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難しくて、到底伝えられない。きっと、自分ですらわからない。


HE CAN'T BECOME A HERO ― 三沢大地



極たまに、唐突に寂しさが込み上げる瞬間がある。原因は全くわからない。毎日同じサイクルで学園生活を送っているはずだが、帰り支度を整えて教室を出ると、ふと胸の周りを言い表しようのない虚しさが漂う時があった。
翔に聞いてみると、
「ああ、僕も時々あるけど、あれはなんなんだろうね」
とケロッとして言うので、それ程深刻に考えるものでもないかと忘れかけていたが、いざその感情が現れると、どうでもいいかと思っていた心など消えて、何とかしたいという考えが即座に俺の頭を巡った。放っておけば明日には治っているのだから、手を出さずにそのまま寝てしまうのが手っ取り早い解決方法なのだろうが、寂しさがこみ上げた後、ぐるぐると胸の内を旋回して徐々に澱が沈殿していくような感覚は、そう放っておきたくもないものだった。
「そういう時はアニキに会うといいよ」
とまた翔は言う。
「アニキに話すと絶対デュエルに持ち込むからなぁ…いつの間にか寝ちゃって朝には忘れてるんだよ」
「そんなものなのか」
「そんなものだよ」
つまりはアカデミア生らしく、心の浮き沈みもデュエルで制せよということらしいが、剣山ならまだしも、俺がレッド寮に朝まで入り浸るのも気が引ける。それにこの方法は、翔と十代の間柄だからこその効果なのだろう。
なんならアニキに話しておくから一緒に泊まろうかと、物色した売店の菓子を抱えて俺を伺う翔に首を振った。心は既にレッド寮へ向いているのか、翔はそれきりこの話題には触れず、会計を済ませると手を振って足早に売店を後にした。
翔を見送った先の窓に、薄暗い空が浮かぶ。屋内の照明がやけに明るく感じて、少し目を細めた。そろそろ日も暮れる。なんとなく手に取ったデュエル雑誌と、普段は買わないキャラメルと共に、俺もレジへ並んだ。

翔には十代が覿面なら、俺には何が効果があるのだろう。デュエル。数学。ぱっと思い浮かぶのはそれくらいだ。自分の趣味の少なさには時々閉口する。きっと何かに熱中することが大事なのだろうと、取り敢えず図書館に入ってはみたが、どうにも集中力は途切れて、先程から呆然と書架を見回したり、生徒の様子を観察したりしていた。
ペンを置いて、売店の袋を開いた。口寂しさにキャラメルを口に放り込む。
「こいつは甘いな…」
どろっと、糖分が舌の上で溶けて唾液に絡む。舌で転がしていると随分長い間なくなりそうにもないので、仕方なくもぞもぞと口を動かした。噛み締めた歯の裏に、粘着なキャラメルがくっつく。
気分で一箱買ってしまったが、きっと後は食べずに放置してしまうだろう。思った時に、名前君の顔が浮かんだ。そういえば、彼女はキャラメルが好きではなかったか。先日も残り少なくなった箱を振って、「そろそろ補充時期だねぇ」とわくわくした様子で呟いていた。
捨てるのも勿体ないだろう。思って、無意識に弄んでいた包装紙を置いて、ポケットからPDAを取り出した。

