場所次第です


サラサラという音が、ネズの鼓膜を突き刺さすことなく心地よくなぞってはフェイドアウトしていく。ステージの最中、彼のシャウトや奏でるサウンドに呼応したオーディエンスから自然に沸き上がるコール。チャンピオンの招きでトーナメントのエキシビションマッチに出場し、バトルコートに立つネズに(たまにブーイングといったノイズが混ざることもあるが)観客席から送られるエール……職業柄本当に様々な音を聞くけれど、ネズは砂時計の砂が落ちていくときに立つ微かなそれも嫌いではなかった。愛するプレサンスのためにアーリー・モーニングティーを用意するときに耳にするものとあっては、なおのこと。

ネズの手は手早く、だがほとんど音も立てずに動いている。使うのは、ヤバチャやポットデスが宿っているのと同じ模様だが真作のティーセット。モーモーミルクを用意して、カップを温めつつ茶葉を蒸らして。起き抜けの頭にちょうど良いとされる、渋めでモーモーミルクがたっぷりの、そしてプレサンスがこだわるミルク・イン・ファーストをしっかり守った、アーリー・モーニングティーのお手本のような一杯を淹れるのだ。彼自身はそこまで頻繁に紅茶を飲まないし、たまにふとそんな気になったとしても、こだわりは無いのでティーバッグでも構いはしない。それらしい風味さえ感じられれば。でも、その日最初に見るプレサンスの顔が喜ぶ顔であってほしいから、そしていつも自分を甘やかしてくれる彼女のためとあれば。どうしたって手間暇を掛けたくなるし、手にも力が入るというものだ。

用意をあらかた終えたせいか、集中していた意識が緩む。フワッと香り立つ湯気を浴び、ネズは欠伸を1つした。あとは特に何をするでもないほんの少しの時間。プレサンスの寝顔を少しだけでも見に、ベッドルームへ戻りますかね……そんな誘惑に駆られそうになってしまうが、でもやっぱりティーと一緒に持ってってやりましょ、と思いとどまる。

そんなとき出てしまうのは、手持ち無沙汰になった時の癖。つい首元のアクセサリーへ手が伸びて……。

「そうだ。外してたんでした」

指先に感じたのは、いつもの金属の冷たい感覚ではなかった。手袋もチョーカーも外していて今はベッドルームにあるので、素肌同士が触れ合うだけ。低体温気味の自分の肌はお世辞にも温もりに溢れて、とは言えない。途端に、昨日たっぷりと堪能させてもらったばかりとはいえプレサンスの体温のほうが恋しくなって、彼女に触れたいという気持ちがまた湧いてきてしまう。

そうこうしているうちに準備が整った。ティーの香りの方が、ティーカップを乗せたトレーを持つネズよりも早くプレサンスのもとへ辿り着くだろう。それとも今日彼女を一番に起こす名誉は、久方ぶりの晴れ模様のせいか、いつもよりボリュームが大きいように聞こえるココガラたちのさえずりに譲ることになってしまうだろうか。

どうにか黙らせてしまいたくて、ネズは一旦トレーをダイニングテーブルに静かに置いた。それからカーテンをシャッと開く。浴びた光の眩しさに顔をしかめつつ「オマエら朝っぱらからノイジーですよ、ちょっとは静かにしやがれってんです」なんて気持ちを込めて、八つ当たりじみたひと睨みを窓の外へくれてやった(偶然だろうけれど、一番近くの枝に止まっていた群れのうちの1羽が、ネズの眼光に気圧されたのかどうかはさておき鳴くのを止めたので、効果は少しだけだがあったのかもしれない)。

お願いだから、ティーの香りもポケモンのさえずりも。どうかプレサンスの鼻や耳をくすぐり、彼女を眠りの世界から呼び覚ますのを思いとどまってはくれないだろうか――そっと、そっと。ネズは再び手に持ったトレーの上の食器もブレて音を立てまいと、細心の注意を払って廊下を進む。

だって、ぐっすり寝ているプレサンスの寝顔をずっと眺めていたい気持ちに蓋をして、紅茶を用意するために先にベッドを抜け出した分、その続きをちょっとでも見ていたいのだから。



