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22時には鐘が鳴る



さわやかな風だった。台所の換気にと開けた窓から、岸辺邸の広い裏庭が一望できる。
こまめに手入れしているのだろうか。整然と形よく刈られた緑一面の敷地には、初夏の明るい日が差して、点々と顔を出す花の色を淡くさせている。芝生へ伸びるテラスの柱の影が風が吹くたびに涼しげにゆらゆらと揺れて、そよぐ音が聞こえるとまな板を前に私も清々しい気持ちになる。

岸辺露伴のアルバイトはとても捗っていた。あれ以来露伴先生の妨害もなく、坦々と時は過ぎていった。私の貯金は着々と溜まっていくし、勉強をする時間もたっぷり取れる。これ以上ありがたいことはない。
拝むように手をこすり合わせて仕事の準備に取り掛かっていると、いつもは作業部屋で原稿に向き合っている露伴先生が、珍しく台所に顔を出した。
「やあ」
私の方をちらりとも見ず、一言そう言って黙々とテラスに歩いて行く。手には園芸用のスコップをぶら下げていたので、花の手入れでもするのだろう。
てっきり庭師を頼んでいるのだと思っていたので、驚いて返事をするのも忘れてしまった。この広い庭を、こつこつと仕事の合間に一人で作り上げたのだろうか。花壇の前にしゃがみこんで、あの背中を丸めてえっさえっさと雑草をとっている所を想像すると、とても微笑ましい。
少し意外に思って暫くぼーっと露伴先生の背中を眺めていた。でも網戸を開ける音にはっとして、私は慌てて声を掛けた。
「あっ、露伴先生、今日のご飯は何がいいですか?」
「食べられるものを出してくれ」
いつ食べられないものを出したというのか!──思ったものの、いつもこういうわけでもないので、この憎たらしい回答は今日の気分なのだろう。
だったら岸辺露伴の舌が“食べられるもの”を、精一杯作ってやろうじゃないか。
「ふふっ」
思わず笑い声を漏らすと、庭用のサンダルを履いていた露伴先生が不思議そう、というよりも訝しげな顔で私を一瞥した。

露伴先生におちょくられて時計を紛失した罪をなすりつけられてからというもの、一番変わったのは私だろうと思う。あれほど嫌だった岸辺露伴の偏屈な性格が、どうにも可愛らしく見えて仕方なくなってしまったのだ。
減らず口と憎まれ口のダブルパンチには苛立ちを抑えられないと思うこともあるが、それも先生の癖の前では愛おしさに変わってしまうのだ。
そう、露伴先生は子供っぽかった。ついこの間までねじ曲がっていやらしいと思えていた性格が、急に純粋で裏表のないまっさらなものに見えてきたのだ。どんな魔法を使えばそうなるのか、私自身にもよく分からない。
近々天変地異が起こるかもしれないと冗談に思ってみたけれど、もしこのことを康一に言ったのなら、私よりもひどい例えを出してきたかもしれないだろう。
露伴先生の少年のようなあどけなさを含んだいたずら顔は、特に私の心をかき立てた。いたずらっぽくニヤーッと笑う顔は、それはもう可愛くて仕方ないのだ。母性をくすぐられるようで、構ってあげたくなってしまう。
こんなことが知れれば、露伴先生の咬み殺さんばかりの睨み顔が待っているので到底口に出すことは出来ないが、とにかく私はあの日から露伴先生の挙動が一々可愛く見えてしまって、ほとほと困り果てていた。
まったくそうは見えないかもしれないけれど、困っていたのだ。それは露伴先生のいたずらに憤っていた過去の私が、今の私に抵抗しているからかもしれない。岸辺露伴の仕打ちを忘れたのか!と。
しかし、露伴先生の好奇心からくる突飛な言動に触れるたびに自然ににやけてしまう口は、思ったところで収まりようもない。万一見られでもしたら、岸辺露伴ときたら先程のように自分の奇行を棚に上げて見下げる態度を取ってくるのだから、彼よりも常識人という自信と安らかな心を保つためにも、私のにやけはどうにかして治さなければ困ってしまうのだ。

