ch1.黒髪の兄弟 31





「おい、なめんなよ」

どこか怒気を含んだ男の声に、シリルがハッとした瞬間には遅かった。右横から向かってくるナイフの軌跡を視界の端に捉え、シリルは硬直した。やばいと思う暇もなかったその瞬間、ただシリルは目を閉ざして体を縮みこませることしか出来なかった。
だが、覚悟していた痛みはやって来ず、シリルが恐る恐る目を開けると、ナイフを振りかざしていたはずの青いターバンの男が尻餅をついて小さく呻く瞬間だった。何が起こったのかシリルには理解できなかったが、いつの間にやら隣に立つ赤髪の彼女の存在にシリルはハッとした。さっきの自分は何らかの形で、アリサに助けられたのだろう。

「糞が……!」

そう無様な格好で呻いた男にシリルが目を向けると、男の青いターバンが微妙にずれているのをシリルは見つけた。今なら簡単に剥げそうだとシリルは心の中で呟く。その瞬間、骨の砕けるような音が盛大に響いた。シリルがハッと気付いた時には、アリサの靴のつま先が、容赦なく男の顔面にめり込んでいた。認識できなかったほど素早く、情け容赦が一切無いほどに凶悪な蹴り一発で、シリルはアリサに抑えようのない恐怖を抱いた。そんなシリルの様子を一瞥し、アリサはバカにするように鼻を鳴らした。

「盗賊の相手は頼む、そう言ったはずなんだけどね?」

言われて、シリルは赤面したまま俯く。流石に、あんな身体能力の高い相手をするなんて無理だろう。そう思う気持ちがシリルの頭で渦巻く。興味なさ気にアリサは嘆息し、ふと左を見る。シリルもアリサにつられるように同じ方向を見ると、さっきシリルが吹っ飛ばした女盗賊がナイフを持って目を光らせていた。

「あっちの女、まだ闘る気満々みたいだね。……探ってた気配で女神の場所も大体分かったし、アタシはもう行くから。初めに言った通り、急いでるからね。ま、アンタはアレ頼むわ。……じゃあな、生きてろよ」

アリサはまるで、子供にお遣いを言い渡すかのような調子でそう軽く言い残すと、シリルが戸惑いを口にするのも聞かずに森の奥へと一気に駆け出して姿を消した。

残されたシリルが赤いターバンの女盗賊を見ると、女盗賊は怒りで目をギラギラとさせていた。こんなことになろうとは思ってもいなかったシリルは、あまりの緊張感で無意識のうちに体を震わせる。


「軟弱野郎の一発なんかで、倒れると思ったのか? え? ……絶対に殺してやる」

そう言ったすぐ後、女盗賊はナイフを構えて、女性とは思えない雄叫びを上げながらシリルに突進してきた。慌ててシリルは弓を引き絞り、女盗賊目掛けて矢を放つ。しかし、焦りを含んだシリルの鉄の矢じりは虚しく空を切り裂くにしか至らず、シリルにナイフが届く距離にまで達した女盗賊は、勢いよくシリルにその鋭いナイフの刃先を振り下ろした。とっさに逃れようと斜め左にしゃがんだシリルの手から弓が離れ、その弓は素早く女盗賊の足によって遠くに蹴飛ばされてしまった。その一瞬、シリルは視界の端に捉えた、アリサに伸された男の側に落ちている鋭いナイフを拾い上げる。それを構えて勢いよく立ち上がるも、自分の手に握れる小さなサイズの凶器に、シリルの全身が震えた。リーチが短い、それだけの事実にシリルの恐怖心は満たされていた。

そんなシリルの様子を見ながら、女盗賊はターバンの隙間から唯一見えている目を細めて、愉快そうに笑う。女盗賊が容赦なく震えるシリルにナイフを放ち、そのナイフを避けるだけの反射神経など持ち合わせていないシリルの腹部に、凶悪なナイフが深々と突き刺さる。悲痛な叫びを上げて、シリルはしゃがみこんだ。嫌な汗がシリルの全身から噴き出す。近づいてくる女盗賊の足音にシリルは歯を食いしばって痛みに耐えながら、機会を待った。大人しくなったシリルを蹴り飛ばそうとする女盗賊の足に、シリルが懇親の力を込めて握りこんでいたナイフを突き立てた。革靴を貫いた銀色の鋭いナイフに、今度は女盗賊が甲高い悲鳴を上げた。

シリルは振り払おうと躍起になる女盗賊に突き立てるナイフを握る手の力を緩めず、引き抜いた。腹部から、熱が全身に伝わるような痺れが走るのを感じた。うずくまって足を押さえた女盗賊がシリルを殴ろうと手を振り上げた瞬間と、シリルが握りこんだナイフを女盗賊に向かって振り上げた瞬間は同時だった。痛みを覚えてしまった武器を前に、一瞬だけ女盗賊の動きは止まった。それが勝敗の分かれ目だった。

ここで、まだ死にたくない。その思いだけで、シリルは赤く血に染まったナイフを盗賊に勢いよく振り下ろした。





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