそれらしい部屋を探し回り、校長室に駆け込むや面食らう母たちを前に「今日からあたし鬼レベで通うんで!」と宣言して文字通り秒で終わらせ、その足で購買に飛んでいきテキストを買ってみっちり予習した。いいところを見せたかったのだ。

『ゼロから勉強するパルデア語』教室へ行くのは、もう怖くなかった。セイジがいるから。授業が始まるなり掛けられた「おお、そこなるはプレサンス。セイジのクラスにウェルカムだよー!」という歓迎の言葉に応えたくて、質問をした彼が誰かを指名しようとするより前に手をサッと挙げた。いざ答えたら、緊張して発音が少しおかしくなってしまった。また、どこからか忍び笑いが――聞こえなかった。そんなもの、どこからも。それどころか。

「すごいねーベリベリ大正解だ。プレサンスはいま!パルデアの言葉マスターへの第一歩を踏み出した」

褒められた。頬が、あの日とは違う嬉しい理由で紅潮していく……。

「突然ですが!セイジのワンポイントアドバイス!発音がテキストとちょいとばかし違ったって全然OK、文法が微妙にユニークだってモーマンタイ。伝えたいって気持ちと伝えようと頑張るハートこそが何より大事だし、受け止めるほうもそれをリスペクトプリーズ。おっとチャイムが来やがったね!オヌシたちとはしばしの別れ、シーユーネクストタイム!」

それ以来というもの、プレサンスの世界は文字通り開けたのだ。買ったテキストは何度もページをめくられたものだからあっという間にボロボロになった。小テストでは毎回満点か、間違えても1つか2つほどで、少なくとも言語学ではとても良い成績を取れるようになった。複雑な単語はまだ難しくても、簡単なものなら少しずつなんとか解るようになって、セイジに褒めに褒められ、嬉しくなっていい意味で調子に乗って。そしてその分言語学以外の授業にも付いていけていると手ごたえを感じられて、日を追うごとに楽しくなってきた――マジ、楽しい。世界が広がるってこういうことなんだ。プレサンスは、あんなに嫌だったパルデアが言葉を通して身近になったのを感じていた。友達も少しずつできた。自宅にいるよりアカデミーで過ごす一秒一秒がもう楽しくて楽しくて仕方なくて、両親が「たまには帰って来なさい」と連絡してくるほどになった。

変わったのはプレサンスだけではなくアカデミーそのものだってそうだった。彼女が転校してきたばかりのときのようなよそよそしさは、もうすっかりどこかへ消え去っていた。聞けば、プレサンスが転入してきた当時のイヌガヤ校長以下、そのころにいた教師陣が何故か一斉に辞めて総入れ替えになったとか。そういえば受付でも、あのおざなりで冷たいスタッフの姿を道理で見かけなくなり、とてもにこやかで親切な人たちになった。あと、かつてプレサンスを嗤った女子たちは既に退学したと、風の便りで耳にした。


――だが。そんなとき「事件」は起きた。『ゼロからはじめる』クラスで優秀な成績を取ったことで、パルデアの言葉だけで行われるより難しいクラスへ移ることを許されて、張り切っていた矢先だった。

「そうそう、この間ワシとマイワイフがありがた岩に行ったときになー」

授業中の雑談でセイジから飛び出したそんな言葉に、プレサンスはニャース柄のペンを思い切り取り落とした。うそ。マイワイフって、マジ? それが何を意味しているのか、プレサンスはもう知ってしまったのだ――皮肉にも、彼に想いを伝えたくて猛勉強した言葉が解るようになったことで。落としたものを拾うのも忘れて耳を塞ぎたくなったけれど、通りの良い声はいつも通りクラス中によく響き続ける。おまけによくよく見れば、セイジの左手の薬指にはその証が輝いていた。『ゼロから始める』クラスじゃ着けてなかったじゃん、と叫びそうになったのを、どうにか抑えるしかなかった。

「せんせーラブラブじゃーん」
「その分大ゲンカもしょっちゅーやけどなー。だけどお互いのハートをルチャし合えばその分もっと解り合えてラブラブになれるわけ」……。

どうして、あんなにハッキリ聞き取れちゃったんだろう。奥さんのこと話す先生、美術の授業で見たテラスタルみたくキラキラしてた。大好きなんだなって解った。「マイワイフ」なんて言葉、解らないままでいたかった……プレサンスは言語学のクラスのあと、友人たちとテーブルシティのカフェで駄弁るのも断って寮の部屋で泣いた。あれが、言語学がらみのことで泣いた二度目にして、最後のときだった。



思い出と一緒に歩いた廊下の果て、とうとう玄関扉に辿り着いてしまった。そんなプレサンスの頬に、夜風に吹かれて飛んできたものがある。薄いピンク色の花びらが一枚……ライトに照らされた、確かパルデアでは馴染みの無い桜とかいう木に咲く花の花びらだ。ここからずっと遠い東の地方にある学校と姉妹校になったとき、向こうから贈られた記念樹だとか聞いた。それはプレサンスの目じりから落ちそうになった滴をコサージュの代わりに吸い取って、また風に攫われてどこかへと姿を消した。

学び舎を去り行くプレサンスのそんな様子を、その背がやがて教室から見えなくなるまで、セイジは教室の窓からモノも言わずに見送った。左手の薬指に輝くそれに、いつの間にか昇っていた微かな月の明かりが反射していた。



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