物心ついた時、父も母もいなくて俺に残されたのは妹と一冊の雑誌だけだった。
物心ついてまもなく、あの男に鬼道家の養子に推薦された。そのせいで妹と離ればなれになってしまったけど、俺はそれが正解だと信じていた。
今の父さんと家族になって新しい「俺」が誕生した。正直父さんが出来たのは嬉しかったから父さんの期待に応えるために勉学に勤しんだ。父さんはサッカーをすることを許してくれた。でも、それはあの男の下(もと)でという条件つきだった。
「勝利」とは「喜び」のことだとあの男はしきりに言って、おかげで俺の頭もそう変換するようになって二つは同格で同等で逆さにしても不変なものだと思うようになった。
あの男は帝国が勝つたびに笑う。サッカーを繰り返し、勝利を欲す、手段は選ばない、どんな手でも実行する。重なるのは偶然か必然か。疑う警察、冷めた空気、笑声、変わらない俺、終わらない不敗神話。
あのころ俺がやっていたサッカーは「サッカー」じゃなかった。ただ勝ちだけを求めた愚かで汚らわしい行為だった。俺は変わろうと、こんなサッカーをするためにココにいるわけじゃないと、仲間に言った。仲間は俺の思いに答えてくれた。こいつらだけは俺の味方だった。
思えば、そんなことさえもあの男の預言(シナリオ)道理だったのかもしれない。
「鬼道、お前なら私が行った行為が間違っていないと解ると思っていた。いや、お前は解らねばならなかったのだ。しかしお前はそれを拒んだ。…まあ良いだろう、お前が信じるモノが正しいと思っているならば私から離れ、私を憎み、恨み、否定し続けるがいい。だが、」
俺は正しい、正しかったんだ。
「お前はまた私の前に現れるだろう」
――――――なのにどうして
悪い夢なら覚めて欲しかった。
共に影山に立ち向かい戦った帝国の仲間が何故影山についているんだ。
帝国と雷門中との地区大会決勝では共に本当のサッカーをして、帝国とゼウス中との全国大会一回戦では完敗だったが共に戦った。そして俺が一人雷門中へ行ってゼウス中と戦うことを応援してくれた。…いや、違う。まさかそれが間違っていた?俺は足を怪我してゼウス中との試合に出なかった。その悔しさと仲間の敵打ちのためにゼウス中を円堂たちと共に勝利した。あいつらはそれを本当に望んでいたのだろうか?それで良かったのだろうか?どこからが正解なんだ、俺は何かを見誤ったのか、まさかこれも影山の預言(シナリオ)だと云うのか?
不動という男が現れ、俺を変わり果てた源田と佐久間に会わせて、強さと己の限界を求めるサッカーを見せられて、これが影山の言う「サッカー」だとしたらそれは間違っている。
俺は気づいたんだ、影山のしていることは俺たちのしたいモノじゃない。
影山は気づくべきなんだ、自分のしている行為の罪深いことに。
だが、俺の言う「俺たち」は何処にいる?かつての仲間は影山のいう強さを求めすぎている。俺の言う「俺たち」はもう俺だけなのか?俺の味方は、
俺の、味方は…
あの時楽しいサッカーというのを俺たちはやってみせた。俺たちは楽しさを知っている、だから今でもそれを感じることが出来るはずだ、例えその思いを否定し、別の欲望をぶつける者がいても黒い壁を越えて俺の信じる道を行ってみせよう。例えそれまでも預言(シナリオ)に綴られていても、突き進んでいこう。歴史(今まで)は変えられないても未来(これから)は変えられるはずだ。いや、変えて行く。影山の野望(シナリオ)など結末は見なくても解る。俺はその最悪を越えて行く、
勿論…共に、だ
だから、悲しくとも辛くとも悔しくともお前達と戦って見せよう。
(大丈夫、怯えなくても俺はお前達の味方だから。)
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