所詮


ルザミーネと直接面会し、例の件の報告を終えたあととて気を緩めず仕事に邁進する。それがザオボーのポリシーだ。エーテルパラダイスの磨き上げられた廊下を、カツカツと靴音を立てながら肩で風を切って歩く。すれ違った何人かの職員が目礼して来たが、ザオボーにはそれに返そうという発想は元から無い。

そしてオフィスに戻りドアを開け、まず視線を向けたのはデスクの上。そこには果たして予想通りに書類の束があった。全ての角の位置はいつもながらピタリと揃っていて一部の乱れも見当たらない、いっそ心地良ささえ感じるほどだ。近付いて手に取ると、最初のページに貼られたポストイットには「AR第1プランの件の実証レポートを纏めました。ご確認のほどをお願いします」と几帳面な字で書かれている。

――ただ。レポートをまとめその字を書いた張本人であるプレサンスはというと。

「……すう……」

今は椅子にかけたまま、小さな寝息を立ててうつらうつらしていた。

エーテルパラダイスは保護区にいるポケモンたちのみならず、もちろん人間が快適に仕事ができるようにするための環境も整えられている。ザオボーは今となっては保護活動を離れたので、研究部門に所属している期間の方が長くなったが、部下たちの口の端には度々「保護したポケモンが保護区の快適さに慣れ過ぎてしまい、野生に帰そうとしても戻って来たがって困る」といった話題が上っていた。思い出しながら、なるほど快適すぎるのも確かに困りものですね、と内心ごちてから小声で呟く。

「ま、いつもの働きに免じて大目に見るとしますか」

これが他の職員ならともかく、いっとう目をかけている部下であるプレサンスなら別だ。休憩も兼ねているだろう眠りを妨げてやろうとするほど意地は悪くない。そして、無防備な彼女の寝顔を見つつレポートに目を通しつつ過ごすというのも悪くはないはず、と手に取りページをめくる直前。

「時間が来れば夢から醒めてもらいますよ……ですがわたしには"夢見て"いなさい。いつまでもね」

微睡むプレサンスの横顔に意味深な言葉を投げ、ザオボーはある感情に蓋をしながらレポートのページを繰り始めた。



支部長ともなれば部下を何人も率いるものだし、専属の秘書も付く。就任の内示が出たときザオボーは大いに喜んだ。出世に出世を重ね、ついに研究チームにおいてのトップの肩書を得たことはもちろん、研究により邁進できるようにもなったからだ。これまで自分でこなさなくてはならなかった、例えば最新の論文を探してまとめておくだとかいった雑事などは部下にさせ、自分はより研究に没頭することができると思ったからだ――そうなるはずだったのだ。

だが、いざ秘書が付いても結局は誰も長続きしたためしが無くコロコロ変わった。ザオボーにしてみれば、揃いも揃って要求するレベルにまるで届かない能力の職員ばかりだから、あれやこれやと口出しをしてやらざるを得ない。しかし、皆それを嫌がって早々に辞めてしまうか、他の部署へ異動願を出してしまうかするからだ。最初の頃こそ研究に没頭できないことに苛立ったザオボーだったが、いつしかそんな状態に慣れっこになっていた。慣れたというより、部下の無能ぶりなどに煩わされてはたまらないと考え、努めて気にしないようになっていた、といったほうがより正確だったけれど。

そんな状況のまま季節はいくつか巡り、今年もまたいつも通りに過ぎていく……とはならなかった。新人の秘書が付くことになったのだ。なんでも、今年の採用試験で最優秀の成績を収めた期待の新人だとか。ザオボーよりも立場が上である人事部長まで、滅多なことでは近寄らない研究フロアに直々に顔を出し「内定していたデボンやこれから最終選考だったシルフを辞退してまでうちに来ることを承諾したコを付けるんだ、これまでみたいにくれぐれもキツくあたってくれるなよ。良いかね、研究部門はその名の通り研究だけに貢献してくれたまえ。離職率を上げるのにまで計り知れない貢献をしてくれとは頼んでおらんのだからな」と、そんな皮肉混じりのクギを刺したほどだ。

