ch3.水辺の大怪獣 19
「聞こえるか」
久々に着信を知らせた携帯電話からノイズ交じりに聞こえてきたリックの声に、ルカは思わず笑った。
「聞こえる聞こえる、ちゃんと繋がってるぞ」
「そうか、安心したのだよ……お前、そこは安全な場所か?」
「うん、大丈夫じゃないかな。アンタがチェック済みって言ってた共同トイレに居るから」
ルカが現在潜んでいる寮の共同トイレは、リックが整備した。おそらくはトビアスたち帝国側が設置したであろう発信機などは一切無効にし、安心して通話が行える環境になっていた。
数日ぶりに話をするリックの声は普段どおり冷静なものになっており、ルカは安堵した。トイレの窓枠には青く美しい小鳥のラムが佇んでいる。この間、ルカはトビアスと謎の交渉を行った後にしっかりとラムを迎えに行くという自身に任された役割を遂行していたのだ。
「しかし、あれからまだ四日しか経ってないぞ。ホント仕事速いなぁ、リック」
「これしきのこと、出来て当然なのだよ。むしろ吸血鬼化が解けるまでの半日を無駄にしてしまったことが悔やまれて仕方ない」
憎々しげに呟かれたリックの言葉に、ルカは小さく笑った。相変わらずだった。
「お前はどうなんだ、ラムは問題なく回収できたのか?」
リックの問いかけに、ルカは黙ったままトビアスとの交渉を思い出しながら、窓枠の上をピョイピョイと跳ねるラムの羽を一撫でした。やけに敵と仲良くしてしまった上に、トビアスとの戦闘で思い切り捻られた左足首が青紫色に変色していて痛むのだが、これは問題なく回収できたことになるのだろうか。思考していたルカに、リックの訝しげな声が聞こえた。慌ててルカは反応を返す。
「ラムなら問題ない、今も元気に跳ねてる」
嘘は言ってない。内心で呟きながら、ルカは窓の外に広がる大きな晴天を仰いだ。誤魔化せるかと思ってルカがじっとリックの返答を待っていると、電話の向こうから深い溜め息が聞こえてきた。うん、騙せる訳がなかったよな。自嘲気味にルカは笑った。
「……ルカ、何かあったのか」
「うーん、何かって言うか……最近、ちょっとずつ小さい頃の記憶が戻り始めててさ。ラム探しに行ってるときにも、記憶のフラッシュバックがあったり記憶のヒントがあったりして、ちょっと戸惑ってるんだ」
トビアスとのことは一切を伏せて、ルカは事実を交えながら話をすりかえた。リックには悪いが、トビアスと結託したことについては、どうしても話せそうになかった。電話口の先に居るリックが無言になった。何かを考えているのだろう、そう思いながらルカはリックが何か言うのを待つ。
ひょこひょこと窓枠を跳ねるラムが、輝く陽の下でパッと青い羽を広げた。どこかへ飛んでいくのかと思いきや、飛び立った先はルカの右肩。鼻先に近づいたラムとの距離感に、ルカはきょとんとした表情を見せた。
――あの帝国の怖い男のこと黙ってていいの? 後で怒られない?
じっと目を見ながらテレパスで語りかけてくるラムに、ルカは疲れたように少し肩を落とした。
――やっぱ、言った方がいいと思うか?
ルカが問い返すと、ラムはククンと首を傾げた。
――トビアスって、アルとアリサが前の任務先で一緒になった奴だよ。すっごくずる賢くて、あの二人でさえ相手するの大変だった。僕は不安。ルカ一人でトビアスの相手するのは、不安。
ラムの言葉に驚き、ルカは目を見開いた。ラムの瞳は酷く真面目な色をしていた。しばらく考えた後、ルカはやはりリックに伝えるべきだと判断し、再び口を開こうとした。が、それより早く、リックが口を開いた。
「どこまで思い出した?」
「……え?」
淡々としたリックの質問に、思わずルカは聞き返してしまう。再び、リックが静かに口を開いた。
「ルカ、お前はどこまで思い出している?」
「え、いや、あの……な、何で?」
二度目、同じ質問を聞いてルカは違和感を感じた。淡々と聞こえたリックの声は、震えていた。ルカはその事実に戸惑いながら、慎重にリックに聞き返した。
――リックは、俺の過去を知っていたんじゃないのか?
