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20歳の時、私は初めて死体を見た。


風鈴の音

01


初めにこのことを話しておかなければならない。

私は迷信を信じる方ではないし、これといって勘も働いたことがないので、そういった非科学的なことには縁遠いと思っていたのだけれど、大学2年目も後半に差し掛かった2000年秋のことだ。夏からバイトを始めた喫茶店で、ドアから入って窓際三番目の席のジンクスというのを、私は強く確信した。
その席はレジの丁度正面、カウンターの斜め右側、トイレから一番遠い場所に位置していて、広くはない店内の中でも同じ客同士では気づきにくく、店員からは一際目の行く特徴を持っていた。注文をしやすく、周りを気にせず静かに席についていられるのが長所だ。
しかし、私にとっては鬼門に他ならなかった。その席に座るお客さんに関して、何かとよろしくないことが起こるからだ。
そもそもの喫茶店自体は、駅の裏手を真っ直ぐ進んだ住宅地の中にある。コンビニもスーパーも商店街もなく、表札でも眺めながら歩いていると、突然安っぽい看板とともにレンガ風の外装がぽつりと現れる。
レンガ風といえば聞こえはいいが、見目がいいのは表の一部だけで、横側の壁はびっしりと蔦で覆われ、二階に目を向ければ、生活感溢れる物干し竿と洗濯物が常にセットになって視界に飛び込んでくる。そんな寂れた喫茶店だ。
見た目がそんな有り様なので、すぐにでも潰れてなくなりそうに感じるものの、客足はそれほど悪くはない。
店の前の道路幅は狭くなく、たまに近くの霊園帰りと見られるお客さんや、S市内へ続く道路から曲がって立ち寄る方もいる。近隣に住む学生が訪れることも少なくはない。しかし制服を着た中高生は、やはり駅前の洒落た喫茶店へ流れているようだ。
この店がいつからあるのかは分からないが、もちろん個人経営なので、町内の顔もきき、よくご近所同士の集会所になっていたりもする。居心地もいい。
だからなのか、やたらとツケにしようとするおじさんや、机の上で延々とお金を数え続けるおじいさん、コーヒーを抱えたままいびきを掻いて寝てしまう仕事帰りのお姉さん、鬱憤を晴らそうとわざわざ杜王町の端から愚痴を言いに来るおばあさんなど、自由っぷりはもう種々様々で、その時だけは跳梁跋扈と言っても過言ではない。
そしてそういう人に限って、ドアから入って窓際三番目の席なのだ。いつでも選び放題の席の中で、誰も彼もが示し合わせたように、三番目を選ぶ。

だから長期休暇の覚めやらぬ秋口に、耳障りと評判のドアベルを鳴らして入ってきた男性が、ちょっと迷ってから三番目の席に腰を掛けた時、私は壮絶に嫌な予感を抱いた。
初めて見る顔だった。私が出勤していない時にも来たことがあるのかもしれないけれど、座る席に迷っていた様子を見る限り、初回の人で間違いがないように思える。
男性の姿も独特だった。額にあてたヘアバンドと特徴的なピアスは、この店の急作りな雰囲気には浮いていて、一見して年齢がわからない。学生のようでもあるものの、既に社会人のようにも見える。では何の職業かと想像すると、途端にひとつも浮かんでこなくなるのだ。どれもこれもはね退けるような雰囲気は、私の予感を助長させた。
「ブレンドコーヒーをひとつ」
男性はメニュー上部のコーヒーコーナーをちらりと見た後、すぐさま片手を上げて、近寄った私へ一言告げた。
ギクリとした。次いで私の頭に浮かんだのは、「この人はケーキを食べなくても大丈夫だろうか」という心配だった。
「セットでケーキも頼めますが、よろしいでしょうか?」
私は遠回しにケーキを頼んでくれるよう、願いを込めて声をかけたのだけれど、男性は私をちらりとも見ずに「いや、結構だ」と即答したため、一層に緊張感が高まった。というのも、この店はブレンドコーヒーが大評判だったからだ。決していい意味ではない。
ブレンドコーヒーの豆を選んでいる店長は白髪のほっそりとしたおじいさんで、昔は大学の教授だったらしい。元は網元の出のようで、県北のかなり大きな土地持ちなのだとお客さんからこっそり教えてもらったので、この喫茶店も老後の道楽の一つなのだろう。
お金に困っていた夏頃にアルバイト募集の張り紙を見て訪れたものの、どういうわけか未だに店員は店長と私の二人だけで、たまに奥さんが二階から手伝いに来る以外は、店長一人の時さえ多い。
私のいる意味を真剣に考えてみたくなる状態なのだが、気まぐれで喫茶店を始めたような人らしいので、アルバイトを雇ったのも所詮気まぐれに違いなかった。
そういうわけで、ブレンドコーヒーの質も想像できるというものなのだ。何せ料理がド下手な私でも初日から厨房を任される具合なのだから、適当っぷりもここまで来ると酷いものである。ほとんど出来合いだから構わないと思ったにしても、いつもこの調子なので、コーヒーも何時に来ようと目の前で淹れてもらおうと、何故か煮詰まった酷い味がする。
そんな店でもケーキだけが自慢で、それ以外はからっきしと言われても、足繁く通ってくれる人もいる。しかしそのケーキさえも店長の弟さんが経営しているケーキ屋から提供されているというのだから、店長が提供しているのはこの店の空間と、コーヒー、もしくは紅茶だけになるのかもしれない。
それは分かっている。分かっているのだが。

