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それぞれのかたち

01


「どうしてここへ来たんだ」
ポルナレフの一言目は、突き放すための刺を持っていた。目が合って数秒のことだった。全身に包帯を巻かれてベッドに沈んでいる男に、名前は絶句してしまった。男の声は、労るように歩み寄る暇すら与えなかった。
病室の外は、廊下を往来する慌ただしい足音が絶え間なく通り過ぎている。街中がこの様相だ。ポルナレフのいる病室も、昏睡状態の患者とその家族で溢れかえっている。
カイロは騒然としていた。
昨日のテロの爪痕が、街のそこかしこを削りとったまま放置されている。あまりにも唐突で大規模な破壊にまだ対応しきれていないのだ。
野次馬に囲まれる現場には、地面に広がった血がアスファルトに乾いてこびりつき、事件時と何一つ変わりない景色の中、先に運びだされた大勢の被害者達だけがいないのが、生々しさを助長している。
住民たちはむごい殺され方をしたのだと、名前はカイロに到着してからすぐに騒動の内容を耳にした。聞かずとも空港はその話題で持ちきりだった。タクシーを拾えば、運転手は自分から今現在得られる限りの情報を名前に流してくれた。
封鎖された道々を迂回しながら病院まで来る間、倒壊した建物を何件も見つけて、とんでもない時に居合わせてしまったと思ったものだ。
その時の名前は、ポルナレフがその被害者だとは思いもしなかった。まさか誰が思うだろうか。追いかけて会いに来た人間が、テロに巻き込まれるだなんて予想できるだろうか。青白い死人のような顔をして、ベッドに眠っているだなんて。
「どうしてここへ来たんだ」
男がもう一度聞く。初めて酒場で出会った時に聞いたのとも、またカラチで聞いたものとも違う、掠れて覇気のない声だった。名前の、知らない声だった。
喉がカラカラに乾いて行くのを感じた。男は怪我と疲労から出た熱に息を吐きながら、薄っすらと開いた目で静かに名前を見つめている。人で溢れかえって騒がしいはずの病室は、どこかピリピリとして張り詰めている。その中でポルナレフだけが、何もかもを喪失したような、うつろな空気を纏っていた。
名前が持つ答えは一つだけだった。けれど、その一つを表すのが難しい。男の精気のない姿にも怯んでしまう。名前は自分が場違いな存在のように思えてならなかった。ここにいるわけを、一体男にどう説明すればいいのだろうか。会いに来るために折角、何度も何度も考えてきたというのに、戸惑いばかりが浮かんで今すぐにでも椅子を立ち上がって逃げ出したくなる。
名前は胸の内を整理するようにゆっくりと逡巡したが、いくら絞っても乾いた手ぬぐいのように薄っぺらい自分の胸からは、気の利いた言葉なんてひとつだって出てきそうにもなかった。
どうしてあたしはいつもこうなんだろうか──
いつだって自分勝手でひとりよがりな性格が憎らしかった。


体が熱い。そういう日がいく日も過ぎた。
アブダビの市街地で、男に無理やり放り出されるようにして別れてからというもの、名前は急に体の熱さを覚えるようになった。
心臓が激しく脈打って、病にかかったように苦しい。全身をとてつもない倦怠感が襲ってくるというのに、数分おきに黙っていられないほどの衝動がつま先まで駆け巡る。そういう時、必ず一人の顔が浮かぶ。背の高い、白人の男だ。
「ポルナレフ……」
「ジャン=ピエール……」
重い舌を引きずりながらぽつりと音をなぞると、カッと熱くなる血潮を感じた。
ただの名前だった。何の変哲もない、個体を表すためにすぎない、記号のような名称だ。それなのに、男の名前を口に出しただけで胸が震えて、気恥ずかしさがこみ上げてくる。口内は決まって、砂糖菓子を含んだように甘ったるい感触が広がる。
襟足に向かってところどころほつれた銀髪。暗い路地で、ピアスを揺らして振り向いた鼻筋の通った横顔に、どこか憂いの含まれたブルーの瞳。ふっと目を伏せると、まつ毛で陰った瞳は灰色を帯びる。大きな体躯は近づくだけで視界を覆って、柔らかな筋肉をしならせながら力強く歩を進める。露出した肌と鍛えられた腕が、ゆらゆらと空気を切り、またハンドルを握り、また名前の肩を掴む。
あの人の手が自分の肌に触れたことがあるのだと思うと、名前はとてもじっとしてはいられなくなった。次々と浮かび上がってくる男の些細な仕草ひとつひとつを思い起こす度に、頭が朦朧としてくる。
こんなことは、初めてだった。
「どうしちまったんだよ……」
体が熱くて仕方がない。それなのに、熱はない。
逗留していた民宿の主人は、夕食の度に物憂げにため息を漏らす名前を見かねて話を聞くなり、
「そりゃあ恋わずらいだ」
と拍子抜けした顔で言った。面食らったのは名前だった。

