マドモアゼル・テリブル(前)


春の足音が聞こえてきた光の都ことミアレシティは今日もその名に違わずよく晴れて、吹く度に春を連れてくるような暖かく穏やかな風も吹いている。時折思い出したかのように街を吹き抜けていき、せっかちに芽吹いた街路樹の葉をのんびりと揺らしながら。サウスストリートにある3階建ての瀟洒な建物、カロス地方のポケモン博士たるプラターヌの研究の拠点であるそこももちろんその風を受けていた。
そんな研究所の室内には今絨毯の上を靴が擦る音が上がっている。普段なら研究員たちがデータや調査の結果を参照しようと歩き回って立てる音だ。しかし今日は休日、そしてその音はどう聞いても1人分のそれだった。
外の光景と比べて、機械やら難しそうな文献の並べられた本棚の間やらをぬって立てる場所を変えていくその音は何やらせわしない。止んだかと思えば次はごそごそという何かを探る音。最後にぱかり、と何かが開かれて。この一連の音を立てていた張本人であるプラターヌはその箱――救急箱の中身に目を走らせた。最低限の応急処置ができる包帯に絆創膏、胃薬にピンセットなどなどがあるけれど、肝心の探し物には巡り合えていない。探し物はえてして欲しいときに限ってすぐに見つからないものだ。
「風邪薬はどれだったかなあ、買い置きはあったはず」
息だけの声で呟きながら捜索を続ける――「まったく、本当に無茶をしてくれるよ」という独り言も一緒に乗せて。

プラターヌが5人の子供たちにポケモン図鑑を託してから、早いもので季節が一巡りしようとしていた。歯車を狂わせたかつての友との悲しき別れの傷も少しばかりは癒え、カロスの地もだいぶ落ち着きを取り戻しつつある。
フレア団の野望を阻止し世界を救ったことで一躍有名になったその後の彼らはと言えば、バトルやダンスの腕を上げることに力を注いだり。それに図鑑データの収集に励んだり他の地方への旅立ちを検討し始めたりと再びそれぞれの道へ踏み出していた。
そしてそのうちの1人であるプレサンスは殿堂入りを果たしたものの「1トレーナーとしてまた再出発したい」とチャンピオンに就任することはなく。代わりに今はメガシンカのさらなる謎を解き明かすべく、メガストーンの情報や現物を集めに各地を回っている。
が、今日もその調査結果の報告のために研究所を訪れた彼女の異変に気付いてみれば。

「確かにもうすぐ春が来るし子供は風の子とはいうよ。でもね、ヒャッコクやエイセツのあたりを薄着で駆け回ればどうなるか分らない歳じゃないはずだよ?」

見つけ出した風邪薬と水の入ったグラスを持って彼女のもとへ戻ったプラターヌは、彼には珍しく少しばかり非難を込めた調子でそう言った。
今日は新に発見したメガストーンを届けに来る約束だった。ところが研究所を訪れたプレサンスは、それを彼に渡すと同時にがくりと崩れ落ちたのだ。
会った瞬間からどこか辛そうだなとは思っていた。が、そうなった以上明らかに体調が優れない状態であることは間違いないので訳を尋ねてみると、カロスでも寒冷な地域で防寒もそこそこに調査をしていたのだという。だからもしや、と額に手をやれば思わずそれを引っ込めてしまうほどの熱を出していた。そこで慌てて仮眠室のベッドに寝かせた―というのが今に至るまでの顛末だった。
研究員たちが泊まり込みで仕事にあたる機会はほとんど無い(そもそもプラターヌは部下たちに泊り込んでの仕事どころか残業だって極力させない主義である。第一そんなものは能率が悪い)が、こういった体調不良の時のためにと整えてあるのだ。厚手のブランケットを何枚も重ねているから見た目は暑そうだが、風邪をのときは身体を温めるのが先決だから致し方ない。
「どうしてちゃんと休まなかったの」
貼られたラベルの注意書きを見て子供の分量は一回何粒だったか確認しながらと問えば。
「だっ、て、すぐ…とどけたく、て」
どうやらこんな体調でも約束を反故にしたくなかったようだ。かすれた声でたどたどしくそう言ってすぐに苦しそうに咳き込む。その姿にうつしたらどうしてくれるんだい、と喉の一歩手前まで出かかった言葉は引っ込めた。冗談交じりでそう言いかけたがさすがに酷だと思ったのだ。代わりにもう少し柔らかい表現を選んで諌める。
「無理して来ることは無かったんだよ、こんな高熱を出してまで。これでファイアローにしがみついていたなんて驚異的というか奇跡としか言いようがないね。君の頑張り屋なところはグッドポイントだけど、休むべき時にちゃんと休まないところはバッドポイントかな」
「きょ、いくって、やくそく」

そう諭してもプレサンスはなおここへ来た理由をとぎれとぎれに訴える。それを聞いてまったく律儀というか融通が利かないなあ、とプラターヌは苦笑した。ある感情を必死に押さえながら―が。
「で、も」
「ん?」
「…はかせに、こほっ、みてもらえてるから、うれしい」
こちらを見上げしわがれた声ながら嬉しそうにそう言うプレサンス。体調は楽ではないはずなのに笑みさえ浮かべながら。熱で潤んでいるせいで、妙にその瞳は。
ああ、まったくこの子は…!その姿にプラターヌは自分の心が確かにグラリと動くのを感じた。そして自分を目下悩ますそのことを嫌でも思い出させられ、頭を抱えたくなった。