「よくこんなコーヒーを出せるもんだな」
「申し訳ありません……」
苦々しげにそう言いながら、あれから頻繁に通ってくるこの人。必ずドアから入って窓際、三番目の席に座る人。ヘアバンドの男性だ。
最近はケーキを食べると緩和されることを覚えたみたいだが、毎回支払いの時になると、「ナァ、猿が淹れたってこんな味はしないぜ」とか「いくらなんでも不味すぎるんじゃあないか?」と必ず一言文句をつけていくので、そろそろ私の謝罪のレパートリーも底をつき始めている。
その割には通う頻度は多く、ケーキ以外あまりにメリットのない店と自負しているために、最初は「もしかして私目当て……?」なんて冗談交じりにあらぬ妄想をよぎらせたものの、何せ三番目の席。三番目の恐怖、なのだ。今でも面倒なのに、関わると碌な事がないに決まっている。
しかしコーヒーを頼まなければいいだけなのに、頑なにそれを注文するところを見ると、店長のブレンドは麻薬のような副作用でもあるのかもしれない。私も気をつけなければならなかった。

私が季節外れの風鈴の音に気づいたのは、そんな頃だった。
杜王町の南西には霊園があるせいか、S市中心地へ抜ける橋が通っていても、駅の東側に比べれば住宅地もそれほど開発されていない。
西側を北西にあるぶどうが丘の学校以北まで低い山が連なっていて、この一帯は駅裏と合わせて現在も開発途中である。都市開発とともにベッドタウンの広域化も進んでおり、買い取られた土地が多いものの、未だにこの辺りは山沿いに農地が広がっていて、20年前の姿を垣間見ることが出来る。
そののどかな杜王町西部を、ちりん、ちりんと、軽やかな風鈴の音が流れてくるのだ。どこから聞こえてくるのかはまったくわからない。遠くのような気がするし、近くのようでもある。住宅街から聞こえてくるような、農地の方から流れてくるような。音源は不思議とどこという印象を与えてこなかった。しかし、その隠されたような神秘さが、私にはわくわくとしてたまらなく好きだった。
川沿いのアパートから線路を越えてバイト先に来るまで、買い手を待ってぽつりぽつりと点在する住宅の間をオンボロの自転車で駆け抜けながら、時折聞こえるその澄んだ風鈴の音色を、私は密かな楽しみにしていた。
気分のいい時には、その気持を少しでも誰かと共有したくなって、
「いい音色ですねぇ」
としみじみと店長に話したこともあるのだが、何度言っても「ぼくには聞こえない」と返された。見た目は紳士的で中々にハンサムでも、店長もいい加減に歳なのだろうと、私は四度目の時、いかに心やすらぐ音かを伝える試みを諦めたのだった。
どこから聞こえてくるのだろうか。どういう人の家に吊るされているのだろうか。ぼんやりとそんな想像を膨らませていると、すっかり三番目の席の常連達も次第に気にならなくなり、ヘアバンドの男性も遂には何も言わなくなった。