恋をするのは初めてではない。優しくされるたびに、「この人となら……」という期待を持ったのだが、結局は父の阻害や利己的な衝動がぶつかって、上手く行かずにすぐに熱も冷めた。
しかしそれに関して、特に悲観することもなかった。父と母を見る限り、恋とはそんなものなのだろうと思っていたからだ。恋などという感情は、生きてゆくために利害と諦めの織り交ざった関係が、一時的に生み出すものなのだろうと考えていた。
怒声の行き交う家庭。自分を磨くことを失った堕落的な姿。飢えを凌ぐための一時的な手段。
そんな己のイメージを誰に話したこともないが、考えを否定できるような場面にも遭遇したこともなく、名前の目には誰もが同じ一途を辿っているように見えた。

それがポルナレフの姿を思い浮かべると、キュッと胸に痛みに似た感覚が走り、次第に甘い痺れとなって名前を恍惚とさせた。こんなことは、今までに一度だってなかった。
「恋だろ? 恥ずかしいこたないさ、誰だってする」
宿の主人は名前の前の手付かずの夕食を一瞥した後、苦笑いをして、「電話を貸そうか」とまで言った。
出来そうにない、と柄にもなく思った。自分が受話器を握り、その向こう側でまた男が同じように受話器へ耳を当て、口を近づけるのだと想像すると、途端に鼓動が早くなって、汗が吹き出した。
一拍も空けずに激しく首を振って、名前は主人の提案を断った。らしくなく、動揺していた。
「いつでも借りていいぞ」と主人は気を遣うものの、今の名前には受話器を持ち上げることすら無理そうだった。