*

授業が終わったら温泉施設でのんびりしようとは、誰が言い出したのかはわからない。それでもチャイムが鳴ってすぐに、明日香とジュンコ、ももえと一緒に飛び出すように校舎を出た。それから数時間は経ったが、施設が閉まるまでまだまだ何時間でもいられそうな心持ちになっている。入る時は明るかった空が、とっぷりと夜に暮れていた。
孤島生活の閉塞感は、こうしてたまに羽をのばすことで発散しない限り、身の内に溜まって辟易としてしまうことを知っていた。だから今日は思いっきり身も心も溜まった汚れたものを洗い流すつもりでいたのだが、思いの外気分が発散されて、洗い流すよりも溶け出しそうなほど緩みきっている。
「こうして広い場所で体を温められるというのは、気持ちのいいものですねぇ」
ももえが白い肌にお湯を滑らせながら、うっとりとした様子で呟く。
「眺めもいいからね」
「ええ、女子寮の浴場も広いですが、やはり高い場所から見る景色は格別ですわ」
女子寮には全員が余裕を持って入れるくらいの広い浴場が設計されているからか、温泉施設の利用は殆どが寮の風呂から漏れた男子生徒で、その都合により、月に数回の頻度しか女子には解放されずにいた。丘の上に建てられ、窓から海やアカデミア特有の自然が展望できるために、浴室だけでも女子からの人気は高い。その数回のチャンスの一度をこうして、時間の許す限りに堪能できる日なのだから、私たちの心が浮き立たないはずがなかった。
「今日はアロマオイルを持ってきたのよ」
「あら、ジュンコが?」
明日香が意外そうに声を上げる。それにももえがやっぱり、とくすりと笑った。
「ジュンコさんがお手入れしないものだから、私が差し上げたんです」
「私だってちゃんとやってるわよ、もう!」
「でも明日香さんも意外だってお顔を…」
「明日香さん!」
ジュンコが必死に振り返るのを、明日香が可笑しそうに笑って冗談だと手を振ったが、きっと本心から驚いていたのだろう。私もつられて笑いながら、白濁としたお湯を掬って肩にかける。
「名前さんも笑い事じゃありませんのよ?」
「えっ?」
急に振られたももえの言葉に、思わず声が上がった。
「名前さんには、お相手がいるのですから」
ももえが妙に深刻そうな顔をして言うので、そろそろと頷きかけるが、引っかかる台詞だった。
「お相手…?」
ハッとしたようにジュンコが勢い良く立ち上がった。湯船が大きく左右に波打つ。
「そう!そうよ三沢大地!」
「ちょ、ちょっとジュンコ、タオル落ちてるわよ!」
明日香に前面を庇うようにキープされた体勢のまま、ジュンコは私の前で仁王立ちを決めている。はしたないですわ、というももえの言葉も耳には入ってないようだった。
施設の照明を覆って私にのしかかるジュンコの影に、一人の名前が反響する。三沢大地。ぽっかりと頭に空いた空間に、三沢くんの名前が何度も木霊する。次いで顔が浮かんだ。
「いつも一緒にいますものね」
「いつもって…」
ももえの意味深な笑みに、居心地の悪さを感じて逸らす。いつも。そうだろうか。脳裏をよぎるのは、授業があるごとに隣の席だということだけだ。
いつの間にか話すようになり、いつの間にか隣の席を空けるようになった。けれどそれはいつ頃からだったのだろう。約束をしたことがあっただろうか。本当に知らずの内に習慣になっていて、意識したことはない。でも。胸の内で何かがもぞりと動いた気がした。
用意された空席の横に立って、「お早う」と声をかけた時に、目元を緩ませて軽く手を上げながら微笑む三沢くんは。頭に浮かんだ光景に、体がざわめく。もどかしくて顔を伏せれば、湯気のせいか見る見るうちに顔に熱が集まってきた。慌てて立ち上がる。
「名前もタオル!」
「の、のぼせたから先に帰ってる…!」
明日香の声もお構いなしに、ざばざばとお湯をかき分けて、逃げるように泳いだ。これじゃあ自分の気持を吐露しているようなものだ。でもこのままいたら、気持ちの落ち着かないままにからかわれてしまうだろう。
脱衣所に飛び込んでドアを閉める。隣の席に座る三沢くんの、大きな影が今も横にある気がして、首を振った。

私が三沢くんを好きなのは否定のしようがない。それは友人として好きなのか、異性として好きなのか、今の今までは到底わからなかったが、話すだけで安心できる存在の三沢くんは、確かに“好き”と言って差し障りのないほど、私に安定をもたらしている人だった。しかし、三沢くんはどうなのだろうか。バスタオルを取り出しながら、思いに耽る。
彼はアカデミアを代表してもいいほど、おせっかい焼きの善人だ。けれど、進んで人と深く関わろうとする人だろうか。そう思って、彼がいつも隣の席を空けているのを、少なからず彼が私にどんな意味であれ好意を持ってくれているのだと解釈していた。
危ない、と思った。唐突に訳を聞きたいような気持ちになる。どうしてなのか、このもやっとした気持を晴らしたいと思えてくる。でもそれはきっと、三沢くんの気持ちではなく、私の気持ちをはっきりさせたいだけなのだろう。
風が流れた。脱衣所を出入りするドアから吹き込んだらしかった。さっさと着替えてしまおう。思って漁った風呂道具の陰で、チカチカ点滅する光が目に入る。PDAを手にとって、息を飲んだ。
三沢くんからの着信が一件。丁度みんなと寛いでいた数時間前に、三沢くんが電話を掛けてきたようだった。あまりのタイミングに胸がざわめく。ももえ達が悪いのだ。意識していなかったのに、からかうようなことをするからいけないのだ。思いながら、時間も遅いがかけ直そうと、バスタオルを巻き直して画面を見ると、メールが来ている。
三沢くんからだ。直感的に思って、逸る心臓を落ち着けるように本文を開いた。

*

ぶるっと体が震えて目が覚めた。寒い寒いと思いながら寝ていたが、目を開ければ視界には床が広がっている。書き損じのメモやらノートやらが散乱している自室の絨毯に手を当てて、呻きながら上体を起こした。いつの間に寝ていたのだろうか。昨夜の記憶を遡ってみるが、あまり鮮明ではない。
寝起きの朦朧とした意識でベッドに寄りかかり、散らばるメモに一つ一つ視線を泳がせる。恐らく夜に熱中していたのだろう数式を見れば、途中で力尽きて寝てしまったのだということは予想できた。
窓も開け放っていたのだろう。カーテンがさらさらと揺れる。早朝だが外はもう既に明るく、鳥が寝坊がちな寮生たちを叩き起こすように屋根の上を飛び回る音がした。気がすっかり抜けているのか、頭がぼんやりしている。絨毯の跡の残った頬をさすって、とりあえず朝食を食べるかと思い至った時に、戸口から「三沢くん」という柔らかい声がした。
誰かということはすぐにわかったが、まさか、という思いが先立った。急いで立ち上がって戸口へ早足に歩いたが、普段から書籍や雑誌で散らかしたままにしているせいか、途中で何度も物にぶつかる。足を捻りそうになりながら、押し出すようにドアを開けた。

視界に飛び込んできたのは、やはり名前君だった。
「お早う、三沢くん」
「あ、あぁ…」
にこりと爽やかに笑う顔は、寝ぼけたままの自分とは対極で、不意に恥ずかしさが込み上げる。しかし疑問が先に口をついて出た。
「どうして君が…?」
ドアを抑えた半身の体勢で尋ねると、名前君が困ったように首を傾げて何かを考える素振りを見せたので、きっと相談か何かだろうと、中に迎え入れた。しかし漸く覚醒しきっていない頭が、失念していたことに気づく。
「や、すまない…今片付けるから」
足の踏み場を探している名前君を制して、きっとゴミにしか見えないグシャグシャのメモ用紙を、かき集めるようにベッドの方へ押し寄せて、名前君ひとりでも座れる空間を作った。可笑しそうに名前君が体を揺らす。
「三沢くん、もしかして床で寝てた?」
何でわかったのかと驚いた顔で見つめれば、名前君は自分の頬を指して、
「跡と、インクが付いているよ」
といたずらっぽく笑った。左頬をゴシゴシと摩ってみる。取れたかどうか聞こうとすれば、違うとやはり笑いながら、名前君が膝を寄せて俺の元へ擦り寄った。ハンカチが頬に触れる。反動で揺れる顔を押さえるように、名前君の手がそっと反対側の頬に添えられる。どくりと心臓が跳ねた。血圧も心拍数も急上昇している。やわらかな指先が、こそばゆい。
「…名前君、もう、」
耐え切れなくなって声を上げれば、名前君は真面目な顔をして「三沢くん」と俺の名を呼んだ。白のレースデザインのハンカチが、ゆっくりと頬を離れて、名前君の膝に収まった。
「メール、ありがとう」
「メール…?」
まだ落ち着かない気持ちのまま、名前君の言うメールを思い出す。昨日は俺は何をしていたかを遡って、ひとつずつ確認していく。もし学校にいればと思い、PDAで名前君に連絡した覚えはあった。しかし、メールのことは記憶にない。わからないといった顔で、腕を組んで悩む俺の様子を見て、名前君が僅かに寂しそうに顔を伏せた。
「い、いや待ってくれ!」
慌てて自分のPDAを探す。部屋を見渡せば、丁度今朝寝ていた場所に転がっていて、引っ掴んで履歴を見た。覚えはないが、確かに名前君ヘ宛ててメールを送信している。
開いた文面を見て、唖然とした。

「もしかして…間違いメールだった…?」
画面を凝視して言葉を失っている俺に、不安そうな名前君の声が掛けられる。思い出すというより、そうだったかもしれない、と自分の無意識の行動を思い返す感覚だった。間違いではない。だが、間違いであればよかった。

『君に会いたい』

たった一文の本文に、寝ぼけていた頭が一気に覚醒して、顔に熱が集まるのがわかった。どう誤魔化しても、誤摩化しようがない。数式に夢中になって、そして心に溜まる澱を少しでも軽くしようとしていた昨夜、まどろみの中でPDAを手に取った記憶は、確かにある。眠気で朦朧とする意識を無理に保って、引きずるように上げた頭で、名前君の名前だけを浮かべていたことも。
自分らしくない。本当に、あれは俺だったのだろうか。恥ずかしさを打ち消すために否定の言葉が溢れてくるが、どこか納得している自分が無性に恥ずかしかった。でも、もう仕方ない。
息を吸って、吐く。また吸い込む。小刻みな呼吸の後で、「いや、」と声を絞り出した。
「間違いじゃない」
言ってから滑稽な自分の顔を想像して、名前君と目を合わせられないまま視線を泳がせれば、自分の隣に見覚えのあるパッケージが目に飛び込む。昨日売店で思わず手にしてしまった、キャラメルの箱だった。反射的に手にとって、
「君が好きだと言っていたから」
言い訳がましく俺の口には合わなかったと、開封済みの理由を話して差出す。名前君の手が指先に触れた。じんわりと熱が伝わる。
「あ、ありがとう」
「君に、」
名前君が俺をじっと見つめる気配。意を決して彼女の瞳に視線を合わせた。視界に飛び込んだ彼女の顔は困惑に満ちていたが、俺の見間違いじゃなければ頬はほんのりと染まっている。張っていた糸が切れて、頭が真っ白になった。
「それは君に送ったメールとは、関係ない」
開き直るとはこういう感覚なのだろう。真っ赤な顔も隠さず言い切って見つめ返せば、名前君の口がぽかんと空いて、先ほどの俺のように言葉を失っている。しかし数秒も経たない内に、ぱくぱくと金魚のように口が開閉し始めた。
「それって…」
小さく呟かれた声に、頷く代わりにじっと見つめる。名前君は恥ずかしそうに頬を紅潮させて、両手で口元を抑えた。

ふと、昨日の翔との会話を思い出す。唐突な虚無感には、翔は十代が覿面だと言った。なら俺は。買うつもりのなかったキャラメルを見る。つまり、そういうことなのだろう。数式でも、キャラメルでも、紛らわすことはできない。
ちらりと横目に見た名前君は、俺の視線に気づくともう一度、今度は胸を疼かせるような甘い顔をして、
「メール、ありがとう」
と綻ぶ笑顔を見せた。
「あ、ああ…」
あまりにも嬉しそうに笑うものだから、キャラメルを買ったことも、電話をしたことも、数式に没頭したことも、その理由が何であったのか。それだけは情けなくて、流石に言えなかった。


11/10/04 短々編
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