ティーを運び込みやすいようにと、開け放していたままのベッドルームのドアをくぐれば。

「んー……」

良かった、プレサンスはまだまどろみの中にいる。ただ、ネズにとっては少し残念なことに、ちょうど彼が部屋に入った直後のタイミングで正反対の方へ寝返りを打ってしまったけれど。

ネズはベッドサイドのテーブルにトレーを置き、入れ替わりにミニチェアを引き寄せる。それから、プレサンスの顔の向いている方に椅子を静かに置いてそっと座った。

起きている間なら、プレサンスは隅々にまで目を配り、絶え間なく頭を働かせている。部下のプロモーション戦略のプレゼンをじっくり見たあと意見を述べるとき、ハコに直接足を運んで、ネズやスタッフも交えてステージの構成を打ち合わせるとき、などなど。そんな様子はまさしく「デキる女」だ。

だが今は、そんな普段が信じられないほど安らかな寝顔で、スピスピと寝息を立てている。長年の付き合いのスタッフたちを始め、ネズはプレサンスが周りには見せないそんな面を自分にだけ見せてくれていることが嬉しいのだ。

そんな気持ちで、飽きることなく数分をかけてじぃっと見遣ってから、ネズはスパイクタウン訛りでそっと囁いた。

「愛らしかね、プレサンス。好いとーよ」

もちろんこの生まれ故郷にまつわる全てに愛着を持っている彼だが、マリィのようにこの街特有の訛りで話すことはさほどしなくなっていた。兄は歌と思い、妹は言葉。2人の街への愛を示す方法が違うだけだ――もっとも、ネズがスパイクタウン訛りを話さないようになったのは「ある経験」が原因でもあるけれど。でも、こういったリラックスした気持ちでいる時にはついポロリと出てしまうのだ。本音が素直に言えるのだ。



ネズの一回り近く年上の妻にして、彼が所属するレーベルの社長も務めているプレサンス。そんな彼女がメディアなどで紹介される時に、必ずと言っていいほど添えられるフレーズが“やり手プロデューサー”か“敏腕女社長”……本人もしばしば「もーちょい他に書きよう無いの?っていつも思っちゃうよね」と、取材を受けた雑誌の誌面を見ながら苦笑いするほどだ。

でも、ネズは取材でプレサンスを言い表す一言を考えてくれと言われたら、その2つは使わない代わりに、いつだって即座にこう答えている――「プレサンスは、ネズに始まりをくれたひとだ」と。彼女に(実際訊かれたことは無いけれど)「他に言いよう無いの?」と思われようとも。

「アニキはおうたのじょうずとね、すごか!」

泣き虫だったマリィが、あるときどうしても泣き止まず困ったことがあった。宥めてもすかしても効果がなく、困って思わず子守唄を歌ってやったら、やがて泣き止んだあととても褒められた……ネズが歌うようになったきっかけは、そんな他愛もないことだった。

最初はプロの歌手になるんだ、とは夢にも思っていなかった。妹が喜べばネズとしてはそれで良かったし、ジムチャレンジが優先だと思っていた。

だが寂れ始めていたスパイクタウンの、小さなハコの片隅。ネズがバトルのあとジグザグマと戯れつつ、何となくワンフレーズを口ずさんだら、気が付けば「段違いに上手いのがいる」と話題になっていた。

そして、もっと聞かせてほしいという声に押されてジムチャレンジの合間にライブを行うようになると、回数を重ねていく度、直前に使ったハコの規模では収まらないほどのオーディエンスを集めるようになった。「この田舎で燻っていないでプロとしてやっていくべきだ」と、数人では足りないくらいの人々から本気で勧められるようにもなったころ。ネズもスパイクタウンを盛り上げるべく歌手になるという決意を固め、その噂を聞きつけ「ぜひウチからデビューを」と声を掛けてきたレーベルがいくつかあった。