しかし、ザオボーは冷めた思いで人事部長の言葉を聞き、新人研修を終え配属されてきたプレサンスと初めて対面し挨拶を受けた時も仏頂面だった。期待の新人だか何だか知りませんが、この小娘もどれだけ持つことやら。あのデボンやシルフといった名だたる大企業さえ欲しがるほどならば、なるほど優秀かもしれない。とはいえ、わたしの求めるレベルに達しているのとイコールとは限らないのですよ……。

「せいぜい励むことです」

ひとまず述べた歓迎の言葉は、今思えば驚くほどおざなりだった。

だが次第に、プレサンスが期待に違わぬ高い能力の持ち主だということが嫌でも判って来た。テキパキと手際良く、痒い所に手が届く仕事をこなす。周囲への気遣いも完璧。次から次へとわたしの要求に足りない人材を採っていた部署とは思えません、人事部もたまには悪くない仕事をするじゃありませんか。ザオボーは早々に認識を改めるほかなかった。

もちろんプレサンスとて人の子。ミスはするけれど、それを指摘するとき意識しなくとも嫌味っぽくなってしまうザオボーの口調に腹を立てる様子もなく、少々落ち込みながらも素直に聴いて反省し、その後は同じようなミスを何度も繰り返しはしない。優秀な人材は、えてして他人からすればごく些細なミスで潰れがちな傾向がある。失敗を避けようとはするがミスは誰にでもあることだから犯してしまう、そうしてしまったことで自信を失いそのまま……ザオボーはそんなパターンを今までいやというほど見てきたが、その点プレサンスはとんでもなくタフでもあった。なかなかどうして骨があるようだ。しかも。

「ほぅ……多少なりとも進歩してはいるようですね」
「ありがとうございます!やった、支部長に褒められちゃったー!」

いつだったか、なかなか身に付かずにいた業務を珍しくミスせずにこなしたプレサンスを褒めたときだ。彼女は無邪気に喜び、フロア中に響かんばかりの声を上げたではないか。ザオボーはとにかく驚くしかなかった。自分の言葉にうんざりした顔をされるリアクションに慣れ切っていたからだ。

「ウソでしょ、あの支部長が人のこと褒めたなんて!」
「俺って夢見てんのか……?」

他の職員たちが驚き混じりに囁き交わす声がざわめきになって、さざなみのようにフロア中に広がっていく。

「お、お止しなさい。親にお手伝いがよくできたと褒められたお子さまではあるまいし」

照れ隠しから慌ててザオボーが制止すると、プレサンスはハッとしたように彼に向き直って。

「し、失礼しました。でも支部長ってお仕事に厳しいじゃないですか。そんな人からちょっとだけでも褒められたら嬉しくてつい……ありがとうございます、これからも頑張ります!」
「……!」

ザオボーは心臓が体の中から飛び出さなかったのが不思議に思えるくらいドキリと跳ね、そして顔にほのかに赤みが差すのが解った。仕方がないではないか、素直に笑顔を向けられ、しかも礼の言葉には皮肉っぽい響きや媚びなど全く無かったのだから。いつぶりだったろう?いやエーテル財団に入職してから初めてかもしれない、そんなことを言われるのは。

優秀で素直、しかも――魅力的、ときているとは。その時ザオボーはいつも通りにふんぞり返ってみせながら、口では照れ隠しで「支部長たるもの当然部下の指導もできなくては云々」とかなんとかモゴモゴ言うのが精一杯だったけれど。

ともかくそのときから、彼にとってプレサンスが見どころのある部下から、憎からず思う相手になるのに理由は要らなかった。



それからしばらくのち。プレサンスはどんどん仕事を覚えていたしクオリティも日を追うごとに上がっていて、いつしか他の部署でも評判が聞かれるようになっていた。

プレサンスなら問題ない、いや彼女でなければ務まらない。そう考えたザオボーは、ついにタイプ・ヌルに関する一連の極秘事項をプレサンスに明かすことに決めた。そして初めて彼女にシークレットラボへの入室を許し、実験の経過などのデータを見せながら色々と説明した。より優秀な右腕となるよう育てていくための第一歩という意味もあるが、モチベーションをアップさせるとともに自身の有能ぶりをアッピールし尊敬だけでなく敬愛も勝ち得んとして。既に仕事ぶりだけではなく彼女自身の人柄も注目を集めるようになっていて、周りから見ても明らかに本気で惚れているだろう男子職員の数も1人2人では収まらないくらい。やれペリッパーの油まみれの羽が元通りになっただの、それスターミーのコアが治っただので喜ぶような、そんな凡百の輩と違うエリートたるわたしはこんなにも素晴らしいのですよ、と差を示したかったのだ。