そんな疑問が脳裏をよぎると同時に、ルカの動揺を汲んだかのように肩に乗っていたラムが身じろぎした。数秒の沈黙。
「……リック、アンタ、俺のこと何か知ってるんだな」
確信めいたルカの物言いに、とうとうリックは折れたのか、深く悩ましげな溜め息を吐いた。
「この間から、俺は失態ばかりなのだよ……迂闊だった」
「そんなことはどうでもいいし、別に怒らないから、知ってること教えてくれ。このままじゃ、ちらちら戻ってくる記憶の断片が気になって眠れない」
六時間の睡眠を経ながら、ルカは冗談交じりにそう言った。しばらくの逡巡があって、リックは沈黙を貫く。そして、喋った。
「……俺は、お前の過去までは知らない。だが、過去に帝国で行われていた実験で、今ではすっかり隠蔽されている実験があったのを知っている」
静かなリックの声が続いた。
「時間がない、今は短直に言うのだよ。昔から、帝国はR細胞を人間に投与し、身体能力が飛躍的に進化した人間兵器を完成させるための実験を行っていた。その結果として生まれたのがR生物だと、俺たちは最近知ったな?」
「うん」
頷きながら、ルカはそれがガロンが与えてくれた情報であることを思い出した。ガロンが自分やアルフォンソに親しげだったのも無理はないと、自分たちが血の通った兄弟であったことを思い出した今なら分かる。複雑な感情に、ルカは表情を歪ませた。
「その実験によって生み出されたのはR生物という失敗作ばかりではなく、成功作もあるということだ」
「成功作? 待ってくれ、もっと分かりやすく言ってくれないか」
ルカが慌てて言うと、リックは再びしばらくの沈黙を経て、重苦しく口を開いた。
「……俺の口から出たというのは黙っておいてほしいのだよ。ルカ、俺が過去に見た帝国の被験者リストには、お前やアルの名前が載っていた。お前たちの体内には、身体能力を異常的に強化し、生態の遺伝子を丸ごと変えてしまうほど強力なR細胞が入れられているのだよ。それほどの異物を取り込んだまま、人間としての姿を保っているお前たちは……もしR生物に慣れ果てた多くの人間たちを失敗作と形容するならば、お前たちは、成功作という他にないのではないか?」
リックの言葉に、ルカは絶句したまま硬直した。取り戻した記憶を整理する。
かつて、ルカに兄は二人居た、双子の兄弟。アルフォンソとラウロ。彼らと共に居たのは果樹園で、母親の姿もあった。幸せだった。
――場面転換。
森の中で、人に優しくしないアルフォンソに、温厚なラウロが珍しく怒って掴みかかっているのを見つけた。アルフォンソは冷たく言い放った。「俺とお前は違う」のだと。
――場面転換。
記憶喪失になった。意識を取り戻して真っ先に見たのは、真っ白な部屋の中で、微笑むアルフォンソ。……その時から、ルカの傍にはアルフォンソだけ。ただ一人しか、居なかった。
――場面転換。
金髪の男と、白髪の男が並んでいる。アルフォンソの裏人格であるウリッセと、ラウロの変わり果てた姿であるガロン。双子の兄弟の面影など全く消えうせたかのような対峙。
彼らの変化がリックの言う実験の影響によるものであるとしたら、リックの言うことが事実であるなら、同じように実験を受けたとされる自分には一体何が起こるのか?
「うっ……」
考えて、瞬間。ルカは眩暈を起こして蹲った。ラムが労わるようにルカの肩を降り、情けなく鳴く。
「ルカ、おい!? ちっ……仕方あるまい、今から行くから待っているのだよ!」
焦ったようなリックの声が聞こえるが、ルカは何も答えられなかった。断片的に浮かんでいた記憶が、まるで一気に押し寄せてくるような感覚に、吐き気すら覚える。
――何故、忘れていたんだろうか。いや、それほどまでに、辛かったのだ。
母親に黙って、町に出て就職すると言って、ラウロは帝国の兵士に志願したまま戻ってこなかった。最後、家族の元を去る前にラウロは言った。
――俺はアルと一緒には、居られないから。
そう悲しげに幼いルカにだけ言ったラウロが戻ってきたのは数年後。兄は、変わり果てた白髪の暗殺者になっていた。母親を貫いた白刃。バッと散る鮮血。誰のものとも分からない町の人の悲鳴や咆哮。焼ける人や家。ただ殺されるという言葉だけでは足りない凄惨な世界。四肢も骨も内臓も、まるで人間という小さな世界から解放されたかのようにあちらこちらに飛び回っていた。兵士の嘲笑や硝煙、絶望の中で、幼いルカは生き抜き、耐え切れない絶望の記憶から自身の精神を切り離したのだ。
「おい、ルカ! しっかりするのだよ!」
通話越しに聞こえるはずの声が近くに聞こえ、ルカはぐるぐると沈み込む意識の中で温かい手が背中を支えるのを感じた瞬間、不思議な安堵感と共に意識を手放した。そこに在ったのはリックであり、仲間であり、現実だった。
――容量限界(キャパオーバー)か。
リックの呟く声が、ルカの意識を外れたどこか遠くで響いた。
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