欲しかったもの


ビリリ、とラップを破る音は妙に尖って聞こえた。わたしの苛立ちと同調しているかのようだ、とズミは思う。

今夜もまた、冷めきっていること以外何も変わらず残ったままの料理の皿に、透明な膜をかけなくてはいけないのか。
ラップを置き、皿を見下ろす。磨き上げられた白磁の皿の、料理が載っていない隅に、険しい自分の目が反射する。早くも水滴の付き始めたラップの表面越しに透けて見える料理は、きっと今夜もプレサンスに堪能されないままあとで自分が食べるのだろう。食材が勿体ないという以上に、自分の料理そのものを侮辱された気がしてならない。
ズミが吐いた溜息は、キッチンのシミ一つない壁に吸収されることなく「消化不良」のまま、淀んだ気持ちだけが澱のように彼の中に溜まっていくばかりだった。

ズミは四天王に就任して間もないころから、都合が付く日は他の四天王とチャンピオンに料理を振舞うことを習慣としていた。別に負担に感じたことはない。人やポケモンが息をするように、自分はシェフだから料理を拵える。伝説などと謳われるほどに磨いた腕だって、ポケモンバトルにせよ料理にせよ、振るわなければ錆びつき落ちて行くだけだから、それを防ぎたいという目的もあった。
周りはというと、カルネとドラセナとガンピは何だって喜んで平らげる。パキラも「ミディアムの焼き加減はあと3秒長く」とか「今度のスープはウデッポウのハサミから取ったものがいいわ」とかあれこれ言いながらも、なんだかんだで完食する。それに、友人のザクロやマーシュも「美味しい」というコメントは欠かさない。そうした反応はやはり嬉しいことではあった。

――だが、プレサンスは。

「いらないです!」

プレサンスが新たなチャンピオンとなって間もなく、彼女が危なげなく挑戦者を退けたいつかの日に廊下で出くわした折、ズミは初めて「プレサンス、夕食を作りましたのであなたも」と誘いかけた。だが彼を遮り、プレサンスはそう叫ぶや自分の部屋に一目散に帰ってしまったのだ。
その時は気分的なものであろうか、とズミは捉えていた。が、それからしばらくして知ってしまったのだ。プレサンスがインスタント食品やらサプリメントだとか、そういうものしか口にしていないようだということを。それに、あれ以来何度か誘いかけたが、彼女が首を縦に振ったことはいまだ一度も無い。
まともな、もっと言えばわたしが作ったものは食べないというのに、何故……?押し付けたいわけではない。だが、理由も明かさずかたくなに拒絶されては――ズミはプレサンスと出会うまで、これほどの屈辱を料理人となってこの方味わったことはなかった。だが同時に、その点が気になってもいたが訊けずにいた。


数時間後、プレサンスの部屋にズミはいた。彼女の顔はバトルの時のそれとは反対に、青ざめて生気が無い。肌はかなり荒れてしまっているし、目には光が、髪にはツヤが無い。今しがた貧血、それからストレスからくる軽度の栄養失調だという診断と簡単な処置をされたばかりなので無理はないだろうが。
「それでは、私はこれで」と出て行ったリーグ付きの医療スタッフの足音が遠ざかるや、ズミはプレサンスに向き直った。この際だから、ずっと気になっていたあのことの真相を確かめたかったのだ。

「プレサンス。お訊ねしたいことがあります。わたしが誘いかけた時に食事を断るのは、遠慮や人見知りからであるようには見えません。どこか恐怖すら覚えているように思えますが。何故です」
「え?それ今聞きます?っていうか長くなりますけど」
「結構」

私、一応病人なんだけど……プレサンスはそう思ったが、ここで断ると「痴れ者が!」と言われそうだったので事情を明かすことにした。

「まず私の両親、ホントの親じゃなくて」
「……それとこれとが、一体どこでどう繋がると?」
「そもそも私、子供ができなかったエリートトレーナーの夫婦に引き取られたんです。ホントの親もエリートトレーナーで今の親とはライバル同士だったっていうんだけど、どっちもジムリーダーとか四天王とか目指してたんだけど結局なれなかった。でもその夫婦の子の私なら、他の子供貰ってくるより可能性もあるんじゃないかって。自分たちが諦めたチャンピオンの座を目指させるために、って」