しかし、その目論見は思い切り裏目に出た。

「支部長がこんな……こんなひどいこと、してたなんて」

説明を終えたザオボーはどうです、と得意気にプレサンスの方を見た。尊敬の眼差しを向けてくることを期待したのだ。

なのにどうしたことか。いつもなら上司の視線を受けて自分がその時何をすべきか――今のような場合なら賞賛の言葉を述べるだとか――をすぐさま察するというのに何も行動を起こさず黙ったまま。訝しんだザオボーが眉根を寄せたとき、プレサンスはややあって声を震わせながらどうにか絞り出すようにそう言っただけだった。

そういえば途中からプレサンスが相槌を打たなくなっていたような気はしていたのだ。ただ、ザオボーは世界を開く実験と自身の優秀さの結晶についての素晴らしさを滔々と説明するのに忙しかったし、きっと圧倒されたばかりに口を挟むことさえ忘れて聴いているのに違いない、などと実におめでたい解釈をしていたのでさほど気にも留めていなかった。

一体どうしたというのです?ザオボーは急に焦り始めた。もう一度今度はよく見てみると、プレサンスの青ざめた顔には「信じられない……」という表情がありありと浮かび始めていて。さらにその眼には彼が期待していたものなどかけらも見て取れはしない。もはや驚き、失望、そして怒りといった嫌な感情だけのフルコースのようだ。

予想外の事態が重なり動揺するばかりのザオボーは硬直してしまった。おかしい、なんということ。プラン通りの結果にならなかったばかりか成果を全否定されるなんて。

だが、プレサンスはそこに追い打ちをかけるようにとんでもない一言を放った。

「私、私っ……このこと、告発します!」
「おっほん」

落ち着くのです、落ち着くのです……ザオボーは自身に言い聞かせながら口を開こうとする。けれど、密かに想いを寄せていた相手にサクセスを、ひいては自分自身をも否定されたかのように怒りがふつふつと湧いてくる。そのせいで、口をついて出る説得はもはや脅しさながらの穏やかでないものばかり。

「はッ、戯言を。公表したところでプレサンスの言う事を世間が信じるとでも?いえその前にそもそも明るみに出るかどうか……知っての通り、我が財団の影響は様々なところに及んでいますからねえ。変な気を起こすものでは」
「そ、それでも私はやりますっ!ポケモンの保護のための研究ができると思ったから入ったのにこんなことしてるところだったなんて最低!!」

公表してもどの道握り潰され無駄に終わるだけだ。暗にそう仄めかそうとしてみたところで、決意を揺るがすには至らなかったらしい。ザオボーの発言を遮り、ほとんど絶叫するように言い終えるかどうかのところで、プレサンスはくるりと背を向けて出入口へと走り出していた。

プレサンスに目をかけるようになって間もないころだ、ある男の部下がニヘラニヘラと締まらない表情を浮かべながら――察するに"そういう"意味で――「体を動かすのは得意か」などと訊いたとき、恐らく彼女は真意に気付いていない様子で「苦手です」と答えていたのをザオボーは小耳に挟んでいた。だが、とてもそうとは思えないほどの足の速さだ。非道な実験が行われた空間から一刻も早く立ち去りたい一心がそうさせているのか(ちなみにあのあと、件の男の職員には人事査定で最低評価を付けてやったし、もう一つおまけに来年からは遠くポナヤツングスカ支部へ転属になるよう手を回してあるのだった)。

だがそんなことはこの際どうでも良いのです、アレのことを公にしようというからにはこのままおめおめと逃がしてなるものか。誰が手を噛めと命じましたか、恩を忘れ忠誠を失うばかりか組織を揺るがそうとは何ともいただけない!ザオボーは小さく舌打ちをして、モンスターボールからスリーパーとフーディンを出した。わたしが聞きたいのは「はい」という返事、従うという意思表示だけなのです!言わないならば言わせるまでのこと!そんな思いで、まずはフーディンに早口で命じる。

