忍ぶ


ギンガ団本部最上階には、団長室のほかにコトブキムラの様子を一望できる屋上がある。デンボクは団長としての務めの間にここへ出て、風に吹かれながらここから景色を眺め気分転換をするのが好きだった。

ムラもできて2年。それから少しの間でずいぶん変わったものよな。いっとき赤く染まったのがウソのような青さの、裂け目の消えた空から降り注ぐ日差しを受け、デンボクは目を瞑りながら脳裏でいつかの日々を振り返る。

そうだ、変わった。発展したという意味に加えて、余所者を排しようというかつての雰囲気は鳴りを潜めて久しくなった、という意味でも。行き交う人々の中には、コトブキムラの民は当然として、イチョウ商会のほかにシンジュ団とコンゴウ団……かつての余所者の姿がちらほらいる。彼らの姿は、さして珍しいものではなくなっていた。

団同士の融和はずいぶんと進んでいる。以前は、それぞれの団の長たちや供の数名が、デンボクとの面会などのためたまに訪れる程度だった。それが今では、ノボリという男が特訓所で新しい形のポケモン勝負をあれこれ発案するようになった。ヒナツという娘が髪結いの跡を継ぎ、時折訪れるユウガオと談笑している。シンワの祭では団の垣根を越え、笑い合い、酒を酌み交わし合う者たちの姿も多く見たものだ。

そして、変わったのはムラだけではない、わたしもムベもまた同じか。だがあやつの変化は、思わぬ方向に――そこまで考えたときだった。見晴らしが良い上に懐刀の営む店は間近にあるので、その様子はよく見える。そこで製造隊の若い男が、このヒスイ地方に変化をもたらした張本人であるプレサンスに、何やら話しかけているのに気が付いたのだ。彼女が時折ムベを手伝っていることは、ほかならぬ彼から聞いているのでデンボクも把握している。その際はプレサンスもムベと揃いの頭布と前垂れを身に着けるから、もうすぐ手伝いに入るのだろう。だが距離があるので声は当然聞こえないが、卓の上の皿が空とはいえ、話が長いことからしてどうも追加の注文をしているふうではない。プレサンスの顔が段々と困り顔になりつつある。

そこへ眼光鋭いムベが割って入った。デンボクには解る、あれはシノビとしての務めを果たさんとするときのそれだ。相手の男はムベの様子に明らかに驚きアタフタした様子で、勘定を卓に放るように置くなり退散していく。だが彼はそれに一瞥もくれず、プレサンスに二言三言言いつける。彼女はコクッと頷くと、厨房のある屋内へと入っていった。

「プレサンスの動向は見張り続ける必要がある、店を手伝わせながら探るつもりだ」

これは間違いではないが口実に過ぎないことを、デンボクはとうに見抜いている。何故なら、例えば二人で酒を酌み交わした夜。「プレサンスが調査中に見つけてくるケムリイモはどれも質がいい、あやつは見る目があるぞ」と語るムベは、とても優しい眼差しをしていた。デンボクは内心たいそう驚いたものだ。どう見ても、かつて始末を命じられていた相手を思い浮かべて言うときのそれでも、酒に酔ってのたわごとでもなかったから。あの眼差しは、デンボクがかつて妻に注いでいたものとよく似ている……とはいえ同じではない。夫婦のようにお互いに向き合っているのではなく、一方からのみ向けられるもの。要は片恋だ。

そう、ムベはどうしたことかプレサンスに懸想しているのだ。デンボクは背中を押すつもりはないが、さりとて懐刀の老いらくの恋に口を挟むほど野暮ではないという自負もあった――から、言わないのだ。「そんなん、叶うもんと違うのは解っとるやろ」と。


ケムリイモは、名は体を表すとでもいうべきか、蒸すとそれはもう湯気がもうもうと立ち昇る植物だ。めかくしだまの材料になるだけはある。ムベもかつてシノビとしての任務に赴くにあたっては、必ず十数個は携えていた。撹乱に陽動にと、様々な場面でずいぶん助けられてきたものだ。

だが。あの湯気もこのときばかりはちっと収まらんものか?いや、気が付かれずにプレサンスを見るためなら都合が良いとも言えるか……シマボシのもとへ十数人前のイモモチを届け、イモヅル亭の扉をガラリと開けて。ムベは、湯気の向こうに見える影に視線をやりながら考えた。

「よし、と。カイリキー、次これもお願い」
「ぐぉお!」

ケムリの向こうの影の正体は、プレサンスだ(傍らにはケムリイモを潰してこねるために彼女のカイリキーと、とある誰かが認めた詩によれば「かえんほうしゃはやりすぎ」というので「マジカルフレイム」でイモモチを焼くために、ムベのムウマージもいるが)。彼女はまだ慣れない手つきながらも、ムベに教わった手順で一生懸命にケムリイモを剥き、籠からまた一つ手に取り、それから蒸し上がったものを手持ちに渡して……と、実にくるくるとよく働いている。開け放した窓から拭き込んできた風で段々と湯気が薄くなってきて、まだ姿全体とはいかないが彼女の手元が見えるほどには視界が開けた。