しかし、一番良い条件を提示してきたマクロコスモス傘下のそのまた傘下のレコード会社ときたら。ネズを本社に呼び出したまでは良い。だが数分話すなり「きみのそれさー、スパイクタウン訛りっての?ウチから出すの考えてあげてもいいけど田舎臭いから絶対封印してね。笑われるだけだよ」などと半笑いで言ってきて。故郷を愛するネズはその言葉に我慢がならず大喧嘩に発展し、結局そのレーベルとの契約の話はその日のうちに流れた。この一件が、気にしないようには努めたもののネズの心に影を落とすことになり、彼はいつしか公の場でスパイクタウン訛りを話さないようになっていったのだ。

後日話し合いに赴いた他のところも、売り出し方に違和感を覚えてしまったり、音楽性が違ったりしたことから折り合いが付かなかった。ただ、今はもう、ちゃんと理解のある別のレーベル――つまりプレサンスが社長を務めているところだ――と良い付き合いができているから、そんなこともあったと思い出話にできるのだ(ちなみに、最初に話し合いをしたレーベルはローズの失脚など色々あって身売りし、一昨年プレサンスの会社に買収され完全子会社化されている)。

プレサンスのレーベルは、確かにスカウトしてきた中では一番弱小だった。だが、他のどのレーベルの関係者とも違った。その時デビューの機会がほとんど潰えかけていたとあって、ネズは「どうせここともダメなんでしょ」とばかりに、元々のネガティブぶりに更に拍車がかかっていた。

そんな彼の話に、プレサンスは耳をしっかり傾けてくれた。妹や、街への思いのこと……彼女はじっくりと、受け止めてくれた。頷いてくれた。そして最後に、こう言ってくれた。

「あなたと契約するわ、ネズ。思いを大事にする人と一緒にやっていきたいって夢、叶えましょう。よろしくね」

握手のためにプレサンスが手を差し出してきたとき、自分の手が思わず喜びに震えていたこと。取ったときの嬉しさ。ネズは今でもはっきりと思い出せる。

しかし、話がまとまっていよいよ準備を本格化させようとなった数日後。マリィが高熱を出した。病院を怖いからと嫌がるし、周りに頼れる大人はいなかったから、付きっきりで看病していたネズも見事にもらってしまった。気が付けばもう約束の日。次の打ち合わせまでに作っておくことになっていたデモテープを持って行くはずの日が来ていたのに、完成させられなかった。

……プレサンスさんだけは、裏切りたくなか。

ネズはそう悔やみつつ恐る恐る、ひとまずプレサンスに電話をかけた。回らない頭で一生懸命事情を伝えた。まだ曲が半分もできていないこと。妹が熱を出して自分も看病のさ中にもらってしまったこと、などなどを。「そんな言い訳してプロとしてやってけると思ってんの!?デビューの話は無かったことにするからねっ」とかの言葉を浴びせられても仕方がない。そんな覚悟半分、諦め半分で――だが。

「解った、今からそっち行くわ。住所はこの間書いてもらった書類に書いてあるスパイクタウン991‐9‐2357ってとこでいいのね?」

プレサンスは、熱でフラフラ、喉はガラガラだったネズの話を、初対面のときと同じように辛抱強く聞いてくれたのだ。

おまけにそのやり取りから数十分後、兄妹の家の窓の外にはアーマーガアの姿が。プレサンスが看病に必要なあれこれを携え、そらをとぶタクシーでそれこそ文字通り「飛んで来た」。そして彼女は、熱のせいだけでなくその状況が呑み込めずにいたネズをベッドに(ついでに彼とマリィの喉に「これよく効くのっ」と言いながら、服薬ゼリーに包まれた漢方薬も)押し込み、それ以外にも色々と世話を焼いてくれた。

実際、少しだけ様子を見てみたが、マリィも少し前まで苦しそうだったのがウソのようにスヤスヤ寝ていた。ネズの体調も、プレサンスの言う通り薬のおかげでずいぶん楽になってはいた。