電話をしたくないわけではない。カラチからの航路でくすねた、“ジョセフ・ジョースター”の名刺を持っている。裏面には、“スピードワゴン財団”と走り書きされた番号もある。何か目的を同じにしている様子だった男達は、十中八九行動を共にしているだろう。
しかし、あれからひと月近く経っている。彼らがどこで何をしているのか、名前には全く見当もつかなかった。もし目的を終えて離散していたとしても、スピードワゴン財団に問い合わせれば、何か情報を得られるかもしれない。詐欺で生きてきた名前にかかれば、無理ではないように思えた。
けれど問題があった。大きな問題だった。名前は恐らく、ポルナレフに嫌われている。そういうことをして来たのだ。己の招いた状況なので、誰に文句をいうわけにも行かない。
人好のすぎる男がたとえ奇跡的に名前を嫌っていなかったとしても、迷惑だと思っていることは名前にだって分かっていた。何せ生きるためとはいえ、無関係だった男をギャングに売ったのだ。手酷くされたかもしれない。名前の代わりに傷めつけられたかもしれない。
それを分かっていながらも、また利用するためだけに追い回したのだから、どんなに呑気な出来をした男だろうと、名前の面の皮の厚さに嫌気が差して、暫くは顔も見たくないと思っているだろう。
そう思った瞬間に、ギチリと、胸を握りつぶされたような痛みが走った。
そんなのは嫌だ──
痛みを振り払うように呟いても、無理な話だった。自分がそうしたのだ。名前が道具のように扱った男に、今になって惚れてしまうなんて、間が悪いにも程がある。それでも、好きになってしまったのだ。
寝ても覚めても男の白い肌と切れ長の目や堀の深い顔が浮かんで、頭が穏やかな声に満たされる。
名前を面倒な女と知っていて、心配して追いかけてくれるようなお人好しなんて、今まで誰一人としてだっていなかった。誰だって同情はしても、縁もゆかりもない赤の他人に、そこまで尽くしてやろうだなんて思ったりはしない。名前だってそうだ。
ポルナレフは迷惑だと言いながらも、名前を安全な場所まで送り届けてくれた。それだけかもしれない。でも、それだけのことをしてはくれないのが、普通なのだ。
首を振ろうが息を切らして走ろうが、どうやったって男の背が、触れる指先の温度が、温和な声が、振り払えなかった。
近づけない。話もできない。近づけば嫌な顔をされる。嫌な顔をされれば名前の性格だ。つっけんどんに、思いもしないことを口走ってしまうに決まっている。たとえそれが会いたくてたまらなかった男だったとしても、きっと追い打ちをかけるように酷いことを言うに決まっている。
それでもいい、話たい。声が聞きたい。あの優しい声を聞きたい──
名前は気づけばベッドから立ち上がって、名刺を片手に握りしめていた。
震える手で持ち上げた受話器は、驚くほど軽かった。


決心をしてきたのに、焦がれた人を前にすると「あんたに会いに来たんだ」と、その一言がどうしても言えない。これまであんなに沢山の嘘をついてきたくせに、「会いたかった」と、たったそれだけの言葉がどうしても出てこなかった。
上手く言えない自分に焦れていると、遂には何も言えなくなってしまった。口を閉ざして、ただただ男のベッドの脇で呆然と座っている。
ポルナレフは周りの騒々しさもない様子で、空虚を顔に浮かべている。名前にはとても、事故に遭っただけではないように思えた。こういう勘だけはいつも冴えていたから、これまでも一人で生きて来られたのだ。
しかしそうは思っても、何があったのかを敢えて聞くのは怖かった。
「関係ない」と、ポルナレフの口から言われたら、それで何もかもが終わってしまう気がした。
名前のことも、今の男にとってはそうなのかもしれなかった。病室の見舞客や雑踏と同じ、意識の外側にある、ただの事象にすぎないのだろう。
どれだけ男を想おうが、それは名前の一方通行にすぎない。人好しの男のことだから、有り難いとでも言うかもしれない。でもそれは、ありがた迷惑なのだ。分かっている。分かっているつもりだった。それでも、名前は男へ会いに来たのだ。

どうすれば先に進めるのか、考えれば考える程に、空回りをしていて、事態は悪い方向へ向かっているような気がしてならない。ひとりよがりな性格が憎らしかった。そういう風にしか育てなかった環境を恨んだ。
男が眩しかったのだ。狡くて、大雑把で、責任を他人に押し付けて正当化することしか考えていない自分とは、大違いだと思った。
「悪いが……今、オメーの顔は見たくねぇんだよ」
ポルナレフがぽつりと言った。どうやって居場所を特定したのかも、尋ねようともしない。きっと興味が無いのだ。名前がいようがいまいが、関心はない。それは、本当の拒絶だった。サッと名前の体から、血の気が引いていくような気がした。
病室には、啜り泣く音すら聞こえた。ツンと鼻を突く薬品の匂い。そこに時折交じる幾人もの人の独特の生活臭。汗の臭い。口から吐出される、食べたばかりの食事の臭い。
ポルナレフは汗一つかいていなかった。体中に巻かれた真っ白な包帯は、男をベッドに縛り付けているように名前には見えた。あの自由でいて活発だった男は、それに抵抗をすることもなく、蒸れで生じる痒みを指で掻くこともなく、無気力にベッドに沈んでいるだけだった。
やっぱり邪魔なだけだったじゃないか──
悔しさと恥ずかしさで、顔が真っ赤になった。恋い焦がれて来たことを見透かされているに違いないと思った。場違いにも盛った感情を、拒絶されたような気がした。来るべきじゃなかった。
それならば後腐れのないように、いつもの憎らしい自分のまま、「偶然見かけただけさ!」とでも啖呵を切って、椅子でも蹴り倒して出て行けばよかった。
「……あ」
言葉が出て来なかった。頭が真っ白になって、気弱な音がひとつこぼれ落ちただけだった。
これが自分の口から出た声だと気づくまでに、随分時間がかかった。自分が、一体どれだけの恋を抱いていたのかも。
好きになったのが、遅かったのだ。
あんたなんか嫌いだ、と一言そういえばいい。名前を面倒だと思っている男を安堵させられるし、名前も男を振り切ることが出来る。それだけで済む。
脳裏に、ここへ来るまでの光景が浮かんだ。