その手はいかにも娘らしく小さくて、よく日に焼けているが、滑らかで柔らかそうで。年寄りらしく節くれ立ちかさつき、幾重にも皺の寄ったムベの手とは何もかもが正反対だ。

――ふと。プレサンスの手に一瞬だけ視線を奪われながら、馬鹿馬鹿しいことをムベは夢想する。「剥き方がなっとらん、食える部分まで皮と一緒に落としよるぞ。もっとこうするんじゃ」だとか伝授するフリでもして、あの手に触れてしまえたら。あるいは、何なら今プレサンスの手の中にあるケムリイモになれたら……さぞ、心地よかろうな。

「シノビには感情も、それを狂わせる妻子だの好いた女だのも要らぬ。命のため動き、命のため散るものよ」

嫁取りを勧められたことは何度かあった。けれども、ムベはいつもそう断って歳を重ねこの齢になった。そこへ来て、老境で初めて知る本物の恋。プレサンスがイモモチを喜んで頬張る姿に、テンガン山や特訓所で対峙したときのまっすぐな目を見るたび、思い返すたび。血が騒ぎ心が震えていたばかりか、胸がどうしようもなく高鳴るのだ。ヒスイに来るずっと前には、対立するムラの女領主のもとへ正体を隠して近付き、あたかも恋心を抱いているかのように振る舞って。そして房中で彼女を虜にしてから情報を引き出し、それをもとに一網打尽にしたこともあった。

だが偽りの恋のほうがまだ楽だ。何をどうしていいやら、口説き文句の一つもわからない。しかし、とにかくプレサンスを側に置きたい、プレサンスの側にいたいし、他の男と言葉を交わしているのを見ると面白くないのだ。その相手が先ほどのように製造隊の新入りであれ、ラベン博士であれ、よく一緒に訪れている、調査隊のテルとかいう小童であろうと。「……ちぇっ、プレサンスはまたいねえのかよ?ここを手伝ってるときがあるからって聞きつけて声でもかけてやろうと来てんのに、いつも空振りだ」「まったくだ。爺にメシ持ってこられて喜ぶ趣味なんざ……」この間耳にした客のボヤキが蘇ってきて、ムベはしかめっ面になった。そう、最初は接客をさせていたが、売上はいいとして、プレサンス目当ての客も増えたので面白くなくなり、厨房のことを任せるようになったのだ。

「ムベさん?あ、あの、このザルってどこに置いたらいいですか」

プレサンスが何やら訊ねてきた――その顔には、少しだけ怯えが溶けている。

解っている。プレサンスが調査の帰りに(本当は過酷で容赦のない自然の中を駆け回った体を早く休めたいだろうに)、シマボシのもとへ報告をしたらその足ですぐにケムリイモを持ってくるのは、「ケムリイモがとれたらわしのところにこい」と言い聞かせているから、だけではないと。おそらくケムリイモを献上することによってギンガ団やコトブキムラに貢献し続けるつもりだと示し、ひいては身の安全を図りたいからだろう。ムベだって伊達に歳を重ねてはいない、それくらいは見抜けるのだ。

テンガン山でムベが「あんたを始末する」とプレサンスに告げたあのとき。あの娘は困惑しきりで、顔には「どういうこと?」と大きく書いてあった。いまだにムベの脳裏に焼き付いているあれからは、裂け目の向こうの世界では命を狙われる機会自体想像したことなぞ無いのだと見て取れた。

そんな相手が、ケムリイモを持ってきたとき。彼女に駄賃を渡しがてら、ムベはこう持ち掛けたのだ。「セキも弟子入りしたとはいえ、人手がもう少し欲しくての。調査の合間で構わんから手伝ってはくれぬか?シマボシに話は付けておくし、テンガンざんで約束した通りとびっきりのを食わせてやる。スナハマダイコンの擦り下ろしでもきらきらミツでも、何でもたんと付けてもいい」と。果たしてプレサンスは甘味に釣られたのだろう、目をキラキラさせながら「はいっ!」と頷いたので、ムベは内心小躍りしたい気分だったのだ。

貢献したい気持ちを利用するようで胸が痛まないではない。シノビとして敵対勢力に近付き諜報に携わるときは、人の思いを利用することに一切のためらいなど感じなかったというに。

そもそも親子どころか爺と孫娘くらいの歳の差。初対面のころはプレサンスを「うろんな奴」呼ばわりしてしまったし、何よりデンボクの指令とはいえ命を狙おうとした男だ。そんな爺に想いを寄せられて喜ぶ女など、ヒスイ広しといえどどこにいる?想いを告げなどしないから、この思いは忍ばせておくから。だが、どうか、そばにプレサンスを置くことと、プレサンスのそばにあることを、どうか許してはくれまいか……。

そんな思いを懐に忍ばせながら、ムベは「そのザルなら水瓶の横じゃな。置いたら追加であっちの山盛りになっとる分を蒸かすのも頼むぞ」と、食事処の亭主としてプレサンスに言いつけるのだ。本当は口説き文句の一つでも言いたい気持ちを、煙の中でくるんで隠すかのように。



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