千切りにした野菜をフライパンで煮込みながら、ふと窓の向こうを見た。露伴先生がスコップで花壇の土を掘り返している。新しく苗を植える様子もない。
何をしているのかと興味がわいて見守っていると、露伴先生は肘の手前まで入る深さに掘るなり、おもむろに手を突っ込んで何かを探すように手をかき回し始めた。
あまりに真面目な顔で、芝生に這いつくばりながら穴に手を入れているので、私も段々に気になってくる。野菜が煮えるまで時間があったので、「露伴先生!」と尋ねてみることにした。
「何してらっしゃるんですかー!」
手拭きで手の水を拭って台所からテラスに向かって叫んでみる。一心不乱にかき混ぜていた手を休めて、露伴先生は少し鬱陶しそうに私を見てから、土だらけの手で顔を拭いた。
「ミミズを探しているんだ。後でまな板を持ってきてくれ」
「み……っ」
土まみれの真顔に、何をするんですか?とは到底聞けなかった。何に使うんですか、とも。聞けるわけがない。今時小学生でもこんなことをするだろうか。
考えこみそうになる頭を無理やり庭から外すと、私の目の前にはまな板が鎮座している。あと少しで何か良からぬことに使われる運命を背負った、岸辺家のまな板だ。
露伴先生はこのまな板でミミズに何やらした後、はたして毎日このまな板の上で切った食材を食べて過ごすのだろうか。先生が食べるものだから私は別段気にはしないけれど、あまり想像はしたくない。
でもやっぱり、胸がうずうずとした。顔をひきつらせながらも、私の半分は、露伴先生の好奇心に可愛さを感じている。日に日にそれは募るばかりで、露伴先生にどんな悪態をつかれようと止めようもなくなっていた。

それに拍車をかけているものもある。
いたずらと好奇心の塊のような露伴先生だけど、彼にも弱点はあった。それがまた私の心をくすぐるのだ。
高慢でワガママな先生の弱味を握ったと思うと、少しでも怯む顔が見れるんじゃないかと浮き立ってしまう。露伴先生が人をおちょくるのも、そのせいかもしれないと何となく分かってしまったのが悔しい。
弱点というのも、露伴先生はあまりウリ科のものが好きではないらしい。食べようとすれば何でもぺろりと平らげるが、何せ気分屋だからその時々によって食べることもあれば残すこともある。それをどうにかして食べさせようと試行錯誤しているのが、私のもっぱらの仕事だった。

どこから仕入れてきたのか、冷蔵庫を大量のきゅうりが占めていた時は、きゅうり漬けからきゅうりのサラダ、きゅうりの煮付け、きゅうりのちらし寿司、きゅうり乗せの中華そば、きゅうりのサンドイッチなどもう何から何まできゅうり三昧にして、露伴先生をげんなりさせた。
「ぼくはウリ科の臭いが嫌いなんだよな」
きゅうり生活3日目にして早くも箸を置いた露伴先生の顔と言ったら、まるで親にゲームを取られた子供のようだった。
「日が経てば経つほど、カメムシみたいな臭いがするだろ?」
「冷蔵庫いっぱいにきゅうりが入ってるんだから仕方ないじゃないですか。そんなに嫌ならご近所に分けたらどうですか」
岸辺露伴という人は、余程人付き合いが嫌いならしい。私の言葉に頷くのに、たっぷりとその日の勤務時間をかけた。私が内心ほくそ笑んで明日のきゅうりの献立を考えながら掃除を終えた時にようやく、のそのそと仕事部屋から顔を出して、
「今日は買い物をしてくる…きゅうりは向かえの家にでも押し付けるよ」
と渋々冷蔵庫を漁り始めたので、私はその萎んだ背中にひっそりと笑みを漏らしてしまった。

騙されているなぁ、と思わないでもない。露伴先生は康一が言う通りの「変人」でその上、他人が嫌がることをして悔しがる姿を見て愉悦に浸るような、どうしようもない性格を持ち合わせているのだ。自分に正直と言えば聞こえばいいが、単なるワガママ人間でもあった。
「名前さん!バケツを持ってきてくれ!早く!」
庭から聞こえる声にうんざりした顔で振り向くものの、心ではしょうもない子供の遊びに付き合っているようで、少しだけわくわくしている。もしかすると、一番どうしようもないのは私なのかもしれなかった。
「バケツって……まさかミミズを入れるんですか?!」
「他に何があるんだ。早くしてくれ!小さいのでいい!」
掘った穴に腕を突っ込みながら、もう片方の手を必死に振って私を呼ぶ姿は本当に少年のようだ。頬についた黒土に、にやっと笑いそうになるのを抑えて、私はシンクの下からバケツを取り出してテラスへと急いだ。


