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「疲れましたねぇ」
ぼくの目的をようやく果たせた頃、暑さに音を上げた名前さんに合わせて、仕方なく近くのベンチに腰を下ろした。これではどちらに付き合っているのかわかったもんじゃない。
「まだ半分しか歩いてないじゃないか」
言いながら、手持ち無沙汰に風景写真を撮っていると、「意外と体力あるんですね、露伴先生…」と疲れを滲ませた声が返って来た。それは恐らく、名前さんの体力がないだけに違いないのだが、ぼくは敢えて何も言わない方向で行くことにした。
ゆっくりと辺りを見回す。地面に水彩絵の具を広げながら、木に寄りかかって写生をする子供の姿が気に入った。被写体との距離を測りながら、ベンチに座ったままの体を反らせる。背中に当たった何かがビクリと揺れた。何か、と言っても、背後には名前さんしかいない。
食堂を出て日照りの中を歩く内に、ぼくの中には再び余裕が戻ってきていた。洋々たる海原もかくやと、広がる穏やかな心に湧き上がるのは、いつもの好奇心だ。
「おぉーっと、ごめんよ」
にやけながら、カメラを構えた体勢でわざとらしく体を後ろへ傾けると、名前さんに背中が当たる。
是非とも彼女の反応を楽しもうかと、ベンチに手をついて振り返った。飛び込んできた彼女は、驚くように目を見開いた後、遅れて真っ赤に染まっていった。手のひらに柔らかい感触がする。ベンチに置かれていた彼女の手に、重ねてしまっていたらしい。
「わ、私こそすみません…!」
明らかに演技っぽいトーンだったというのに、名前さんはすっかり慌てふためいて気づく様子はない。そうだ。こうでなくちゃあならない。ぼくと彼女というのは、これがベストなのだ。
ベンチを立ち上がって荷物を落とした彼女に、愉快なあまり、ぼくは偶然を装っていたことも忘れて吹き出しそうになる。

それからというもの、園内の残りのエリアを歩く間も、名前さんの視線は頻繁にぼくに注がれるようになった。隣をしずしずと歩きながら、檻の中の動物へカメラを向けているかと思えば、時折ぼくの手を眺めては顔を赤らめている。これには随分前から気づいていた。
しかし今では、はっきりとした原因がある。“彼女”の本を捲ればすぐに分かることだが、最新のページに、ぼくの筆跡で一文付け加えられているからだ。
岸辺露伴に触れたくなる──
一応、言っておく。康一君への義理があるので弁解をしておけば、これは苗字名前が望んだことだ。それをぼくが許可する形で手助けをした。それだけだった。別段、スタンドを悪用したということにはならないだろう。
彼女のために一役買ってやろう、とぼくは思ったのだ。
名前さんの視線が注がれるたびに、ぼくの手に何かあるのだろうかとしげしげと眺めてみたりもしたが、ベンチでの出来事でようやく分かった。
だからこそ、これは彼女のためだ。楽しいことになりそうだと、胸がうずうずとしてざわめく。
そうして書き込んでからは、彼女の行動は顕著になった。一定の距離を置いていたはずが、いつもぼくの側に立っては、もどかしそうに手をあちらこちらに移動させているのだ。目が合うと愛想笑いはおろか、焦った表情であからさまに背けるので、おかしいと言ったらない。
不意に、構えていたカメラを下ろしたぼくの手に、冷たい感触があった。名前さんが伸ばした指が、触れたようだった。
「あっ……ご、ごめんなさい」
自分から触れたというのに、名前さんはぎょっとした顔をしていた。彼女自身、実行してしまったことに戸惑っているのだろう。
ぼくはわざとらしく首を傾げて、触れたことすら気づいていなかったという風に、知らんふりをしてみせた。すると名前さんは、安心したような、残念そうな様子で、小さなため息を付いた。

歩くごとに、彼女とぼくの距離はどんどん縮んでいく。至近距離と言っても、過言ではないほどだ。
広い園内をぐるりと回った頃には、とうとうべたっと離れなくなって、流石のぼくも素知らぬふりを出来なくなっていた。
だらしなく寝そべるカンガルーを眺めていた視線を、左腕に沿って下げる。触れるか触れないかのところで、名前さんが体を抱き込むようにして自分に腕を回し、堪えるようにじっと佇んでいた。
「そんなにくっついたら歩きづらいだろ」
と煩わしそうに言わざるを得ない。
「そ、そうなんですけど…でも…なんか…」
彼女は俯き加減に呟いた。続けられた声は、蚊の鳴くようにか細く、耳を澄まさなければ聞き取れない。
「急に、離れたくなくなって……」
ぞわりとした。困惑しながらも小さな声で恥ずかしそうに呟いた名前さんに、ぼくは背中を何かが駆け抜けていくのを感じた。限界だ。唐突に、頭にそんな言葉が浮かんだ。
「……いいさ」
彼女はまだ、ぼくに触れることを迷っている。ぼくが増長させるように書き入れた自分の欲求と、必死で戦っている。何度もぼくへ手を伸ばそうとしては、叱られた子供みたいに眉を下げて、真っ赤になって手を戻す彼女を見ていると、ここが潮時だと思えてくる。
「名前さん」
名前を呼んだ時には、彼女の顔ときたら泣きそうになってしまっていた。

何度も言うが、苗字名前は演技が下手だ。今回のことは、それだって原因なのだ。一々反応するのが行けない。あんな面白いものを見たら、誰だってからかいたくなってしまうだろう。
いつの間に、時間が経っていたのだろう。ポールの上に取り付けられたスピーカーから、閉園の音楽が鳴っている。道行く波は、どれも同じ方角へ流れて行っている。
さっさと行こう、とぼくは言った。頭を俯かせていた名前さんが、ゆるりと顔を上げる。
「次が最後のバスだぞ」
出来るだけ抑揚を付けずに言ってから、攫うようにして、名前さんの手を掴んだ。しっとりと汗ばんでいるのに冷たく、それでいて吸い付くような手だった。ぼくは来た時と同様に、足早に入園口へ向かった。名前さんは動揺して何やら呟やいているが、言葉になっていないので、少しも聞き取れやしない。


列を作るバス停に並んで、時間まで待った。園内では家族連ればかりだったが、並んでいるのは子供同士であったり、カップルや夫婦が多い。ぼくと名前さんは、その中に紛れ込むようにして、手をつないで立っていた。
隣に立つ彼女を見やる。数時間前まであれほどうるさかった彼女は、ぷつりと口を閉ざし、寡黙になってしまっている。
駅で魔法を解いてやろう、とぼくは心に決めた。罪悪感。康一君ならぼくの行動の起因をそう判断しそうだけれど、決してそのためではない。
そうしたら彼女はどんな顔をするだろうか、と思っただけだ。きっと思い出して慌てふためく姿が見れるに違いない。理由をつけて逃げ出すかもしれない。それもいいだろう。どうせ、来週になれば嫌でも顔を合わせるのだ。しかしそれでも逃げる可能性があるなら、保険に彼女へ「毎日出勤」とでも書いておいてやろうか。

本数の少ない杜王駅前行きの表示が、道路からひょっこりと頭を出した。藍染を広げたような青空を背にしたバスが、ゆっくりと坂道を登ってくる。名前さんはぼくの腕に遠慮がちに手を添えながら、握られたもう片方の手を落ち着かなく見つめている。
「ほら、来たぞ」
その手を解いてバスを示すと、名前さんは慌ててぼくの手を追いかけて自分から掴んだ。はっとした顔が触れ合った手と手を見つめてみるみる内に赤らんで行く。
ぼくはにやけるのを抑えられなかった。
閉園時間になっても、夏の日暮れはまだ遠い。昼に比べて弱まったとはいえ、強い日差しはアスファルトに向かって、休むことなく降り注いでいる。園内からか、もしくは市内の街路樹からなのか、微かに蝉の声が耳に届いている。
「暑いな…」
言って彼女が掴んでいない、反対の手で汗を拭う。
「本当ですね」
消え入りそうな声で言うと、澄み切った空に向かって、真っ赤な名前さんが眩しそうに顔を上げた。
どうぞ。そんな声がして下へ顔を向けた。名前さんが花の刺繍が施されたガーゼハンカチを、ぼくへ差し出していた。食堂に入る前にも、彼女はこんな風にぼくを見ていたことを思い出す。もしかしたらずっと、気になっていたのかもしれない。
「よかったら汗、拭いてください」
「あ、ああ…すまない」
言って、そっと額に押し当てる。彼女と一緒にゾウを撮影した時と、同じ匂いが鼻孔をくすぐる。
「暑いですね」
ぼくの手に、じんわりと汗が滲んだ。腕に添えられた名前さんの手から、熱がのぼってくる。呟くような彼女の声は、遠くでじわじわと鳴く蝉の声に溶けていくようだ。
坂を登り切ったバスは、錆のついた車体を震わせ、アスファルトの熱気でゆらゆらと揺れながら、こちらへゆっくりと向かってくる。帽子の下で汗の粒を浮かべながらも名前さんは、ぼくの手を離そうとはしない。握り合った手に、僅かに力を込めてみた。
「暑いな…」
もう一度呟いて、ぼくはバスが停車するまで、彼女の匂いのするハンカチを額に当てていた。


|終
12/12/30 短編
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