「フーディン、プレサンスにサイコキネシス!動きを封じてわたしのもとに引き戻しなさい!彼女のモンスターボールも手の届かないところへやってしまうのです!」
「きゃあっ!」

走って追い付くにはもう距離が離れ過ぎていたとしても逃す理由になりはしない、こんなときこそポケモンの能力を活かすのだ。プレサンスは背中を見せていたばかりに、わざを掛けられることに全く気が付かなかった。そのせいで、手持ちを繰り出して応戦する間も無くボールも奪われまともに技を受けてしまった。ドアまでもう一歩、というところで体ごと向きを変えられた。そしてそのまま、ザオボーの立っている位置からほんの数歩の距離に引き戻されてドサ、という音を立てて床に落ちる。

「いや!離してください!」
「なあに安心なさい、少し休ませようとしているだけですよ。働き詰めだったところに次の仕事を指示されてはさしものプレサンスも嫌気がさして思わず逃げ出したくなるのも当然、支部長ともあろうわたしがそんなことに気が付かなかったとは……疲労した部下のケアもまた上司の務めですからねえ?」
「やめて、っ」

全くの出任せを並べ立てながら、ザオボーは身動きを取れなくさせたプレサンスに近寄りそこで言葉を切った。後ろ手に固定され、脚をWの字を書くような形にされ床に座らされている彼女の前に屈んで顎をクイと上に向かせる。今度は怒りとショックではなく、怯えを浮かべている。至近距離で目の当たりにして、ザオボーの背中にゾクゾクしたものが走った。奇妙な興奮が湧き上がるのを覚えながら、次は。

“やりなさい"

後ろに控えるスリーパーの方をチラと見て、ザオボーはプレサンスの方へ顎をしゃくる仕草だけで命じてから、自分も催眠にかからないようすぐさままた彼女の方を向く。

これまでもタイプ:ヌルのことを何かの拍子に知った職員は何人かいた。しかしそんな職員には催眠術をかけ、もしそこそこ優秀であれば洗脳してプロジェクトに協力させ、そうでもなければ忘れさせてさっさとラボからつまみ出してきた。言うまでもなくプレサンスは優秀だから、右腕となって働くよう仕立て上げねばならない。心得ているスリーパーは、今頃手にしている振り子を左へ右へと揺らしているはず。振り子のある位置は、丁度上を向かされたターゲットの目線と同じ高さ――催眠をかけるには絶好の状態だ。

「さぞ疲れたでしょう?ゆっくり眠りなさい。そうそう、暗示も掛けてあげましょう。アレについて告発しようとしたことは忘れるように……それだけでなく、アレの実験についても進んでサポートするようにね」
「そんな!いや……離し、て……!」
「わたしとて目をかけた部下にこのような真似をしたくなどなかったのですが」

プレサンスの顔は青ざめているだけでなく、そこには“保護とは正反対のことをさせられるなんて嫌”ということがありありと書いてある。顎を持ち上げていた手を動かして彼女の顔の輪郭をツッとなぞれば、さほど薄くはない生地で出来た手袋越しでも感じられるほどにヒヤリと冷たい。これがもし素手だったなら、きっと滑らかな感触を味わえたのだろうが……それはそれとして。

「しかしあなたが上司の手を平気で噛むイワンコだったとあれば別ですよ。そんな聞かん坊には相応の"しつけ"が要りますのでね」
「い、や」
「あなたもいい大人でしょう、プレサンス?いい加減に嫌だ嫌だと泣き喚くお子さまから脱却しなくてはなりませんよ。気が進まないことでもせざるを得ないのが大人、光もあれば影もあるのがこの世というものです」
「っ……」

プレサンスは今唯一自由になる言葉でせめてもの抵抗をし続けるつもりだったようだ。とはいえ、さすがにさいみんポケモンの繰り出す催眠術を真正面から間近で受けてしまえばひとたまりもない。瞼の動きも封じさせているから瞬きもできない分効き目が早いようで、口を開く余裕も次第に無くなってきたし目がトロンとしてきている。順調に催眠にかかっている証拠だ、あとはこのまま目的を遂げてしまうだけ。

「さて、よぉくお聞きなさい。プレサンス、あなたは他の仕事と同様にタイプ・ヌルの実験においてもわたしの右腕となりよく働き、また知り得た一切について一生涯決して漏らしてはなりません……それから」