宿賃を払って早速カイロへ飛んでも、恋焦がれた男にすぐには会えなかった。男達の宿泊先だと聞いていたホテルのフロアも、避難してきた人でごった返していて、ようやくの思いで長蛇の列を作っていたフロントへ辿り着けば、ポルナレフは昨日の早朝に出たきり戻っていないと言う。
子供の泣き声や、立ちすくむ人々のどんよりとした空気が、床を這うように流れていた。暗い胸騒ぎがして、名前は慌てて電話を借りた。ポケットに押し込んでいた名刺を取り出して開くだけでも、指先が震えて思うように動かない。
そうして今名前の目の前には、思い焦がれた姿が、重たい体が、ベッドのシーツに皺を作って、静かに横たわっている。不気味な空気だ。医者は死ぬような怪我ではないと言っていた。熱が出ているだけで容態も悪くはない。もうじき下がるだろう。
それなのに、息を潜めても、どんなに音を殺しても、静かなのだ。静かすぎるのだ。
これじゃまるで──
死ぬ間際のようだと、名前は頭に浮かびかけた言葉にゾッとした。
名前をここまで乗せてきたタクシーの運転手は、昨日のテロで何人死んだと言っていただろうか。男の心を傷つける何かが、そこで起こっていたとしてもおかしくはない。

こんなに人を心配したことなど、今まであっただろうか。騙されたと知っていながら、名前を案じてくれた人なんていただろうか。
それが一度きりだっていい。回数は重要じゃないのだ。たとえそれが気まぐれだったとしても、そのたった一度のお人好しがポルナレフの中に住んでいるという事実が、名前の心を鷲掴みにした。やわやわとくすぐり、また強く引き寄せてくる。
何せ、男は名前のせいで殺されかけたのだ。それで名前のことを案じられるなんて、騙されたこともわからない余程の馬鹿か、底抜けのお人好ししか出来ない。
そんなところが好きだった。上手く生きられない男の、損で不器用なところが好きだった。だからこそきっと男の性格では、幸せにはなれそうにもないとも思っていた。
それでも見舞いに来る家族もなく、精気のない顔でただ一人、ベッドに横たわっている男を見た時、ぎゅっと胸が締め付けられた。まるで自分のようだと思った。こんな人が、名前と同じ境遇にあっていいはずがなかった。

どうしてか、想いが真っ先にこぼれ落ちた。
「好きなんだ、あんたが……」
言ってからまた、一人よがりな言葉に絶望感が込み上げた。いつも自分のことばかりだ。ポルナレフの事情を考えもせず、慰めもしない。ただひたすら、自分の感情を押し付けることしかしない。
どこにもないと思い込んでいた己の良心が、名前の体を突き刺した。
男の前にいると、自分のあざとさが露呈され、汚らしい泥のようにぶくぶくと溢れているのが見える気さえした。
「何か、飲み物を……」
ナースステーションで貰ってくるという口実とともに、堪えきれずに病室を出る。そうでもしなければ、名前を見つめる男の静かな視線には、耐えられそうにはなかった。


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13/12/18 短編
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