ポツリポツリと、プレサンスは続ける。

「手の込んだものを食べさせてもらえたことなんて、なかった。そりゃあさすがにご飯はもらえた……けど、ずっとインスタントとか、栄養バーとかあとサプリばっかりで。食事なんか早く済ませれば、その時間をバトルの特訓に充てられるからって。親はレストランとかからのご飯取り寄せてたのに、私にはくれなかった。一度どうしてもお腹が空いて、親の食事こっそり食べたらすごく怒られた。バトルに勝ち続けてれば優しいけど、負けたらお前なんて引き取るんじゃなかったってフツーに言う人たちだし。しかもその時は、スランプで負け続きだったから余計、親は気に入らなかったのかも」
「……」
「だから、正直すごく怖い。ちゃんとした食事なんて目の前にあっても、食べていいのかな、って。あとで嫌なこと言われないかなって……だから、考えるよりも先に要らないって言っちゃう」

プレサンスの目に、薄い涙の幕が張り始める。なんということだ。ズミは嘆息した。いつしか「ちゃんとした食事」そのものが、プレサンスのトラウマになっていたのか。そんな養父母のせいで、プレサンスの食事にまつわる価値観は歪んでしまったのか……そして抱いた、料理人として許しがたい、という思いは、彼をたやすく突き動かしていた。

「どこ行くんですかズミさん?」

プレサンスが背後で問うていたが、ズミは弾かれるように立ち上がり一旦部屋を出た。キッチンへ駆け込むや、今日出すつもりだったメニューを手早く温めなおし、シルバーも用意してトレーに載せ、彼女のもとへ戻って。


「野菜のスープリゾットと、モーモーチーズムースのオボン添えです。プレサンス、今夜はこちらをどうぞ」
「……食べて……いい、んですか?怒らない?ほんとに?」
「ええ無論です。プレサンス、あなたのために作ったのですから。どうぞ召し上がれ」

プレサンスはそれからしばらく、不安そうにズミとトレーとを交互に見た。だが、ややあってスプーンを手に取り。

「……おい、しい」
「!」
「すっごく、おいしい」

そうポロッと呟くや、プレサンスは途端に両目から大粒の涙をボロボロと流しながら眼の前の料理に手を付け始めた。その様子は、食べるというよりもはや貪っていると表すほうが正確なくらいに。
リゾットを掬ったスプーンから米が垂れ落ちるのもお構いなしに、プレサンスは口に運ぶ。インスタントのスープよりも優しい味だ。オボンのみなんて、ポケモンに持たせることはあっても自分が食べたことは無かった。同じ栄養素はサプリでも摂れる。だけどきのみならこんなに瑞々しかったなんて――。

「美味しい……!」

急いで掻き込むせいでスープはスプーンからこぼれるし、何度か喉に詰まらせそうにもなっていた。いつものズミなら、もしこんなマナーのなっていない客が自分の店に来たら、文句の一つ二つぶつけてやっているところだ。いや、「代金は結構」と言い渡して叩き出したって足りるものか。
だが、この時だけはプレサンスの顔を、料理を心から喜び楽しむその姿を、汚いとは微塵も思わなかった。
「美味しい」……これまで数えきれないほどの相手に料理を振る舞ってきた中で、これまた数えきれないほど聞いたその言葉。だが、ズミの心をこれほどにまで喜びと誇りで満たす声色で紡がれたことはあったろうか。いや、思い当たらない。

「ありがとう、ズミさん。美味しいです」
「こちらこそ」

食べることの喜びを知って心の底から出たプレサンスのその言葉こそ、彼が一番聞きたかった、欲しかった言葉だ。心の中で反芻しながら、ズミは珍しいことに少しだけ微笑んで、何も言わずにただ、傍で見守り続けた。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -