マドモアゼル・テリブル(後)


こく、こく。やがてグラスを口元に持って行ったプレサンスが薬を飲み下していく小さな音がし始める。水を飲みながらも呼吸は苦しそうだ。1口飲んでは口を離して息を吸いまた水を含み、の繰り返し。合間にハアハアという荒い息が仮眠室に吐きだされてはすぐに消えていく。咳をしていたから喉が冒されているのは確かだろうが、口で呼吸をしているということは鼻にも来ていて息苦しいのかもしれない。その様子を眺めながらプラターヌはそう推測していた。
ただ、見ているとはいっても別にハピナスのように慈悲深く看病にあたろうという気持ちはさほどない。普段の大胆に好意を表してくることは少しばかり疎ましいもののこんな状態の体を押してきたのを突き放すのもなんだと思ったからそばにいるに過ぎないし(かといって手取り足取り何もかも世話をするつもりもないが)、飲みほしたらすぐに受け取って早いところ寝かしつけようと思っていた。だからそのタイミングを計るためというのが正直なところだった。それにメガストーンの分析にとりかかりたいということもある。ただし病人を急かすわけにもいかないから、終わるまではもちろん待つつもりで。そうだ、何とも思わずにいたのだ。

その、はずだったのに。

またちらりと見ると、プレサンスはもうグラスをほとんど空にして傾けていたそれを口から離したところだった。よし、これを受け取ってと…手を伸ばしかけたその時だった。

「あ!」
「!」

小さな悲鳴が上がる。プレサンスがグラスを手から滑らせ落としかけたのだ。プラターヌは条件反射でとっさに両手で捕らえてそれが重力に従うのを阻もうとした。下がベッドだし衝撃は床に落ちたときより軽くなるだろう。とはいえガラスのものだから壊れては後始末も面倒だし怪我だってするかもしれない。果たして反応が早かったのが幸いして手の中に収まり割れずに済んだ。

「我ながらナイスキャッチ」
「ごめ、なさ」
「いいよ。ほら、飲んだなら寝なさい」

謝るプレサンスをなだめながら休むように促すと、少女はそっとブランケットを手元に引き寄せ始める。かけた時は肩まで覆っていたが先ほど体を起こした時に落ちていたのだ。動作がゆっくりなのは熱で体がだるいからだろうからもどかしいけど仕方ないなと、視界の端にその光景を映しながらそう思った。

ところで。今プラターヌはプレサンスのベッドの横にいて、グラスは彼の手の中にある。視線はそれの落下未遂に合わせて降下した状態だ。危なかったと安心したのは束の間のこと。今見ているのは落としかける前にグラスを持っていた位置の首のあたりからすぐ下のところ。すなわち、当然次に目につくのは…

(僕は一体何をしてるんだ、いやでも人体の構造上首から下に目をやればそこにいくのは仕方がないじゃないか、というよりそもそも誰に言い訳をしてるんだ!)

そう自問自答しながらもそこに目を釘付けにされて仕方がない。喉がゴクリと鳴る。
そこ、とはつまり早い呼吸に合わせて上下する胸元。…そういえば、ここ最近ずいぶんと質感を増してきていて。だから服のシルエットのその部分はさらにゆるやかな曲線を描くようになってきた、ような―そんなことをぼんやりと考えたところで思わずハッとした。今しがた自制しようと働かせた思考はなんだったというのか。別にそこばかり見ているわけじゃないんだ、と誰にも聞かれることなく消えていく釈明をごまかすように紡ぐ。慌てて視線を外してそこから上を見れば熱のせいで潤んだ瞳…は今は目を閉じているので見えない。苦しい中水を飲み終えて一息つこうとしているからか。が、その代わりに上気した頬に目が行ってしまう。そして先ほどまでは聞こえていてもどうとも思わなかった相変わらず荒い息遣いが鼓膜を叩くようになって。視覚を麻痺させ聴覚も刺激する少女の姿は、実に扇情的なことこの上なかった。

―だから、だから。その様子はプラターヌの体をひどく熱くさせていた。やめろ、病人の子にこんな邪な気持ちを抱いて…!そう思いながらも鼓動が1秒ごとに加速してやまない。ジンとしびれるような甘い遅効性の毒が回り始めている。プレサンスと共有するかのように上がってやまない体温は、彼をじわじわと蝕みつつあった。
先ほどの子供らしく苦い薬を嫌がる仕草。しかしそんな幼気さとは裏腹に着実に成長しつつある肉体に加え、風邪のせいで形容しがたい色気のある雰囲気までまとって。何と危険な美しさであることか。それはまさしく少女から大人へと成長しつつあるこの時期特有の、彼を最も惹きつけながらも同時に引きずられたくなくて遠ざけたかったアンヴィヴァレンスな魅力そのもの。これまでただ漠然と感じ取っていたが眼の前でこうも具体的にはっきりと見せつけられ聞かされて。ついには受け流そうとしていたのにもかかわらず、今いとも簡単にプレサンスに浸食されようとしている―その事実に気づかされたプラターヌの脳内は静かに、しかしにわかに恐慌状態の様相を呈し始めていた。