それからひと月近くは経ったかもしれない。暫くの間は学業に加え大学祭の準備やサークル活動で慌ただしかったこともあって、風鈴のことも忘れていた。3日に一度は来ていたあの男性も、そういえば最近はめっきり見かけない。
その日は喫茶店も休みの日で、午前中に入っていた講義が教授の急な出張で休講になり、私はいきなり出来た暇を持て余していた。付き合ってくれそうな友人たちは、この日に限って皆ぎゅうぎゅうに講義とバイトを詰め込んでいる。
よく晴れた暖かい日だった。ずっと肌寒い気温が続いたので、久々の行楽日和に特に何をするでもなく、通学路を外れて周辺を散策したい気分になった。
自転車を引きながら川べりを歩いていると、午前の落ち着いた空気に、微かに聞き覚えのある音が交じる。風鈴の音だ。そういえば気になっていたのだということを私は思い出して、せっかくの余りある時間を謎の究明に費やすことに決めたのだった。
こんなに綺麗な音色の風鈴をぶら下げているのは、どんな家だろうか、と私は思った。この時期まで鳴らしているのだから、面倒臭がりな性格の人かもしれない。なんでも億劫がって、きっと庭の手入れも行き届いていないだろうし、服もまだ夏物が竿にかかっているかもしれない。玄関先は間口が狭くて靴がそこら中に散乱していたり、奥の庭からは雑草が飛び出しているような家かもしれない。
あるいは──
私はくすりと笑って、また別の光景を浮かべた。一人暮らしのおじいちゃんが、夏に娘夫婦が孫を連れて来た時に、孫のために風鈴をつけたものの、取り外せずにそのまま放置しているのかもしれない。困った顔をしながら、ちりんちりんという音に、そろそろ愛着を覚えてきているかもしれない。
色々なことが頭をよぎって、私は暫くその無限に湧いてくる風鈴の妄想に耽って歩いた。

ふと、土手の前で足を止めた。霊園から2qほど歩いた、静かな住宅街の一角だ。横手になだらかな坂道が見える。
一応上に登れるようになっているが先は松林で、人の往来はない。もう少し前の秋口に、たまに子供が松ぼっくりを拾いに来る程度だろう。
特に珍しいものがあると期待していたわけではないのに、妙にこちらを登りたくて仕方ない気持ちになっていた。下から覗くことの出来るふかふかとした針葉樹の枯葉のクッションは、木漏れ日を浴びて心地よさそうな色を湛えているし、木の特有の匂いが満ち、町中に比べてずっと澄んでいる。のどかな雰囲気につられて歩きたくなるのは仕方なかった。
音は土手と反対側から聞こえてきているような気がしたのだけれど、杜王町に2年近く住みながらも、この周辺には一度も来たことがなかったので、私は少し寄り道をしてから風鈴探しを再開しようと決めたのだった。
まさかこんな近隣で迷いはしないだろうと、さくさくと中へ足を踏み込む。真っ直ぐ、ただ真っ直ぐ進む。後ろから聞こえていた風鈴の音は、次第に枝葉のざわめきに遮られて微かになっていく。
そうして数分ほど歩く内に、明るい日が射す木々の間に、切り取られたような一帯が見えた。そこだけ木が生えておらず、ちょっとした空き地になっていて、ところどころに人為的な窪みが見受けられる。
どれくらい前なのかは分からないが、恐らく何代も以前は、ここに人家が建っていたのだろうと、景観を想像しながら改めて周囲を見渡した。
目が吸い寄せられた。土の一段下がったところ、堀の跡と思われる向こう側に、木陰に隠れるようにして苔に覆われた石井戸があった。近づいてみれば、どうやらつるべ井戸らしい。それらしい屋根もあり、ばらばらになってはいるが、桶らしきものもある。
井戸というともう殆ど見慣れなかったし、あっても転落事故を防ぐために鉄柵がしてあるのが普通だ。しかし視線の先では薄暗い穴が、虚空に向けてぱっくりと口を開いている。見たところ、何の手も加えられずそのまま放置されていた。
まだ井戸が盛んに使われていた時期でも、掃除の際には下へ降りたまま窒息死する人もよくいたのだと、小さい頃に祖父から聞いていたため、少なくとも私は井戸に対して不気味な印象を持っていた。でも、一度湧き出た好奇心には勝てなかった。怖いもの見たさというのも、あるのかもしれない。
私は近づいた者のごく自然な流れで、中を覗きこんでみようという軽い気持ちで屋根の中に踏み出した。