病気だ。康一の顔を見るたびにそう思う。康一を見るにつけ露伴先生を思い浮かべてしまって、パブロフの犬のような条件反射に自分でも呆れ返る。
スーパーに寄って夕飯の買い物をした帰り道、ばったりと帰宅途中の康一と出くわした。
「……げっ!」
「げっ、とは何よ、げっ、とは」
これが康一の条件反射になりつつあるのだろう。
露伴先生の家事代行バイトを引き受けてから、すっかり私を避けるようになった康一とは、何だかんだ近所なので顔を合わせる。それでも出来るだけ私の追求から逃れようとするのだから、本心から露伴先生と私の間に立ちたくないと思っているのだろう。
特に部活にも入らず帰宅部生活をエンジョイしているらしい康一は、そのお陰で私と頻繁に出会ってしまっている。どんなに友人とつるんでいようと夜遊びはせず、必ず夕飯までには帰る優等生っぷりが、私に愚痴の機会を与えてくれているというわけなのだ。
「や、やぁ〜久しぶりだね名前…」
「何で逃げ腰になるのよ」
笑いを零しながら、私は黙って康一の先を歩いた。恐らく一歩後ろでは、露伴先生のことを尋ねるべきかどうか迷っているのだろう。いっちょ前に自分が引きあわせた責任を感じているところが、康一の好かれるところであって、損な性格だった。
「あのね、康一……」
私の手にぶら下げた買い物袋からは、大きな大根とネギが飛び出している。揺らすつもりはなくても、袋は歩くだけで前後に大きく揺れた。
露伴先生が可愛くて仕方ない──そう言ったら康一はどんな顔をするだろうか。冷や汗を流しながら「い……今なんて…?」と聞き返す姿が想像できる。今まで文句ばかり言っていた私の口からそんな言葉が出たら、十中八九面白い反応をしてくれることだろう。
言いたくてたまらなかった。でも康一と露伴先生は情報を共有し合っているようで、要らないことまで筒抜けになっている。今までも何度か話してみようという気になったけれど、露伴先生に伝わってしまう可能性があるなら我慢しようと、うずうずした気持ちを抱えて帰路につく毎日だった。
康一とは特に朝によく顔を合わせる。寝ぼけ眼でポストへ新聞を取りに行く私を、呆れたように横目で見ながら通り過ぎるあの顔にさえ、露伴先生のことを話したくてニヤァ…と笑ってしまうのだから、バイトを始めてから露伴先生のことでこってり絞っていたのもあって、康一がますます寄り付かなくなるのは当たり前のことだった。
「な、何?」
私の詰問か愚痴が始まるのかと、康一はギクッとしたようだった。前に伸びる影で、肩が縮んだのがわかる。その様子に私は少しだけ反省をした。
康一に話しかけたものの、何も話題を考えていなかった。ゆらゆら揺れる袋の影を目で追っていると、ぼんやりと露伴先生のことを思い出す。
「きゅうりってカメムシの臭いなんかしないよね?」
「……ハイ?」
康一が首を傾げた。
「きゅうりが嫌いだって人がいてさぁ」
「や、やめてよ〜、ぼく昨日知り合いからきゅうりを大量に貰ったばっかりなんだから」
そう言ってホッとしたように笑う康一に私も頷きながら笑った。そうだ。そうそう。こういう反応。私のここ最近の日常には、こういう和やかさが足りなかったのだ。
思って息をついた時、不意に、露伴先生の渋い顔が浮かんだ。嫌な想像と一緒に。もしかして。カメムシ、食べたのだろうか。
緩ませていた頬が、ヒクっと引きつった。まっさか〜!と思ったけど、露伴先生ならやりかねない。康一の話を聞けば聞くほど、露伴先生にあり得ないなんてことはない、とさえ思えてくる。
そしてもし露伴先生が、あの向こう見ずな好奇心でトラウマになっていたというのなら、とんでもなく滑稽で、とんでもなく情けない話だ。
「……名前…さん…?」
いつの間にか顔を背けて、肩を震わせて笑っていた私に、康一の怪訝な声がそっとかけられた。いつか完全に避けられるのも、時間の問題かもしれない。
でも笑ってしまわなければ、収まるどころかどんどん増長していくこの愛おしさを、一体どこへ向ければいいというのだろうか。


こんな状態の私が勉強に集中できたかというと、答えるまでもない。夕食も終え、入浴も済ませ、後は寝るまでの時間が残るのみとなってから、当の私といえば妙に浮き足立って何も手に付かない。パラパラ漫画を捲るようにテキストを弄ぶだけになっていた。
そうなれば、もう時間なんてあって無いようなものだ。資格試験用にと意気込んで新しく買ったマーカーもシャープペンシルも放り投げて、しっとりとした日本の夏の夜に繰り出している。勉学に励むものには、気分転換という便利な味方がついているので、特に罪悪感もないまま時間を浪費することが出来るのだ。
ぼんやりとした街灯に導かれるまま、私はふらふらと住宅街を抜けてOWSONへ立ち寄った。外壁の青白い蛍光灯で虫が跳ねる夜特有の音を過ぎれば、眩しすぎる店内の光に迎えられる。そのまま雑誌コーナーに向かい、夜勤でまったりしている店員さんを尻目に、料理雑誌をパラパラと捲った。


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