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暗い監獄だった。
足音がよく響くため、看守と父親、そしてもう一人の青年の後ろを、無意識に忍び足でついて歩いた。息が詰まりそうだった。通路から空気が抜けて、薄くなっているような感覚にとらわれる。
幾つもの格子を通り過ぎて看守部屋を抜けると、今度はコンクリートに囲まれた通路へ案内される。そこは日中でも陰っているからか、薄暗く少し肌寒い。そう思うのは、私が緊張しているからかもしれなかった。前を歩く三人の足には、一寸の迷いもない。
更に奥まった場所にたどり着くと、全員がゆっくりと立ち止まった。三人の背中越しから、私は一つだけ広い牢屋があるのを見た。誰もいないように見えた。
「今年で幾つになったのかね?」
突然、男の声が響き渡った。首筋を舐められるような悪寒が、ぶるりと体を震わせた。通路を反響する、声の振動のせいかもしれなかった。
看守は男を監視するでもなく、「面会時間は10分だ」と私の前に立っていた青年に耳打ちをしてから、すぐに背を向けて、来たばかりの通路の入口へ戻っていった。
響く足音に重ねて、苦しげな深い息が牢屋の中から聞こえた。
「17ですが、もう少しで18に」
看守を見送った後、父が簡潔に答えると、男は少し満足そうに笑った。鼻に詰まったような声だった。
「ブチャラティ」
「はい」
と言って、青年が牢屋の前に進み出た。流れるような黒髪を顎まで切り揃えた、白スーツの青年だ。
いつの間にいたのか、牢屋の隅には太りきった巨体の男が、壁に埋まるようにしてもたれ掛かっている。青年の姿を認めると、
「苗字さんの一人娘だ。お前と同い年のようだ……懇意にするんだぞ、いいかね?」
と、やはり苦しげに言った。
青年が髪を揺らして私を振り向く。私は恐怖で上がりそうな息を押し殺すので必死だったが、青年は違っていた。嵐の海のようでいて、光をなびかせた深い青が、前髪の下に沈んでいた。


鍵待ち夜話

01


苗字という苗字を好きだと思っていたのは、5歳の頃までだ。田舎町に住んでいて、他の誰も持たない、自分にしかない響きが好きだった。
でもそれが私にとって喜ばしいことではないと気づいた時、父のことも知ってしまった。苗字と言えば私の住む界隈では知らないものがないというほど、不穏な噂の代名詞だったのだ。
父はギャングだった。小さな犯罪組織の幹部で、私の小さい頃には既に、アンダーボスに最も近い男と言われていたらしい。そのせいか、学校で私を邪険にする子供はいなかったけれど、私がひとたび輪から背を向ければ、途端に背中にひそひそと嫌な笑い声がかかった。鼻を摘んであからさまに避けられることさえあった。最初はそれを、母のいない家庭のせいなのだと思っていた。
しかし私のお気に入りだった苗字の響きからは、すぐにイタリア系ではないということがわかる。思春期に入る前には、漢字というものを教えられた。父の性格のように、複雑な文字だった。あまり好きだとは思えなかった。
クォーターだった自分の肌の色は、比較しても大して変わりはしないというのに、成長するにつれ私にはやはりどこか違っているように見え、少しでもその不安を消すために必死で肌を焼き、ソフィア・ローレンのような魅力的な小麦色に近づけようとした。この国で生まれたのに、僅かに癖の違う顔立ちも、部外者の証のように思えた。
その頃から次第に父の持つ“苗字”という苗字から連想されるすべてのものが、私には重たくのしかかり、蜘蛛の糸のように心にへばりついてしまっていた。
いや、とっくに糸から逃れる道なんて、私には用意されていなかったのかもしれない。父がアンダーボスになった時、ついに私の描いていた平穏は夢と変わっていた。
“苗字”という、その苗字ひとつだけで。