ビキッと、体に力が入る。ブレーキをかけるように、つま先が無意識に踏ん張っていた。
急に。急にだ。不安感が胸にせり上がってきた。理由はないが、なんとなく覗きこまない方がいいのではないかという考えが、唐突に頭に浮かんでくる。
しかし理由がなかった。危険だとか覗いてはならないという、はっきりした理由がなかった。
次の瞬間には勝手に体が動いていた。重くなった足を一歩踏み出す。むわりと鼻を刺激する異臭を感じた。一瞬怯みかけたものの、そっと中を覗き込む。真っ暗だ。何も見えない。ただ泥や硫黄のような腐敗臭が微かに漂っているだけだ。
なんだ。なぁんだ。
私は思いながら些か拍子抜けし、また何事もないと分かっていながらも妙な気持ちを抱いた自分に笑いそうになった。突然働いた勘は、きっと異臭に対してのものに違いないと思った。
深呼吸をする。気抜けした顔が息を吸い込むために上を向く。目が、そこへ吸い寄せられた。ギクリ。そんな擬音がふさわしい。心臓が嫌な音を立てた。
白い天井が目に入った。塗ってあるのではない。薄暗い井戸の屋根にびっしりと、札が張ってあったのだ。
私はいよいよ不気味な感覚を味わった。下から漂う異臭が濃くなる。頭上の枝がガサガサと音を立てた。ビクッと体を震わせて後ずさる。カラスが飛び立ったのだ。
気味が悪かった。行きは美しく感じられた松林が、どんよりと暗く隔絶された空間に見えてくる。いつの間にか、吸い込む空気もどこか重苦しい。
何がいるでもないのに井戸を何度も振り返り振り返り、次第に早足になって、私は一目散に土手の下まで戻った。

息せき切って林を抜けると、土手の下に男の人がいる。あの三番目の常連だ。
目が合うと、男性は「あ」という顔をしたが、気づいた様子を見せただけで別段挨拶をしようとも、また立ち去ろうという気配もない。私から目を逸らすと、ただ立ち止まって、のんびりと土手の方を眺めたり、住宅街へ目を向けたりしている。
私はそれでも少し安堵した。さっきのことで誰かの声を聞きたくて仕方なかったので、鬼門である三番目の席の常連だということも忘れて、声を掛けたくなった。
「どうも、何かお探しですか?」
男性は怪訝そうに横目で私を見た。何だこいつは?──もろに顔にそう書かれている。目は口ほどに物をいうと言うが、この人のは格別で、口よりも分かりやすいに違いない。
「ああ……」
男性は頷いたかと思うと、すぐさま首を振った。
「いや……ないね。正確には、君が分かる探しものはないかな」
私は一瞬、ほんの一瞬だけ、男性に話かけたことを後悔したが、土手の上での不気味な感覚がまだ体に残っていたので、無視されなかったことを素直に有難く受け取ることにした。
「あのぅ、」
なんとか会話を続けられないものかと次の言葉を探す。しかしいくら頭を引っ掻き回しても、拒絶される展開しか思い浮かばない。まだ声をかける私に、男性は鬱陶しげな目つきでジロリと睨んだ。
私は続々とせり上がってくる後悔を意地で押し戻しながら、その視線と目を合わせた時、そういえば風鈴のことを忘れていたのを唐突に思い出した。今はしんと静まり返って、どこからも風鈴の音がしない。
確かにこの周辺で聞いたはずなのだけれど、土手の先にはあの不気味な井戸しか見当たらず、住宅街へ入るとどちらの方角から鳴っているのかわからなくなる。近づいたと思った音は気のせいだったのだろうか。先ほどのこともあって化かされているような気分になり、それがまた私を気味の悪い思いにさせた。
「この辺りで風鈴を見かけませんでした?」
自分でも突拍子もない妙な質問だと思ったものの、聞かなければ気が済まなかった。
再び私を振り返った男性から、ぱちくりと、瞬く音が聞こえたような気がした。
「風鈴って……」
「風鈴です」
「あの?」
「はい、夏に縁側によくぶら下がってる、あの」
言って頷けば、男性はあの“何だこいつは?”という目を一層深めた後、素っ気なく「知らないね」と手を振った。
「ホームセンターにでも行けば置いてるんじゃないか? 安売りのやつがさ」
「ええと……」
一切の拒絶だ。もう沈黙が落ちる。延々と続く静けさのように思えた。男性は、じっと土手の方へ目を向けている。
「そっちには行かないほうがいいですよ」
まだいたのかというように、男性がちらりと私を見た。
「井戸があるだけでしたから」
言ってから、私は仕方なく塀に立てかけていた自転車を起こした。サドルに跨って男性を振り返るが、やはり立ち止まったままどこへ行く様子もない。
「またお店来てくださいね」
去り際に忘れずに社交辞令を述べてから、私はペダルをこいで走りだした。男性は背を向けたまま振り返らない。思った通り三番目の席の人は本当に碌なことがない。でも、十分に気は紛れていた。
ほんのりと暖かい日差しの下を、涼しい秋の風が吹き抜ける。ちりん、と風鈴の音が、後ろの方から聞こえた気がした。


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