ch3.水辺の大怪獣 20




真夜中、木々の合間を飛び越える影があった。
その影は二足歩行をしては膝のバネを折り、まるで猿が虎の筋力を得たかのような瞬発力で闇に包まれる森を駆け抜ける。

ガザリと音を立てて鬱蒼とした緑の中に着地したその影は、人型だった。

木々の枝やら何やらに引っかかったことで薄い茶髪は無造作に跳ね回り、薄汚れた服には黒ずんだ血の痕。そして、その人型の生物の口元からは立派な犬歯がのぞいており、その牙の隙間からは鮮血が滴り落ちていた。

真っ赤な瞳の瞳孔が切れ上がったそれは、紛れもなくチームの誰もが天才と認める<RED LUNA>の情報管理人、リック=レジナルド=マッケンジーの変わり果てた姿だった。

リックの切れ上がった瞳孔が、すぅっと細まる。

息を荒げたままのリックは突然ハッとしたように肩を震わせ、次いで、忌々しげに舌打ちする。

――また、暴走してしまったのか。

この時、リックが倒れたルカを助けた日から、すでに一ヶ月が経とうとしていた。

この間、リック独自の開発した経路通信が繋がるようになって帝国の人間、ジアンやリアンに傍聴されることなく、リックたちは自由に通信が行えるようになったのだが、それでもライノからルカやリックへの報告は全く来る気配がなかった。やはりライノのみが徹底的に帝国の人間にマークされているのだろう、通信を取る僅かな隙すら見せられないほどに。そういう風に、リックは考えていた。

帝国の人間がどう考えてライノばかりを眼中に入れているのかは知らないが腐っても帝国の抱える秘密部隊、彼らもプロである。この学園内にライノの協力者が潜んでいことくらい想像に容易いだろうに、それでも彼らはライノのみを狙う。

もしもそれが、ライノが単独犯でなく、リックたちのチームリーダーであると見抜いた上で仲間との連携を取らせまいとする敵の計略であるならば、リックはこの任務において、自分が足手まといなのを自覚していた。吸血一族である自分は、ライノの血が飲めない状況に追い詰められてしまえば、まさに今この瞬間までのように、ふいに暴走し、無意識に吸血鬼化してしまうのだから。

たしかに学園の生徒や教師、そこらの人間の血を飲めば暴走などせずに済むのだが、意図して一般人を襲わないことはデニスから出された<RED LUNA>の入団条件の一つであるため、この掟をリックには破ることは出来ない。

しかしだからと言って、この任務中に暴走して吸血鬼化してしまえば、ましてや帝国の人間の注目を集めて素性がバレてしまえば、今までライノが囮になってくれていた苦労が水の泡である。

「全く……俺にどうしろと言うのだよ」

リックは自嘲気味に呟くと、ライノから受け取った食料となる血を入れるビンを取り出した。中身は全て空になっており、揺らしても逆さに振っても、一度飲み干した真っ赤な鮮血が戻ってくるはずもない。

数時間前のことだ。
空腹に耐えかねたリックは、自分の暴走しそうである状態を自覚し、意識朦朧としながらも身を隠すようにこの森に足を踏み入れた。そして案の定というか、森の中で彷徨い歩くうちに、リックの暴走は起こった。

暴走の瞬間、リックは朦朧とした意識が一気に焼け爛れたような、蒸発したかのような、そんな錯覚を感じた。かと思えば、まるで第二の人格が現れたかのようにリックの全身は狩人の感覚に包まれ、思考回路からは数時間前に独自開発していたデータベースソフトのことなども吹き飛び、ただ飢えた獣のように獲物を狙い確実に仕留めるための本能的知識だけが体内と脳内を渦巻いていた。

大勢の森に潜む得体の知れない獣やらを襲い、吸血行為を繰り返し、狼のように夜の森を駆け抜けた所で正気に戻り、リックは今の状態に至る。

口元には自嘲気味に笑みを浮かべ、空しい表情のまま虚空を眺めていたリックは、両目を閉じて溜め息を吐いた。他人がじっと背後から自分を見つめている気配を感じたからだ。ついでに言うと、よく見知った人間の臭いもしていた。

「何か用か、リアン」

振り返ることもせずにハッキリと言ったリックに、背後から足音も立てずにリックに近付こうとしていたリアンが盛大に転んだ。

「おおお、よ、よく分かった……なぁあああああ!!?」

尻餅をついた姿勢のまま、リアンは眼前に迫ったリックの鋭い爪先に悲鳴をあげた。一方、リアンを見下ろすリックの目は冷たい光を宿している。

リックの瞳孔が切れ上がった鮮血の赤い瞳と、リアンの眼鏡越しの不気味な光を宿す真っ赤な瞳が重なった。

「はぁん、分かったっぜぇ? ライノ先生を襲った吸血鬼って、リック、お前なんじゃん?」

冷や汗を浮かべながらリアンが慎重に声を発するが、リックの眼光はさらに鋭く光った。

「黙れ、俺たちは吸血鬼じゃない。人間だ。吸血一族という人種の、人間だ」

「あーあーどっちでもいいよ、そんな哲学的な。そんなことよりさぁ、吸血鬼って今でこそもう捕まったりしねぇけど、昔は処刑対象だったって話じゃん。何でお前、生き残ってんの?」

リアンが欠伸をした。リックの怒りの炎が、リアンの呆れたような声とともに投下された純粋な油で激しさを増す。

「貴様に話す必要などないのだよ!」

言いながら、怒りに身をまかせて一気にリアンの首を飛ばそうと動いたリックの爪先に、リアンは超人的な反射で反応した。腰が抜けたように座り込んでいた今までの態度を全く思わせない動きで、リアンは地面に素早く体を滑らせてリックの右手が繰り出す鋭い爪先を避けたのだ。

腹筋だけを使って体を反転させるリアンを追って、リックの左手が伸びる。リアンはそれを視界の端で捉えると、一瞬だけ宙を泳いだリックの右肘を掴み、思い切り捻るようにして引き寄せた。捩れる腕の痛みにリックが呻き、ひるんだ瞬間にリアンの頭突きがリックの顎を打ちつけた。瞬間、リックがリアンの頭に向かって口を開いて牙を立てた。あっという間もなく、両者が両者から危険を察知して、同時に身を引く。

リックの憎しみに染まった目は、息を荒くしながらも目の前を敵を睨む。
一方、危うく脳を食いちぎられるところだったリアンもまたいつになく真面目な顔で、いつになく精悍な青年の表情をしてリックの憎しみに向かっていた。






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