ごめんください、とかかった声に、ガクを剥いていたアーティチョークをまな板に置いて、エプロンで手を拭きながら私は戸口へ急いだ。
気持ちのいい日和だった。透明な空から降りてくる緩やかな風が肌を撫でれば、ついうとうととしてソファーに体を丸めてしまいたくなる。
そんな午後の日差しの中を泳いで玄関に向かうと、風が通るように開け放したドアの外では、アロルドというパッショーネの伝令役が手持ち無沙汰に立っていた。週に三日ほど、忙しい時は殆ど毎日顔を出す。本職もここいら辺を担当する、郵便配達員だ。
4年前に勤めだしてから頻繁に構成員の間の連絡を受け持っているのに、勤勉な性格だからか、一度も関連性を疑われたことがないのだという。
茶髪を短く切った細面で長身の青年は、私が見てもギャングらしくない穏やかな顔をしていて、ボスでさえアロルドか前に立てば、善良な市民だと騙されてしまうかもしれないと思ったこともある。
私の姿を認めるなり「ボナセーラ」とかけられた声に、網戸を開けて私も「ボナセーラ」と返した。
「支度中でしたか。今日は何を?」
普通の書簡と組織の手紙を差し出しながら、アロルドは私のエプロン姿に人懐っこく尋ねた。鼻をスンスンと鳴らして、冗談っぽく台所の方へ顔を泳がせている。
私はその様子に笑って、「アーティチョークのフリットにしようかと思って」と、エプロンのポケットに紛れ込んでいた、厚みのあるガクを摘んで掲げた。
「もうそんな時期かぁ」
アロルドは感慨を込めて言うと、「式はいつ挙げるんです? あと少しでしょう?」と目尻に皺を寄せて私へ笑いかけた。
「ブチャラティなら頭から爪先まで、君のためにオーダーメイドのものを揃えそうだ」
そう言って興奮気味に話す目の前の彼は、来たる日のために既に祝福の言葉を用意している様子だった。
「気が早いわ、まだまだ先の話よ」
笑顔で答えるけれど私の胸は、春のうららかな日差しを受けても、凍りついたように冷たい風が吹き抜けていった気がした。

ブチャラティとは、父の組織を傘下においたネアポリスの組織、パッショーネの構成員だ。齢19にしてチームを任され、港を仕切る幹部のポルポの後任とさえ囁かれている。
名前を知ったのは、父が私をポルポの元へ連れて行った後のことだった。父のいる組織が吸収された2年前のことだ。
「ブローノ」
刑務所を出るなり、機械的な調子で青年が言った。落ち着いたテノールは誰に言っていたのか分からず、私は初めてかけられた彼の言葉を逃してしまった。
私がおずおずと青年を見上げると、立ち止まった青年は、私がポルポにすっかり怯えていたのを感じ取ったのか、努めて穏やかな物腰で私へ向き直った。
「俺の名前だ。ブローノ・ブチャラティという。どちらも気に入っているから、好きに呼んで構わない」
ポルポに“懇意にしろ”と言われたのを、青年は忠実に守ろうとしていたのだろう。
優しげな声色だったが、ブチャラティの放つ雰囲気は、少し苛立っているように思えた。つまらなそうだ、とも思った。その様子で、とてもじゃないけれど私には、“ブローノ”と気軽に呼ぼうなどという気にはなれなかった。
たとえ同い年だったとしても、彼の顔つきは組織によって洗練されていて、到底同世代のようなぼんやりしたお坊ちゃん顔ではなかったし、どれだけ付きあおうと、これから先も学友のようには接しては行けないだろう。私は即座に、そう感じ取ったのだった。
一つの小さな組織のアンダーボスから変わり、パッショーネの幹部を約束された父の表情は、この青年と仲良くすることを私へ強要していた。祖父から受け継いだのだろう。眠るような重たい東洋系の眼が、視線でマリオネットを動かすように注がれる。
「それじゃあ、ブチャラティと……」
私は青年をそう呼ぶことに決めた。私が決めたのだと、思い込んだ。
ブチャラティは私の名前を聞かなかった。父から聞いていたのだろうけれど、あるいは聞く必要がないと思ったのかもしれない。彼はこの2年間、人に紹介する時以外一度も、私の名を呼んだことはない。
その時既に私は、か細い声を出しながら、彼が気に入らないのは私なのではないかと薄々感じていたのだった。