この状態をどうしたらいいというのだろう。すがるように方策を思い浮かべようとした。だが当然今までに読んだどんな文献にもこんな時の対処法など載っているわけがない。その上数多い遍歴の経験でも感じたことのないようなこの疼きは、いったい。放っておいたら身を焼かれてしまいそうだ。自分はこのままこの子の危うさをはらんだ魅惑の気に飲み込まれてしまうのか。立場上からも道徳上からも非常にまずいし、そもそもそういうエロチシズムに骨抜きにされるのを危ぶんでいたからこの子を少なくとも大人になるまでは好くまいと自戒していたのに、ここであっさりと崩されてしまいそうだなんて―
プラターヌは戦慄しつつ、しかし何とか邪念を振り払い理性を正常な状態に戻そうと格闘し始めた。ひとまず薬は与えたのだからこれでいいはずだ、あとは付きっきりになる必要もないのだから横にさせておいてこの子のもとを離れよう、今すぐに。でないと…でないと、僕は。いや第一風邪がうつるとよくないからね、うん。自分の言葉に頷いた時だった。

「はか、せ」
「な、何かな」
「ぼーっと、して…どした、の」
「…別に。何でもないよ。ああ服んだんだね、じゃあしばらく安静にすること。僕はこのフロアにいるから何かあったら呼んでね」

葛藤の時間は短いものではなかったとみえる。傍から見れば呆けた顔をしていたのか、プレサンスの心配そうな声で現実に引き戻された。これはいけない助かった、と心の中で少しばかり礼を述べつつ空になったグラスを握り直す。理性に入ったヒビの修復はどうにかこうにかながらうまくいった。毒は全身に回らずに済みそうだ。
彼女はというともうブランケットをかけてベッドに身を横たえていた。静かに寝ているようにという指示に珍しく素直に従う気らしい。治したい気持ちは強いみたいだから薬が早く効いてくれれば、というかいつもこれくらい扱いやすいとありがたいけどねー、無理な相談かな。とにかく寝てくれるならそれはそれでいいか。そう思いながら仮眠室のドアに向かって歩き始めようとした―のだが。

「ね、」
くい。不意に後ろから白衣の裾を引っ張られて引き留められた。不意を突かれ驚いて振り向けば、そこには蕩けた瞳に潤みといつもの誘惑するような煌めきではない何かを映して見上げてくるプレサンス。プラターヌは立っているから自然と見下ろす形になって目と目が合う。その瞬間にまずい、と本能が警告する。せっかく理性を保てたっていうのに、これ以上君のもとにいたら逆戻りじゃないか。まずいんだよ、離してくれ、子供なのに大人の僕をこんなに惑わせないでくれ―しかし手を振り払えない。足が動かない。違う、これは力云々の問題ではなくてもっと別の…
「ここ、いて」
口を開けばとてもか細い、自分の存在を請う声。いつもの生意気さはなりを潜めて、ひどく心細そうな響きがした。その落差にまたドクンと心臓が騒ぎ出そうとする。否と返すことに罪悪感すら覚えさせられそうだ。風邪をひくと人恋しくなるとは言うけれど。でも、だめなんだ。だって…

「…ごめんよ、少し急ぎの仕事があってね」
「だ、め?」
彼が答えれば、プレサンスは明らかに落胆していた。ベッドで寝ている体勢でなければうなだれながら訊いてきていたに違いない。もちろん急ぎの仕事などなかった。もしあるとすれば、ここを一刻も早く離れること。彼女の蠱惑的な全てに屈してしまう前に。

「うん、どうしても。風邪を引くと人恋しくなるとは言うけれどねー、ごめんよ僕も忙しいんだ」
いいぞ、とプラターヌは自制心をほぼ取り戻しつつある自分をほめた。寂しそうなトーンはあえて拾わずに優しい声色を作って謝りながら。すると恨みがましそうに口元をゆがめた彼女。あ、この顔じゃあ納得してないな、次は何を言い出すやら。と身構えると。
「じゃあ…なで、て」
「え」
「…そしたら、ごほっ、はなすか、ら」
「んー分かったよ…はい、これで満足かな」
「ん」

なんだ、それで済むなら安いものだ。拍子抜けすると同時に安心した。どこをとは言っていないが撫でてというからには頭をということか。そうすればこの部屋を出て行けるならいいか、と手を伸ばして数回さすってやる。
「えへへ…あり、がと」
プレサンスはプラターヌの手のひらの感触に目を細めた。口移しをしてだの行かないでほしいだのの欲求を聞き入れてもらえなかった分、ここに来てから初めて要求が通って嬉しかったのだろう。そして言った通りに白衣の裾を離すと―すぐに目を閉じてすうすう、と寝息を立て始めた。白衣を掴んでいた手はそのままだらんと下へ落ちたまま。薬を摂取してからさほど経っていないのに。まあ息苦しくもなくなってきたようだし先ほどよりは楽そうだからとにかく効きやすい体質なのかもしれない。ああ助かった。冷えないように手をブランケットの中へ入れてやる。
よし、これでストーンの分析に手を着けられる。―そして何より、一線を踏み越えなくて済んだ。安堵に体を包まれながら彼は思った。
(色っぽく見えたかと思えば頭を撫でて、ってくるとはね。それで満足してコトッと寝落ちするなんて本当に子供なんだか女なんだか分かりやしないよ)

そこに惹かれつつあって瀬戸際の攻防をしていたということからはひとまず目をそらして、プラターヌは救急箱を探した時と同じくらいに早くその場を離れた。上昇したまま下がらない体温は、近づきつつある春のせいではないことだけは確信しながら。

だから急いで仮眠室を出ていったプラターヌは気付かなかった。
「わた、し…あきらめ、ない」
プレサンスがそう夢ともうつつともつかないまま呟いたことに。
もっとも、それは折からの穏やかな風がなぜかその時だけ気まぐれに強く吹いたせいで、静寂へと押しやられてしまったけれど。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る