すると――頭にふと"妙案"が降って湧いた。ザオボーは口の端が勝手に吊り上がっていくに任せたまま続ける。

「わたしを敬い慕う心は失うことなくそのままに……いいえそれだけではなく、恋い慕うようになりなさい」

先ほど失ったであろうわたしへの敬意はそのままに、加えてこの際プレサンスの潜在意識にわたしを恋い慕って止まないよう刻み込んでしまえばいいではありませんか!これが天啓というものでしょうか?いえ在るかどうかも知れない存在から与えられる天啓などではない、わたしこそが思い付いた妙案そのもの――!あとからあとから溢れ出てやまない脳内麻薬に支配されながら、ザオボーの口調はますます熱っぽさを孕んでいく。

「そうです、強く。もっと、より、さらに、いっそう、わたしを意識なさい。上司として敬うだけではいけません、1人の男としても……ね」

催眠をかけて良いようにするというのも正直に言えば捨てがたくはあるが、そんなことはその辺りのくだらない三文官能小説のやること。ただ裏切られたプレサンスをさらに裏切るような真似はしたくないから、というように彼女を思い遣ってのことではない。あくまでザオボーのプライドが自分だけはそんなありふれた下衆に堕ちまいとさせただけだ。プレサンスを憎からず思いながらも彼女に自分を慕わせるよう暗示をかけたのは、恋人同士という平等な関係になりたかったわけではなく、見上げられる存在であり続けたかったからだ。

そうしてどれくらいが過ぎただろう。脳内麻薬がようやく切れた後、振り返ればスリーパーは振り子を揺らすのをとっくに止めていて「もう終えて良いのか?」と訊きたそうにザオボーの方を見ている。プレサンスの方を見れば、フーディンのサイコキネシスによって上体を支えられてこそいたが、くったりと力無く目を閉じている。

その様子に満足したザオボーはもういいでしょう、とスリーパーだけをモンスターボールへ戻し、フーディンにはテレポートで彼女を女子居住区の仮眠室へ連れて行ったら自分の下へ戻って来るよう言い渡して、その場を後にしたのだった。



あの一件を思い返して時計を見れば、さすがにもう小休憩というには長すぎる時間になろうとしていた。そろそろ現実へとエスコートしてやらねばならない。ザオボーが掌を合わせてパンパン、と軽い音をプレサンスの耳元で立てると――邪な目的でなくても迂闊に異性の部下の肩を揺すっただけであらぬ疑いを掛けられかねないこのご時世、こうしたリスクヘッジもまた重要なのだ――彼女はゆっくりと目を見開いた。起き抜けのトロンとした眼の無防備ぶりに胸が高鳴ったことに気が付かないふりをして、彼は目覚まし代わりの言葉を投げてやる。

「プレサンス、起きなさい。そろそろミッションに戻りますよ」
「ふぁあ……あ、支部長……ぷふっ」
「起こしてやったのに顔を見るなり吹き出すとは何事です?」

少しばかり機嫌を損ねながら訳を訊ねると、プレサンスは笑いがいまだ尾を引いているのかまたクスッと笑って。

「実はさっき見てた夢に支部長が出てきたんですけど、昔好きでよく見てた魔法使いの女の子が出てくるアニメで使う可愛いステッキを、それは楽しそうに振り回してコスモッグを捕まえようとしていらしたもので、おかしくて……失礼しました」
「夢見がよろしいようで実に結構。そんなことはさておき」

皮肉はそこで切り上げることにして仕事についての指示を与えようと口を開いたが、不意にプレサンスが遮った。

「それにしても」
「む?」
「最近、今日だけじゃなくて夢の中にまで支部長が出てくるんですよ。こうして仕事でお会いしてるのにそんな夢見てばっかりいるなんて、私……よっぽど支部長のこと……」

そこまで言った瞬間、ザオボーはプレサンスの瞳が熱を帯びたように濡れるのを見て取った。続く言葉が何なのか知るすべは無いが、ともかく自分に恋焦がれるようにという催眠は良く効いているようだ。