「それじゃあ帰って来たら、こいつを君のフィアンセによろしく頼むよ」
アロルドは僅かに呆然としていた私の目を覚ますように腕を軽く叩くと、戸口の低い階段を降り、開けっ放しだった門を抜けて振り返った。
「それと、差し入れはいつでも大歓迎だ!」
と、私の持つアーティチョークを指さして笑った後、一度空を見上げてから日差しの暑さに目を細め、路地の陰の中へ逃げこむように走り去っていった。
私は呆れて笑いを零すしかなかった。年上だというのに、誠実だがどこか落ち着きがなく、嵐のような配達員だった。ブチャラティとは大違いだと思った。あの人は、無邪気に笑ったりなんてしない。
笑わないわけじゃないのだ。ただ一緒に暮らすことになっても、私の前でも自己を抑えたような、薄っすらとした笑みを浮かべているだけだった。誰に対してでもそうだった。
歳相応の顔なんて、私は見たことがない。誰もが見たことのある顔でしか、私はブチャラティという人を知らない。フィアンセと、誰もがそう呼ぶというのに。


婚約を受けたのは、出会ってすぐだ。私の意思でも、勿論ブチャラティの意思でもない。パッショーネと父の組織の意向だ。
父はアンダーボスではあったが、ボスはもう何年も刑務所に入っていたために、実質的に組織を動かしていたのは私の父だった。
小さい組織とはいえ、そこら辺のゴロツキとは違う。曲がりなりにも構成員を持って機能している団体なのだ。パッショーネの傘下に入るためには、内部抗争を防ぐ、確実な証が必要になった。年頃だった私がその証に選ばれるのは、火を見るよりも明らかだった。
ブチャラティはその時には既にパッショーネの有力な株で、偏屈で猜疑心の塊のようなポルポにさえ気に入られている、若手のトップだった。若すぎる、とは誰も口にしなかった。黙々と組織に尽くすブチャラティの実力が、構成員の口を黙らせていたのだ。パッショーネの誰もがいずれ幹部にはブチャラティがなるかもしれないと考え、組織に最も身を捧げていく男だと疑わなかった。
ブチャラティは、父の組織への忠誠の証を受け取るのに十分な存在だった。適任と判断されたために、組織を結ぶ重要な役割を任された。二つの組織が最も信頼する人材を差し出すことで、和睦は成立したのだ。
私は“苗字”の苗字を持っていたがために、組織の人質として、ブチャラティと結婚しなければならなくなった。私のことを少しも好いていない、“苗字の娘”としか認識していない男の元へ。
父親がギャングだったというだけで、汚れた仕事とは無縁に生きてきた私には、この人生はあまりにも過酷だった。
私たちは恋人でもなく、パートナーでもない。和睦の使者であり、血の奴隷だった。

いずれブチャラティという青年と結婚しなければならないと知った時、私は部屋に篭って年甲斐もなく大声でわんわんと泣いた。
もう少しで卒業だというのに、学校にも行く気にはなれなかった。父はそんな私を自由にしていた。婚約から逃げなければ、何でも好きにさせておこうとでも思ったのかもしれない。
青年を思い出すたびに、あの刑務所の冷たいコンクリートの床とじめじめとこもった空気が体を覆い尽くすように纏わり付き、身動きが取れないよう、私の心までをも絡め取った。幹部の男の苦しげな吐息と声が、頭を痛いほどに反響した。
嫌だった。知らない青年と結婚するのは嫌だった。どんな人間かも分からない。何をして来たのかも、どんな生き方をして来たかも、何の料理が好きで、どんな歌をよく聴くのかさえもだ。
私の好きなペンネグラタンは彼の好みではないかもしれないし、毎日聴いている歌手も彼には耳障りかもしれない。趣味も癖も合わないことを、不快に思って邪険にされるかもしれない。
それに私はまだ18だ。あんまりにも早すぎる。恋愛だってしたいし、何年も婚約して互いを理解してから結婚したい。
ただでさえこの国は結婚に厳しいのだ。普通だって、離婚したいと言ったからといって簡単には別れられないというのに、彼と私の結婚はカトリック教会ではなく、もっと残酷な十字架を背負ったパッショーネの鐘の音で結ばれる。籍を入れてしまえば、どんなに苦しい日々が続こうと、死ぬまで離れることはできなくなるだろう。
結婚は、私の人生の唯一の救いだった。別にドラマチックじゃなくたって良かった。自然な出会いに惹かれ合い、互いに一生を委ねられる人と歩んで行けば、組織から離れていけると思っていた。
夢だったのだ。他の何を捨てても叶えたい、現実的で切実な、唯一の夢だったのだ。

初めて好きな人が出来た日のことを忘れもしない。ばっちりと綺麗な小麦に焼いていた私の肌はこの国のどこを歩いても恥ずかしくなく、東洋の交じる顔立ちさえも隠せる。その頃の私は少しだけ、自分への自信を取り戻していた。
試験の出来が芳しくなく、補修を受けることになったのがきっかけだった。彼とは別のクラスだったので、名前も顔も知らなかった。
列を一つ空けた私の後方に座っていて、私が人数を確認するために教室を見回していると目が合い、嬉しそうに笑って片手を上げた。笑顔が素敵だったので、私は照れくさくなってはにかんだように思う。
次の日の補修に出ると、彼は私を見つけるなり表情を緩ませて近づいて、「名前だろ?」と言った。私が驚いて聞き返すと、「昨日先生が呼んでた」とやはり無邪気な笑顔を浮かべて、自然に私の隣へ腰を下ろした。決して美形ではなかったが、白い歯が綺麗だと思った。
「黒髪と肌がとても綺麗だ」
と言われた時、私の胸に沈殿していた不安が一気に蒸発していった感覚は、今でも思い出せる。私は代わりに彼の笑顔と歯を褒めた。
話せば話すほど胸が燃えるように熱くなって、好きになるのは時間の問題だった。幸運だったのは、彼も私を好いてくれたことだった。

付き合いだした時にはすでに“苗字”について彼は知っていただろうけれど、父親のことは決して私からは口に出さなかったし、父にも彼のことを話したくはなかったので、父がいるうちには家には一度も呼んだことがなかった。
彼を組織と繋がらせるのだけは絶対に嫌だったからだ。私が話題を避けていることを感じて、彼も気を遣っていた。
友人たちはデートとなれば互いの家に相手を呼んでは、家族と一緒に語らいながら食事をとっていた。私も勿論家に招待はしたが、父のいない時間帯ばかりを選んだので、時間を気にしながら二人っきりの簡素な食事になった。どこかあたたかさの欠けたデートになった。
そんな状態で私ばかりが彼の家に何度も行けるはずがない。私は彼の誘いを断るようになった。凡そ一般的な付き合い方とは、私たちは明らかに違っていたのだ。
付き合いだして半年も経った頃、先に音を上げたのは彼だった。
「君のことは好きだ」
と彼は言った。
「でもこのまま付き合うのは不自然だ……僕と君だけで生きているわけじゃない」
確かにもっともだと思った。家族を隠して、互いに目を背けるために気を使っていては、一緒にいても落ち着ける暇なんてない。ずっとそうして付き合っていくわけにも行かない。
「友達でいよう。その方がいい」
彼の言葉に私は頷いた。あんなに好きだと思っていたのに、意外にも私の首はすんなりと縦に頷けてしまった。たった半年の間で、恋心が萎んでしまうほどに疲れきっていたのだ。
彼は私が受け入れると、ほっとしたような顔を隠さなかった。皮肉にもそこには、私が胸を焦がすほどに惚れた笑顔が僅かに滲んでいた。彼もまた私と同じように、この関係に疲弊していたのだった。
絶望感はなかった。失意だけが私の体を弛緩させていた。
“きっと”でも“多分”でもない。“絶対”に、私は一生、望むような恋愛はできそうにない。彼との付き合いは、私の眼前にその事実をはっきりと突きつけた。
夢だった。別にドラマチックじゃなくたっていい。自然な出会いに惹かれ合い、互いに一生を委ねられる人と歩んで、組織から離れて行きたかった。それだけだったのに、やはりそれは夢でしかなかった。
それを私の心の奥深くにまで刻み込んだのは、父でも彼でもなく、ブチャラティだった。

刑務所を出た後にブチャラティが私に見せた冷たい雰囲気は、私に暗い現実を突きつけるには最も効果的だった。手を血に染めてきても平然と食卓のフォークを取れる男と、どうやって愛して行けばいいのか私には分からなかった。
ブチャラティとは、父のような血のつながりもない。青年は赤の他人だ。出世のために私という荷物を背負わされたようなものだ。理由もなく、無条件で愛してくれなどしない。私が夢に描いたような愛を持った人は、彼の中にいない。
それが、私をひどく苦しませた。


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