ch1.黒髪の兄弟 29
村の真ん中を堂々と歩く赤い髪の小柄な女性に、昨夜の出来事を知る村人達は興味深げな視線を向けていた。
綺麗に整った容姿と共に優しそうな雰囲気を醸し出しながら、たった一人で凛と歩く彼女の姿は非常に目立つものだった。老若男女問わず、何人もの村人が彼女に興味を持って話しかけんとするが、アリサの腰に差さっている物騒な剣が、その村人達の行動をはばかっていた。
「あれ、貴女は確か……少年のお知り合いの方ではないですか」
そんな彼女に声をかけてきた青年は、シリルだった。満面の笑みを浮かべて歩み寄ってくる青年には、一切の警戒心も存在していない。
面倒だと思ったアリサは、もう猫を被るのは止めようかと一瞬だけ思案したが、今さら変に警戒されてもそれこそ面倒だと思い直した。
「こんにちは。ええっと、シリルさんでしたね。先日はご案内、ありがとうございました。おかげで助かりました」
にっこり微笑みながらも、内心では何の用だよ、とアリサは毒づく。
そんなことは露知らず、シリルはアリサの作り笑顔に満足したように頷いていた。
「とんでもない、お礼を言うのは俺達の方ですよ! あの後、すぐに白い女神様の事件があったじゃないですか。あの時、村人一同が固まってしまっている中、貴女が前に出て女神様と対話して下さって、本当に助かりましたから」
「では、お礼を言うのはお互い様ですね。すみませんが、少し急いでいるので失礼しても良いでしょうか?」
あ、失礼して宜しいでしょうか? って言えば良かったかな。そう考えながらも変わらずニコニコと笑みを振りまきながら、アリサは自分の頬が限界まで引きつっていることに気付いた。
「あ、お急ぎでしたか! 足止めしちゃってすみません! ……どうしてもお礼がしたいので、今度暇なとき、一緒に食事でもどうですか?」
この時に、普通の人間なら、シリルという青年の初々しい心情に気がついているだろう。照れくさそうにアリサに話しかける彼が、懸命に異性の気を引こうとしていることの意味――つまりは、彼の分かりやすい恋心を理解するはずだ。
「暇な時、ないですね」
普通の人間の例に漏れずそれを知っていながらも、アリサは容赦なく言い捨てる。いちいち相手にしていられない、というのがアリサの本音だった。
「そ、それなら何か……その、お急ぎの用事、手伝いましょうか?」
健気な青年のシリルは、あたふたとしながらアリサに尋ねた。
「いえ、用事って村の外の事なんで、大丈夫です」
作り笑いの限界を迎えた頬をひねりたい衝動に駆られながら、アリサは内心で怒り狂う自身の短気すぎる感情を必死に抑えていた。
「村の外なんて、危険ですよ! 盗賊だって出るし、女神様だってどうなってるか……っ! ――そうだ、俺もついていきますよ!」
勇ましく背中に担ぐ弓に手を触れて言うシリルに対して、アリサは一切の頼り甲斐も感じることがなく、むしろ苛立ちが増すばかりだった。
そして、とうとうアリサの表情にも怒りが浮かび始める。
「ありがた迷惑だよ、糞ガキ」
とうとう出たアリサの本音に、場の空気が凍った。……やってしまった。そうアリサが思った瞬間、何を思ったのか、シリルが突然ヘラリと笑ったため、アリサは驚いた。
「敬語でなくても、全然構わないですよ」
そして、笑顔でシリルが発した意味不明な言葉に、先程のセリフを彼が変に聞き間違えたのだろうと理解して、アリサは肩を落とした。
「……すみません、私、今何て言いましたっけ?」
一応聞いてみると、シリルは不思議そうに首をかしげた。
「ありがとう……ですよって、言いませんでした? 慣れない敬語を使っているのかと思ったんですけど……」
なんでお前に気を遣って慣れない敬語を使う必要があるんだよ、この糞ガキが。そう思いながら、アリサは大袈裟に溜め息を吐いた。ああ、もうこうなったらヤケだ。
「あー……うん。アタシ、敬語慣れないんだ」
猫被りを止めてそうアリサが言うと、シリルがやっぱり、と嬉しそうに笑う。
「いつも通りの口調で良いですよ」
シリルが優しく言った後、アリサは顔を落とした。不審に思ったシリルが声をかけるより早く、雰囲気がガラリと変わったアリサが顔を上げた。
その表情は先程までとは大きく異なる、冷笑を浮かべた好戦的な顔で、それを見た瞬間に、シリルは鬼でも見たかのような表情で固まった。
「よし、そうさせてもらうわ。まあアンタが良いって言うんなら、こっちのが楽だしね。
……で、アタシは村の外に用があるんだけど、アンタも付いてくんの?」
さっさと逃げればいい。そう思って殺気まで出してシリルに問いかけたアリサは、シリルが苦しげに微笑んだことに驚いた。
「……女性の、一人歩きは危険ですから」
案外ヘタレでも無いみたいだと思い直し、アリサは脅し程度に出していた殺気を抑え、愉しげに笑いかけた。
「面白い奴だね、アンタ。アタシはアリサ。……アンタは?」
「シリルです。よろしくお願いします」
本性を知らずに、惚れた弱みで強気に出てしまったシリルと、虐めがいのありそうな奴だと内心で愉しんでいるアリサは、対照の想いを胸に秘めて握手した。
「さて、今から女神にイタズラした帝国の奴らと、手遅れになった女神様を殺しにいくんだけど、アンタはその……盗賊かなんかと適当に戦ってくれてりゃあ、それでいいから」
アリサの一言に、シリルは凍りついた。
女神を殺すだの何だの、とんでもないことに首を突っ込んでしまったと彼が気付いた時には、既に手遅れな状況だったのだ。
「ボサッとすんな、急いでんだよ。……シリル、行くよ!」
名前を叫ばれてハッとしたシリルは、ようやくアリサが普通の女性でないことに気が付いたのだった。
前へ / 次へ