実に喜ばしいことでは……ない。全く、ない。わたしを見つめるプレサンスの目は情熱的だというのに、他でもないわたしがそうしたことだというのに。なぜちっとも嬉しくないのでしょうね――ザオボーは彼女の表情を見ていないかのように振る舞いながら「これこれの件に関わる文献をピックアップしておくように」などと色々な指示を与えつつ自問自答した。

だが、その答えは考えるまでもなく出る。プレサンスの瞳に浮かんだあのきらめきは、自分が植え付けた偽りの感情によるものに過ぎないのだと、ほかならぬザオボーが誰よりもよく解っているからだ。

「では、頼みましたよ」
「かしこまりました」

プレサンスのことだ、またテキパキとタスクを終えることだろう。軽く一礼して遠ざかっていく彼女の足取りは軽やかだ。同じ去って行く動作だというのに、あの日のシークレットラボでの一件のときとはまるで違っている。

その背中が閉まっていくドアの向こう側に消えた。足音が遠ざかる。聞き届けたあと、ザオボーも部屋を出た。シークレットラボへ向かうためだ。プレサンスが向かった部屋とは正反対の方向へと歩を進めながら進捗状況を振り返る。

あれ以来タイプ・ヌルの研究は以前に比べれば格段に進んでいた。言うまでもなく雑事をプレサンスに任せられるようになった分本筋に集中できるようになったおかげだ。さらに進めて行けば、いずれは。

カツン、コツン、純白の廊下に足音が立っては消えていく。エレベーターに乗り込み、ザオボーは操作盤をいじりながら独り言つ。

「嗤うならば嗤えば良い。ああした手段を取ってまでも、肩書もプレサンスも繋ぎ止めておかなくては気が済まない。離したくはない……っ!?」

エレベーターはいつも通りに下降を始めたが、その時同時にいきなり強烈なフラッシュバックに襲われ、ザオボーは思わずよろめいて柵に手をついた。グワングワンと鳴る頭の中、半ば強引に忘れ去るように塗りつぶしたはずのあの日の一場面が頭の中に鮮烈に浮かび始めたのだ。


――体の動きを封じられ、顔を背けることも瞬きをすることもかなわないまま振り子を見つめさせられること数分。催眠に完全にかかる寸前、プレサンスは一瞬だけ正常な意識を取り戻したかのように言った。

「私……支部長の……こと」

瞼が完全に落ちる、寸前。

「……尊敬して、た……のに……」

そこでとうとうプレサンスはガックリ頭を垂れ、直後に滴が一滴落ち白い制服に沁み込んだ。瞬きもさせなかったから目が乾燥したせいだ、そうだ、そうに違いない――。



「はっ。尊敬ねえ」

エレベーターはその間にシークレットラボのあるフロアへ到着していた。疲れが溜まっている、いけませんね。ザオボーは誤魔化すように心の中で呟き頭を振った。

心の奥底また奥底、自分でも意識しないところに最後に残った良心のかけらが、プレサンスを裏切ったことを後悔させようとしたとでもいうのか?バカな、それこそ戯言と言わずなんと言う?あの時催眠をかけなければ、プレサンスをああして悲しませることはなかったとでも?だがそうしなかったら彼女は早晩あの宣言通りにことの次第を公にしただろう。

……あれが唯一にして最良の選択だった、だからそうしたのですよ。ザオボーは誰にするでもない申し開きをした。拘っていた肩書と同じくらい、プレサンスからの尊敬を、もっと言えば彼女自身を失いたくない、離したくないという、もし自身が同じように忘れろと催眠をかけられたとしても消し去ることなどできない思いがそうさせたのだ。

あなたはわたしに夢を見過ぎていたのですよ、プレサンス。わたしは、力ずくで尊敬させることはできても尊敬されるような人間などではない。偽りの感情を植え付けたあなたに好意を抱かれることに虚しさを覚えても、それでもなお手元に置き続けたい……想われ続けたい。

ただ、そんな長ったらしい自嘲を言葉に出すのは億劫だ。それでも心にしまっておくには重すぎるから、一言でどこかへ放り投げてしまいたくて、口元を歪めながら自嘲気味に吐き捨てる。

「所詮、わたしはそういう人間なのですよ」

色々な淀みが溶けた呟きは、見た目は純白だがその実深い闇を孕んだ人工島にいる誰の耳にも入ることなく、微かな空調の音に紛れて溶けていった。



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