砂糖細工の鎖(前)


テーブルの上には熱くない湯気が立ち上るココアの注がれたピンクのマグ。そのそばに置かれるのは長く使っているせいでプリントがところどころ剥げた青色のコーヒーカップだ。それを時々取り上げて口元に運びつつ、彼―カロス地方の若きポケモン博士であるプラターヌは対面のソファに座る少女と話を続ける。
「それで、メェークルに乗ってみてどうだった?」
「すごくあったかくて、かわいかったです。でも私が乗ったら潰れないかひやひやしました…」
「あはは、そんなことあるはずないよプレサンス。少なくともキミに限ってそれはない」
「でも不安だったんですよ、重くて嫌がられたらどうしようって」
そう初々しく言葉を紡ぐ少女の名はプレサンス。人形に命が宿ったかのような愛らしい顔立ちを喜びに輝かせている。楽しそうに冒険の様子を語る彼女は数か月前に旅に出たばかりの新米トレーナーだ。
「でも何よりだよ、旅を楽しんでいるみたいで。前よりずっと生き生きしてる」
「はい、やっぱりすごく楽しいです。家にいたときは何から何まで決められていましたから。博士、私旅に出て良かったです。最初は疲れたけれど、どこで何をするか自分で決めて、自分の足でいろいろなところに行っていろいろなものを直に見て…それって何より素敵で素晴らしいことなんだなって」
「そうだろう?それこそ旅の醍醐味だよ。昔のシネマみたいに言えばお嬢様は自由がお好き、ってねー。それなのにごめんよ、こうして時間を取らせてしまって。もっと色々な所を見て回りたいだろうに」
「そんなことありません!博士が父や母を説得してくださらなければこうすることはできなかったんですもの」


10歳にもなればトレーナーとして旅立つこともできるのに、プレサンスは過保護な周囲のせいで14になる今年までそれを許されなかった。
遡ればかつての王家に連なるというカロスでも指折りの名家の令嬢として生まれ、蝶よ花よと育てられ。その家柄に可憐な容姿までも兼ね備え、望むものは何でも手に入る。まるで現代に生きる姫君のごとく誰もが羨むような環境で育ったのだ。

でも、彼女が欲しかったのはトップデザイナーが送り出す最新流行の服でも一流シェフの手による極上の美食でもなく。――ただ「自由」それだけだった。
身に着けるものや口にするものに始まり、読む本も付き合う人さえも全て決められて育ってきた。しかしやがて、その環境を窮屈なものだと感じるようになるまでにそう時間はかからなかった。
そんなプレサンスが9歳だったある日のことだった。屋敷の料理長とメイド長夫妻の、彼女と10ほど歳の離れた息子からあることを聞いたのである。しばらく姿を見せることが無かった彼が久々に屋敷に顔を見せた時のことだった。
彼を恋しがっていたプレサンスはどこへ行っていたのか、なぜ長く留守にしていたのかと青年に拗ねた口調で尋ねた。そんな質問を受けた彼は三白眼の眦を少し下げて、カロスを巡る旅に出ておりましたと答え。それを聞いていいな、私も行きたいと無垢な瞳を輝かせて羨む幼い彼女に彼はこう告げたのである。
「お嬢様も10才のお誕生日を迎えれば、トレーナーとして一人で旅に出ることができるのですよ」と。
ただし旦那様や奥様がお許しになれば、ですが――その言葉は口をついて出ることは無かったけれど。

トレーナー。旅に出る。一人で。意味はようやっと掴めるかどうかという年齢ながらプレサンスはその言葉に夢中になった。しがらみなど何もかも取り去ってしまったかのような自由の響きに焦がれ、10才の誕生日を指折り数えて待つようになった。
そして待望のときが訪れた。両親から10才のお祝いに何が欲しいと訊かれたとき、迷わず「プレゼントはいいから旅に出たい」と言ったのだ。これまでほぼどんな希望も聞き入れてくれていたのだから今回だってきっと聞いてもらえる。そう信じていた。
――が。彼らは娘の切望をまだ早いだろうと聞き入れることはなかった。
その答えに彼女は反抗した。生まれて初めて。もうこんな自由のない環境にいたくないと。そしてそれからもプレサンスは何度も両親に旅に出たい、外の世界を知りたいと頼みせがんだ。しかし幾度懇願しても両親と少女の意見は平行線。交わることは無かった。そうするうちに3年が経ち、彼女が他の同世代に後れを取っていると焦り始めたころだった。