ただ。ウトウトしかけたネズは、キッチンから聞こえて来た音をきっかけにあることを思い出し、ベッドから飛び起きたのだ。

「どうしたの起きて来て!まだ全快って感じじゃないのに。それとも何か欲しいものあるの」
「いや、妹、ゴホッ……そのモルペコ柄の、食器からじゃないと、なかなか食べてくれんけん……洗って、やらねーとって……」

そのお気に入りの食器に盛ってやれば、嫌いなものでも割と食べるのでいつも使っていた。だが、自分もフラフラだったからちゃんと次のために洗えていなかったのだ。

プレサンスはポカンとしていたが、ややあって「オッケー、まあとにかく今は寝て!この食器洗うのももちろんやっとくから心配しないでね」と返しつつ、彼の目の前で手早く綺麗に洗ってくれた。そのあと、手際よく作ったお粥を兄妹に――思えばプレサンスが初めて振舞ってくれた手料理だというのに、状態が状態だったのでその味を全く感じられなかったことがネズは未だに残念でならないが――食べさせてくれもした。

これだけなら、デビュー前の懐かしい思い出のエピソードに過ぎないかもしれない。プレサンスがいよいよ帰る前にこう言い置かなかったら、2人の関係は片やいちアーティスト、片やレーベルの社長で終わっていたはずだ。

「それじゃあ私帰るけど、また何かあったら連絡して。あと……ネズ、あなたは強くて優しいね。責任感も心も。自分も大変だっていうのに妹さんのことあんなに気遣って。でもさ、たまには周りに甘えて、頼って良いんだよ。もちろんこれからは私にもね。こう見えて面倒見の良さ、褒められること多いんだ」

……甘える、か。プレサンスがドアを施錠したあと、この家の鍵を玄関先のドアポストに落とす音を聞き届けてから、ネズは回復しつつあった頭の中でプレサンスの言葉をなぞって振り返った。喉の調子が万全に戻っていたなら、遠ざかりゆく靴音に行かないでほしいと叫んでいたはずだと思いながら。

わざの「あまえる」なら、手持ちがバトル中に対戦相手からお見舞いされることはあっても、ネズ自身はいつからかしなくなっていた。そんなこと、とっくに、忘れていたのだ。兄として、街を盛り上げる使命を担うジムリーダーとして。甘えられ頼られる立場にはなったけれど、彼は元々の性格からいっても、状況からいっても、そうすることが許されなかったから。

だが、プレサンスは、甘えて良いと言ってくれた。認めてくれたばかりか、弱っているところに掛けられた優しい言葉と感触。それを味わってしまえば、自分を見出してくれた人、それ以上の感情を彼女に抱くようになるのに、時間は要らなかった。

「プレサンスさん。おれ、ガラルチャートで初登場1位ば5作連続で獲ってみせますけん、したらおれと付き合うてください!」

だから、たっぷり療養して次にプレサンスと面談をした日、ネズはこう切り出したのだ。彼女が訪ねて来たあの日とは打って変わって「回復したからにはいい曲バンバン作ってもらうんだからね、覚悟して」と、仕事モードで言い渡してきた直後に。

最初は「またまたぁ、だけどその意気よ」と、プレサンスは全く本気にしてはくれなかった。だがその態度に却って火が点いたネズは有言実行、結果でもって想いを知らしめた。妹のためだけでなく、オーディエンスのためにも、プレサンスのためにも、思いを原動力にして。ガラルチャートで初登場1位は当然実現させ、かといって5曲目以降も手を抜かず、今に至るまでいい曲を作り続けてきた。

――そして、ネズの心に応えてくれたプレサンスと晴れて恋仲になり、今まで「さん」付けだった彼女の呼び方を呼び捨てに変えた。ガラル中にシンガーソングライターとして知られるようになったのと同じころ、ローズから7番目のジムを任せることに加え「ネズくんの希望通り、ダイマックスのパワースポットに街ごと移転する話はもう持ち出さないよ」と伝えられたその次の日、ネズは。

「プレサンス、これからも甘えさしてください。でもおれにも甘やかさしてください。そうやって生きていきましょ、ずっと」

他人が聞いても何のことか解らないだろうそんな言葉を捧げた。良いのだ。契約のときとは反対に、今度はネズの差し出した手を、プレサンスがニッコリして取ってくれたのだからそれで。