彼を悩ます何か。それはプレサンスが自分に対して非常に積極的に好意を寄せているということだ。
かつてカロスにその名をとどろかせたとある文豪はこう言っていたか。「人生に必要なのは可愛い女の子たちとの恋愛だ。それさえあれば何もいらない」と。
その言葉が表すことのDNAが今でも生きているかのように、このカロスの地は今でも恋愛に対して非常に寛容というか積極的だと他の地方にもよく知られている。その例に漏れず、この地方で生まれ育った自分だって色男と噂されるくらいその手の経験は割に豊富だと自負しているし女性の扱いも恥じないものではあると思っている。今は研究が忙しいからそうでもないが、若いときは寄せられた好意にはほとんど応えて浮名を流したものだ。だから少女のそれにも応えようと思えば造作もないはずのことだった。
しかしプラターヌはプレサンスの好意に応えるまいと自戒していた。もしこれから応じる気になるとしても今はいけない、もう少し大人になったらだ、と決めていた。

なぜ?―人々は笑うだろうが怖かったのだ、彼女の未成熟な色香に惑わされるのが。
初対面のときはただの図鑑を託す相手としか見ていなかった。強いて言うならその年代の少女としては大人びている雰囲気だな、というくらいの印象だった。
なのに会う機会が増えるにつれて年相応の無邪気さの中に時折のぞかせる、ひどく大人びて挑発的でそして小生意気な面を見出だすようになって。その相反する二面性に知らず知らずの間にじわじわと惹きつけられていた。加えてその年頃特有の、少女とも女ともつかないから掴もうと触れてみたくてたまらない気にさせるのに、一瞬でもそうしたが最後あっという間に壊れてしまいそうな――いわば不可侵の雰囲気にあてられて自分を保てなくなってしまいそうで。そんなことがあるわけがないのに、と思いつつも恐ろしさは拭えなかった。あの子はまだ14才だ、互いの立場を考えろ、あれくらいの年齢の子が年上の男に懐くのはありがちなことで言うなれば麻疹みたいなものであって純粋な好意じゃないんだから―そう自身に言い聞かせては何とか押しとどめようとしていた。
なのに、プレサンスはそんな気持ちなどお構いなしに自身に迫ってくる。大きな瞳に悪戯な光を浮かべて「博士、あなたのこと好きですよ」と連呼とまではいかないが何度となく言ってくるのは序の口だ。その度にいつも「はいはい、君みたいな可愛い子がこんなおじさんを好きって言ってくれるなんてありがたいねー」とその方を見ずに流している。初めて目にしたときに、そのどうにも悩ましい表情は彼の脳内をしばらく占拠してやまなかったから。
その上言葉で伝えるには飽き足らないのかちょくちょく研究所へ顔を見せに来るし、3日に1度は図鑑の評価を依頼してきたりもする。大して図鑑の埋まり具合に変わりはないというのに。それにメガストーンのことにしてもそうで、発見があったり新しい情報を得たりするたびに大切なことだからと言って直接届けに、あるいは報告をしに訪れる。それを口実に会いたいのだとプラターヌに見抜かれてあしらわれていても、なお。
地道な調査を理由がどうあれ続けてくれているのはありがたいのだ、おかげで研究がどれだけ捗ったことか。今までに報告をしてくれるようになってからというもの論文が3本は書けた。
でもその情念は同時にとても厭わしくて。自分の大人としての余裕がプレサンスのような子供に奪われるのが恐ろしかったから。だからわざと遠ざけるような、壁を作るような態度で接しているのだ。ある時は危うさを、またある時は嫌に素直な笑みを浮かべて見せつけてくるコケチッシュさに心を揺さぶられようとも。
それでもプレサンスは何とかしてプラターヌの目に、心に留まろうとしているらしい。そのためにチャンピオンの座まで辞退して、一度は踏破したカロスを再び駆け巡っている(1トレーナーとして云々、などうまい理由を思いついたものだと感じずにはいられなかった)。そして思慕に突き動かされた結果がこれというわけだ。

思った以上に薬は消費されていたらしく残りは少ない。錠剤はビンの底のほうにあるから指を入れてつまむよりも逆さに振って出した方が効率が良いだろう。プラターヌはコロリと掌に出てきた2粒をまず渡そうとしながら今度買い足さないとな、と考える。
「服んだらしばらく寝て動けるようになるまで休むんだよ。それから先は家でね」
「ずっと、ここ、いる」
「残念ながらここは研究所であって病院じゃないからねー」
「む…それ、にがい?」
「薬のこと?さあ、ね」
「くちうつし」
「しないよ」
「けち」
「何とでも言いなさい」

研究所に、もっと言えばプラターヌのもとに長く留まりたいという思惑その他もろもろを退けられたプレサンスは不満そうだ。しかしゆっくりとだが体を起こしかけているからには薬を服むつもりではあるようだ。早く治してそしてまた調査に飛び回りたいのだろう。
「今度はご厄介にならないようにねー」
そう言えばプレサンスは少し眉を動かしたが、その意味を考える余裕は今の彼女にはなさそうだった。
やがて完全に上体を起こして薬を自分の手のひらに受け取る。と、それを一瞬だけ舐めた。その行動に少し驚いたがどうやら糖衣で包まれているのか確かめたかったらしい。なるほどだから苦いかと訊いてきたのだ。結果は果たして期待通りだったらしく、ほっとした表情で口に含んだ。服んでしまえば同じだというのに苦いのがだめなあたりはまだ子供だ、と彼は心の中で笑う。そして水の入ったグラスを手渡した。



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