そこにプレサンスにとってまさしく救いといえる手を差し伸べたのが、誰あろうプラターヌだった。
彼女の父親が社会貢献活動の一環で彼の研究を支援していたことから知り合った彼。当然プレサンスも幼いころから知っていた。にこやかな上にポケモンの話をしてとせがんでも嫌な顔一つせずに相手をしてくれるのが嬉しくてすぐに懐いたのだ。思えばそれは初恋だったのかもしれない。ごくごく淡いものではあったけれど。彼の語る進化の不思議、遠い遠い地方にいるポケモンのこと…少女は夢中で聞いた。初めて触ったポケモンも彼のゼニガメだった。
成長してからはさほど会うことは多くなくなった。彼の研究も忙しくなり始めていたからだ。しかし彼が屋敷を訪ねた折、自分ももう旅に出たいのに許してもらえない、いつまでこんな窮屈なところにいればいいのと漏らしたことがあった。彼の口から説得してもらうことはできないか、という少しばかりの期待をこめて。
しかしその時プラターヌは困ったように曖昧に微笑しただけ。彼の反応も周りにその願いを話したときと大差はなかった。ああ、この人も私を閉じ込めるのか…プレサンスはそう思い落胆した。

だが。彼は少女の眼の前で両親に進言してくれたのだ。
「お嬢さんの実力はまだ未知数です、ですが旅の中でトレーナーとしての資質が目覚めるかもしれない、閉じ込めたまま眠らせておくのは実にもったいないと思います」と。
まだ年若いながらいくつもの広く認められた研究成果を持ち、さらにカロスの新人トレーナーを送り出す責任者も兼ねている彼の直談判。それは何よりも説得力にあふれていた。何より愛娘の可能性をプラターヌのような人物に見出されて気を悪くしないわけがなかった。

やがてそれが契機となったか、頑なだった少女の両親は次第に考えを変え、ついに14歳の誕生日にトレーナーとして旅立つことを許したのである。ただし「月に2回、プラターヌを直接訪ねて状況報告をすること」を条件として。
何故両親相手にではないのかと問えば、確かにそうしてくれれば嬉しい、しかし遅いかもしれないがもうそろそろ互いに子離れ親離れをすべきだろうと考えるようになったから監督は博士に委ねる、という答えが返ってきて。
プレサンスの心は躍った。ようやくあの環境から抜け出せる、スタートラインに立つことができるのだと。

そこまで回想して思った。旅は自分の世界を広げてくれている。初めて見る光景。動き、鳴き、辛いときにも寄り添ってくれるポケモンたち。その存在の何と嬉しいことか。刻一刻と変わるこの世のダイナミックさに出会えなかったら、きっと人生を損していたに違いない。そもそも両親に彼が取り成してきっかけを作ってくれなければこうして旅に出ることはかなわなかっただろう。それを考えれば月に2度の状況報告などなんら苦にはならなかった


――ただし、始めのうちだけは。


話しているうちにカップに残ったココアはすっかり冷めていた。見ればモーモーミルクの幕が張っている。外を見ればもう夕陽が差し込んでいるではないか。来たのは2時ごろだったのに。プラターヌと話すとつい時を忘れてしまう。今まで狭い世界で生きてきた彼女は両親のほかに使用人たちや決められた遊び相手以外の交友関係を持たなかった。いや、両親はともかくとして使用人たちとは親しく話し合えるほどの仲ではない。それにあの家から巣立ったからには遊び相手からももう離れたかった。だから旅のことを誰かに伝えるとなると相手はほとんどいないが、自分の話を傾聴し引き出してくれる彼のおかげでつい話がすぎるのだ。必然的に報告を兼ねてプラターヌに話す、という図式ができあがっていた。

長居してしまった、そろそろ辞去しなければ、とよく躾けられた少女は思った。ただ、失礼だということだけではない、理由は他にもあった。プレサンスは話の終わりが見えるにつれて心臓が嫌な動悸を始めるのを感じながら、暇を告げるタイミングを見計らっていた。
(今度こそは断らないと…あれさえなければ、もっといいのに)

「それじゃあ失礼します。博士とお話しするの楽しいから、つい長居しちゃってごめんなさい。ありがとうございました」
報告が終わった。笑顔でそう告げて、それと同時にさあ早く、早く…急く心を抑えながら礼を言って鞄を持ち上げ、出入り口に向かおうとした時だった。


「プレサンス、ちょっと待って」

声に呼び止められた少女が振り返ると――口角を上げてはいるものの、目には嫌に濁った熱をたたえたプラターヌの姿がそこにあった。



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