式はそれから数ヶ月後、デビュー前最後のライブで使ったハコで挙げた。そうだ、あの日は妹が小さかった頃のような泣き虫に戻ってしまったっけ……マリィはプレサンスのことをいつしか自然と「アネキ」と呼び、まさしく実の姉同然に慕うようになっていた。式では感極まった彼女が「アニキ、っ、アネキのこと泣かしよったら、ヒック、許さんからねー!」とシャウトして、ネズもそれにもらい泣きして……そうしたらプレサンスは「ほーら泣くな我が妹よ!旦那もねっ」と、そう、今のように……優しく、頭を……撫でてくれて――。







……頭を?ネズがあの日から変わらない温もりにハッと気が付いたら、そこには。

「ネズ、おはよ」
「お……おはよーです、プレサンス」

瞼の裏側に思い出を描いていたら、いつの間にやらうたた寝してしまっていたようだ。それも短くない間。時計を見なくても、トレーの上のティーがそのことを教えてくれている。湯気はきれいに消え去り、ただぬるいだけの薄いベージュ色をした液体になってしまっているから。

「すみません、寝落ちしたらすっかり冷めちまいました……ちょっと淹れ直してきますよ」
「だめ。お茶のアンコールはしてないじゃない、今から飲むんだから早くちょうだいってば」

「でも」と言いかけたネズに、有無を言わさぬ口調でプレサンスは促す。「こんなんで良いんですか?」と訊くのを後回しにして、彼がカップを差し出せば。

「ん、さすがはネズね、私のことよく解ってくれてる。今日はちょうど温いくらいの一杯がいいなって思ってたとこなの、それこそこれくらい、ネズの肌みたいなのがね」
「これだからおれの奥さん、人たらしとか言われてんでしょうね……」
「褒め言葉として受け取っとくわ。ありがと……ん、やっぱ美味しいっ!あとカーテン開けてくれる?ネズの顔もっと見たいの」
「お安い御用ですよ」

甘えさせてもらうのもたまらないけれど、プレサンスがこうして甘えてくるのも、やはり良いものだ。ネズがカーテンを開けば、太陽の光が室内へもっと差し込んできた。紅茶を飲み下していくプレサンスの顔が照らし出される。いつも通り、前は閉めているけれど素肌にツアージャンパーだけを羽織ったまま(これがたまらなく色っぽいんですよね、特に鎖骨の見え方が何とも……と彼は思うのだ)。彼女の白い喉が動く様子と、そこに彼がたくさん付けたキスマークも良く見える。

更に、ベッドサイドに寄り添うように置かれている2人分のアクセサリーも光に包まれた。左側に置かれたネズのチョーカーに反射してピカッと輝く。

その傍らには、プレサンスのアクセサリーも。「指輪は落ち着かなくて昔からどうも苦手」という彼女のために、マリッジリングならぬマリッジチョーカーも兼ねている。ネズの着けているのとほぼ揃いのデザインだが、ただしこちらはもう少し細身だし、モチーフは南京錠を模したものだ。彼がプロデュースするアクセサリーブランドのレディースレーベルから最初に発売された商品で、61個限定、ロットナンバー入り。ネズの着けている分には、自身の背番号と同じ「061」が入っているが、妻にプレゼントしたものには特注で「000」が入っている。全ての始まりをくれたひとへの感謝と限りない愛を捧げるのに、たった3ケタの数字にはとても込め切れないとは思ったけれど、それでもネズはそうしたかったのだ。

「ごちそーさま」

プレサンスがカップをネズに寄越して来たので、彼はそれを受け取って邪魔にならないところへ置く。そうするが早いか、またミニチェアに腰を下ろして。

「はいはい、いつものでしょ」
「そーです」

プレサンスはネズの動きを察して少し上を向いた。同時に彼の指が、スッとプレサンスの首筋に伸びてくる――肌を重ねる時は、お互いアクセサリーを外している。それを翌朝着け直すのもネズの役目の1つだった。でもその前に、チョーカーのような形にたっぷり焼き付けたキスマークを、アクセサリーをいじる時の癖が出たときのように、愛おしさを込めて指先でなぞる。こうしなくては気が済まないのだ。

きっかけはプレサンスが「ネズの着けてるアクセサリーの尖った部分が肌に当たると、これが案外馬鹿にできないダメージなのよね」と言ったこと。思えば、結婚して初めてのケンカの原因がそれだった。正直に言えば、ネズは自分のもプレサンスのも、片時だって外したくはない。自分のを外せばどうにも落ち着かないし、彼女にいつだって自分を感じていてもらいたいからこそ贈ったというのに。

でもしばらく考えて思いついたのだ。それならば、と。

「解りました、最中は外しますよ。でもその代わり、プレサンスのあのチョーカーがいつも当たる箇所にキスマーク付けます。それならアクセで隠せるでしょ。というか、そうさせてくれねーとおれ、スネますからね」と、初めてプレサンスに甘えワガママを言った。そしてそれ以来、首筋へのキスマークだけは遠慮なく、頼まれなくても「アンコール」を披露するのだ。

それにしても、これをプレサンスの細い首に初めて手ずから嵌めたときといったら……!ネズは思わずゾクリとしたものが背中に走るのを感じた。青白い肌に、メイクで出すのとは違う赤みがジワジワ差していくのを感じる。その様子を見て取ったプレサンスが、すかさずいたずらっぽく笑いながら、そっとネズの顔に手を伸ばしてきた。

「ほんとさ、いつも不思議なんだけどその体のどこにあんなエネルギー隠してんの?アンコールはないのだ!とか言ってるこの口でねー。私毎度足腰立たないんですけどー?立ってるように見えても実はフラフラなんですけどー?」
「いてて、抓んないでくださいって」
「ごめんごめん」
「ま……アンコールするかどうかなんて場所次第ですよ。そもそもステージとベッドは別の場所ですし。それにプレサンスがいけねーんです、おれを煽るスイートなサウンドばっかり聞かせやがるから。普段はクールな奥さんがあんなになってんの見たら、頼まれなくたってアンコールしたくもなりますって」
「スカタンクも大爆笑間違いなしの屁理屈だわ。あー、ジョークが冴えてる素敵な旦那に美味しい紅茶。天国にいるみたい……でもね、これからインタビューがお待ちかねなの!しかも2件!あーん受けたくなーい、このままでいたーい。ネズ助けてよー」
「ならいっそ、ベッドに入ったその状態のまま受けちまったらどうです?おれ同伴で」
「ショーンとユーコみたく?」
「やっぱり今のナシです、やっぱりナシ。奥さんとおれだけの部屋、誰かに見せてやるなんてありえねーでしょ……同じミュージシャンとしては少し憧れはしますがね」

かつてバウタウンで結成され、この地方だけでなく世界中を熱狂させ、解散した今でもなおその名を轟かせているバンド。そこでボーカルを務めていたショーンは、なんと新婚旅行先のホテルの部屋で、妻であるユーコとベッドに入ったままインタビューを受けた……なんてエピソードも有名だけれど。

「ならやっぱやっちゃおうか?」
「ジョークですってば」
「なぁんだ。ま、正直言って、あの2人は偉大過ぎて私もさすがにあやかるほどの度胸はまだ無いな。それに色々真似してたらさ、ネズまでショーンと同じような運命辿っちゃうかもって思うとヤなの。ずーっと一緒なんだからね!ねえねえ喋ったら喉渇いちゃった、今度こそ紅茶アンコールねっ」
「……でも、その前に。さっき抓られて痛かったんで。癒してください」
「ん」

甘えてくる相手には、自分もまた甘えるに限る。そう学んでいるネズはそっと顔を近づけた。プレサンスはすぐさま彼の顔を包み込んで一撫でしたあと「ネズ、こっち向いて」と促す。彼がモーモーミルクの風味が濃厚なキスを、お礼代わりにもらいますよと言いたいのだとちゃんと解って。



目次へ戻る
章一覧ページへ戻る
トップページへ戻る


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -