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名前は、もしかすると自分は恋をしているのではないかと思い始めている。それは、このところの自分の交友関係から、なんとなく察してはいた。


ことばを食むものたち ― ティラノ剣山



何事にも一生懸命になれる人間は素晴らしい。名前はそういう人間が大好きだ。ひとつのことに夢中になっていると周りが極端に見えなくなって、それで当たられたり害を被った日にはたまったものではないと友人たちは口を揃えて言うが、それでも、狭まった視界でただ興味のものだけを追いかける姿は、普段のんべんだらりと日常を享受している人間にはない輝きを持っていると名前は思う。だから、名前は剣山が好きだ。もちろん人として剣山の性格を好いていた。
名前の同級生である遊城十代を慕って、昼夜構わずその背を追いかける姿は最高に輝いていると思う。剣山を見ていると、まるで自分自身の青春が彼そのものでありたいような、そんな気さえ湧いてくるのだ。

よくよく見てみれば、自分の周りは途方もなく明るい人間ばかりだ。全員が必ず真に据えた目的ないし目標を掲げていて、いつだってそれに向かって全力疾走している。目が痛くなるほど、眩しい人間ばかりだ。けれど、ここずっと名前の網膜に焼き付いて離れないのは、後輩として可愛がってきた剣山だった。

理由は自分でも承知している。剣山は何に対しても真っすぐだし、そういうところは十代にとことん似ているから、同じように見ていて退屈のしない、楽しさを分かっている人間だと認識していた。
それが興味に変わり始めたのは、最近になって、剣山の矛先が名前に向いてきたということだ。
どうやら剣山は、たいそう名前を気に入ったらしく、すれ違うならまだしも、遠くに影を見つけるだけで文字通り突進してくる。

好かれるのが嫌な人間などそういない。名前も例に漏れず、剣山の純粋な好意を嬉しく思った。とかく、自分を見る度に光る笑みが、海と空の挟間を彩る朝日よりも澄んで透明なものに見えたのだ。
名前は剣山の中でも、自分を見つけた時の、嬉しそうにぱっと浮かぶその笑顔を特に好んでいた。だから、自分からは決して声をかけない。剣山を見つけても、わざと彼が自分を見つけるように仕向ける。剣山もその通り、名前の好きな笑みを躍らせて駆け寄ってくる。それが本当に楽しみで仕方がなかった。

しかし最近の剣山を、名前は快く思っていない。笑顔がまったく違うのだ。会っても口を淀ませて言いたいことがはっきりしないし、話していても目がところどころ行き来し、まるで落着きがない。それどころか、こちらから剣山を見つけて目を合わせると、自分を避けるように目を逸らしてそのまま人ごみの中に紛れてしまうこともある。
名前もそれなりに思春期の女生徒の中で揉まれてきたから、剣山の行動の意味に気付かないほど鈍感ではない。剣山の気に障るようなことをしたかどうか、終日かけてゆっくりと考えてみたが、ひとつとして思い浮かばない。そうなれば、剣山は恐らく自分を好いているのだろうと、暫くしてから思い至った。それはこれまでとは違う意味を持った、好き、だ。
直接剣山の口から聞いたわけではないので確証もないが、女子寮で無駄に洗練された勘がそう言っていた。剣山が悪いわけではない。好かれることが嫌なわけでもない。
ただ剣山が、自分に異性としての意識を持ち始めたことで、名前の一番好きな剣山の輝きを見れなくなったことが、青春を失われた痛みのように重く名前の胸を突いた。

それが、名前が恋をしたのではないかと疑う理由のすべてである。

「つまるところ、貴様は俺に自慢をしに来たのか」
「なんだかんだでやっぱりそうなりますか?」
学内に設置されたカフェテラスに呼び出されて、長々と話を聞かされた挙げ句、それが結局のろけ話だったと知った時の脱力感と喪失感。万丈目は今しがた全てを話し終えた名前を目の前にして、その気持ちをどうしても隠すことはできなかった。
分かっていないように頭を掻く名前には、ほんのりと反省の色が読み取れる。普段ならばそれでも気分を損ねかねないが、今回ばかりは万丈目も、常人並みの懐を持ってそれで良しとした。
試験に追われた休日、たまにできた暇な時間と何の気なしに付き合ってやってのは自分なのだから、この際最後まで話は聞いてやろうと、男らしく優雅なカフェテラスに腰を据えることに決める。

呆気にとられて聞いていたためか、すっかり冷めた紅茶が、カップの中にはまだ半分以上残って揺れていた。今さら淹れ直すのも話の腰を折るようで気が引ける。万丈目は仕方なく、香りが消えた紅茶を喉に通した。
「…で?」
ソーサーが陶器の擦れる軽い音を立てた。名前は万丈目が紅茶に口をつけるのを眺めた姿勢のまま、きょとりと首をかしげる。
「俺に相談したくらいだ。まだ続きがあるのだろう」
「ま、万丈目くん…!」
如何にも男らしく決めた万丈目に、名前は彼が放つ確かな輝きを認めた。

相談というのはこれだ。名前がそう言って、白く汚れひとつない小さな丸テーブルに持ち出したのは、近頃学園中の生徒がやたらと話題するバレンタインと彩られた雑誌だった。万丈目は思わず口を半開きのまま数秒、女性好きのする可愛らしいポップ調の表紙を見つめてしまった。
「…こ、これか?」
言って、戸惑い交じりの眼差しで名前に尋ねると、彼女は普段到底見せないような赤らんだ顔をして、こくりと小さく頷く。引き結んだ口が、羞恥に色を染めている。不覚にも万丈目はそれを可愛いと思った。しかし、気を取り直す。
そして同時に、名前が本当に真剣に恋の悩みを打ち明けているのだということを感じた。
バレンタイン雑誌を出したということは、剣山にチョコレートをあげるつもりなのだろう。それも手作りの本命だ。そして名前は、剣山が自分を好いていることを知っている。これで上手くいかない事例を見れるものなら見てみたい。
万丈目は思うが、自分でも気づかぬうちに、名前は不安を抱いているようにも感じた。先ほど、剣山に恋をしているのかもしれないと名前は話していたが、かもしれない、ではない。これほどまで剣山を思う気持ちは、最早恋である。

そこまで分かっていながらも、頬を紅潮させたまま返事を待つ名前を見て、万丈目は言い淀む。
「それなら女子寮の生徒に聞けばいいではないか。俺はこの分野、殊に菓子についてはまったく分らんぞ」
助けになりたいのは山々だが…。それっきり言葉を濁す万丈目に、名前は大袈裟に手を振りながら、それは違うと否定を示した。
「万丈目くんには貰ってどういうものが嬉しいのか参考に聞きたかったの。あと剣山くんとも仲がいいから趣味も分かりそうだし、レッド寮の知り合いの中では一番人を見てそうだもの」
それに。名前はそこで言葉を濁した。しかし閉じた口をすぐに開く。女子に相談すると、結構面倒くさいのよ?呟く名前はどこか不安そうだ。
万丈目も一度心を決めた身。自分を必要とするのなら到底断る気はないが、果たして本当に自分でいいのかという思いだけが、僅かに胸につっかえる蟠りとなっていた。
しかし万丈目自身も自覚はしているが、ここまで頼られて引き下がるような性格はしていない。言葉にはしないが、周りが思うより自分は頼られることが好きなことを承知している。それならば、いつまで経ってもじれったいこいつらに協力してやってもいいかもしれない。
万丈目は頷いた。
「わかった、とことん貴様に付き合ってやろう」
力強い万丈目の返答に、名前は晴れやかな笑みを見せる。それを見て満足すると、万丈目はもう一度口を開いた。だが。そして一呼吸置いて、いつもデュエルで見せるような、挑戦的な表情で顔をゆがませる。
「やるからには必ず成功させろ」
俺様が付き合ってやるんだからな。テーブルに乗せた片腕に重心をかけながら、そう付け加える万丈目に、名前はいよいよ弾けるように笑顔を浮かべた。


万丈目に相談して良かったと、名前は自分の人を見る目に満足していた。同級生の中では比較的落ち着いているし、何より一歩引いたところから見ているためか、洞察力がある。剣山についても、彼の好きそうな菓子をいくつも選んでくれた。
学園から女子寮へ向かう道のりを、軽い足取りで歩く名前の腕に収まる雑誌には、いくつもの折り目が見え、色とりどりの付箋が風に揺られている。
万丈目のおかげで、もう作りたいものの目星は付いていた。女子寮に帰ったら早速作り始めようと、楽しみに緩む頬を押さえながら、まだ生徒がざわめく校門付近を早足に歩く。と、突然強く肩を掴まれた。
「わっ」
「あ…すまないドン」
どきりとした。驚いて声をあげると、後ろから聞こえたのは後輩の声。名前が万丈目を呼び出してまで、普段決して語らない恋の話を打ち明けることとなった張本人が、名前の肩を掴んで引きとめていた。
目を見開いて振り返った名前に、剣山は慌てて手を離す。

名前は胸の高鳴りを感じた。急にだ。さっきまでもわくわくしながら歩いていた。だが、それとはまったく違う。剣山を目の前にした鼓動は、少し苦しみを伴っている。それでも名前は、その締め付けられるような感覚を心地よいと感じていた。これを、恋というのだろうか。
前まで一心に注がれていた剣山の輝くような笑顔は、やはり見られない。でも今日の剣山の目は、真っすぐに名前をとらえていた。それがこの上もなく嬉しい。
それ。剣山は名前の胸元を指した。両腕で固く抱いた雑誌が、名前の細い腕の中に収まっている。
名前は剣山と雑誌を交互に見た。目の前にいきなり現れた後輩が、何を言うのか想像できなかった。
「…作るザウルス?」
聞いた後でばつの悪そうな顔。聞かなければ良かったと後悔しているようにも見えるその表情に、剣山が尋ねた理由はよくわからないが、名前は、肯定の他に何か言わなければならないような気がした。
思わず急いで開いた口が、名前の思考が追いつく前に言葉を吐き出していた。
「一緒に作る?」
見開かれた剣山の大きな瞳。次いで喜びと悲しみが入り混じったように苦しげに歪むそれを見て、言わなければ良かったと名前は真っ青になる。しかし意外にも、剣山は頷いた。名前の言葉を噛みしめるように、ゆっくり言葉を紡ぎながら、頷いた。
「作る…ドン」
こんなに切なそうな剣山を見たことがない。名前ははっとして、ようやく気付いた。剣山は思い違いをしている。じゃなければ、こんな苦渋に満ちた顔はしない。
それもこれも、一緒に作るかなどと言ってしまった自分の責任だ。恋人同士でもない意中の相手に、バレンタインを前にしてチョコレートを一緒に作るかなどと聞いたら、眼中にないものと思われても仕方がない。特に、恥ずかしさから自分を避けるほど純粋な剣山なら、尚更だ。
名前は顔色の悪い剣山をそっと見つめる。輝くような笑顔が好きだった。けれど今はどうだろう。
剣山の手を取った。後輩が小さく声を上げる。
「せ、先輩?!」
「ついてきて!」
そして走りだす。ここまで来たら、引き下がれなかった。万丈目の言葉が思い出される。
― やるからには必ず成功させろ
バレンタインには一日早いが、こんな沈んだ後輩を一日も放っておくことはできない。それより何より、名前が、我慢できなかった。


「名前先輩、見つかったらどうするザウルス」
大きな体躯に似つかわしくない情けない声を出して、剣山は窓から乗り上げた体を柔らかな絨毯の上に横たえた。名前は窓の外を見る。誰も騒いでいないところを見ると、奇跡的に見つからなかったようだ。カーテンを閉める。こんないい天気の日にと怪しまれるかもしれないが、それだけのためにバレンタイン前日にわざわざ部屋まで訪ねてくる同僚もいないだろう。何より、この女子寮は現在自分のことで手一杯な人間が多い。
名前はほっと胸を撫で下ろして、窓の下に身を隠す後輩に大丈夫だと声をかけ、胸に抱えた雑誌をとりあえず自分の机に開いて置く。適当なところに腰かけていいと剣山に言うと、迷った挙げ句、机の傍に無造作に置かれた椅子に遠慮がちに腰を掛けた。
静寂が訪れる。

名前はまさか男子禁制の女子寮の、それも自分の部屋に男子学生を入れる日が来るとは思いもしていなかった。見つかったら停学もいいところだろう。運が悪ければ退学といったところか。
完全寮制のアカデミアだからこその厳格な校則を、もちろん二人が知らないわけではない。なのになぜこんな危険を冒してまで剣山を部屋に招いたのか。
名前は、自分の煩いほどに高鳴る胸が、その答えだと知っていた。

「剣山くん、お菓子作ったことあるー?」
女子寮にのみ設置された簡易な台所から、身を固めて椅子に座っている剣山に、できるだけ明るい口調で声をかける。
「ないドン」
「まぁ簡単だから大丈夫だよ」
そう言う名前の笑い声に少し心がほぐれたのか、剣山の表情が柔らかくなった。それに名前は安心すると、支度を整えることに専念することにした。それ以外に、心臓の音を、自分の気持ちを落ち着ける方法が思い浮かばない。

名前先輩。しゃがみ込んで収納スペースからボウルを手に取る名前の背に、剣山の小さな声がかけられる。か細くて、不安に満ちていて、今にも消え入りそうな声だ。
なぁに、と答える前に剣山の声。
「そのチョコは…」
息をのむ。何を言うのだろう。思いながら、何が続くのかわかっているような気もした。
「誰に作るザウルス?」
予想通りだ。短い疑問文が、すとんと名前の心に落ちてきた。聞かれたら返す言葉も用意していた。鼓動が早まって破れてしまいそうな胸をぎゅっと押さえながら、名前は答えを返そうと口を開く。けれどそこで、剣山の言葉が名前の思考に被った。
考えてもみない言葉だった。
「万丈目先輩ザウルス…?」
呼吸が止まった。抱えたボウルに体温を吸い取られたように、手から血の気が引いていく。ぱさりと紙の擦れる音。剣山は雑誌を読んでいたようだった。それが、机の上に戻される。
名前はしゃがみこんだまま、振り向けなかった。

誘った時の悲しそうな顔。勘違いをさせているとはわかっていたが、思い違いをする対象のことまでは考えていなかった。何故、万丈目なのか。名前は顔を覆った。ボウルが大きな音を立てて、床の上で左右に揺れる。そうか、見られていたのか。
返事をしないということは、肯定と同じだ。でも否定しなければと思う名前の喉は、詰まったように声が出ない。静かに回るボウルの音が耳をさわる。
楽しそうだったと、お似合いだったと呟く剣山の声は、名前を元気づけるためか、必死に明るさを保とうとしている。胸が締め付けられるようだ。剣山は輝いている。いつも純真でまっすぐで、ひとつのことに夢中になると周りが見えなくなる。名前はそれが、その姿がたまらなく好きだった。
そして今も、まっすぐに名前に向ってきている。名前のためを思って言葉を紡いでいる。だから名前もいつも通り、自分が望むように剣山の感情をこちらに向かわせるだけだ。遠くで見つけてもあえて自分からは声を掛けず、ただ剣山が駆け寄ってくるように仕向けるように。

うずくまったまま何も返事をしない名前の背に、剣山の視線が触れる。笑っていた口元がゆがんで、ぎこちなく閉じられた。
痛いほどの静寂の中に、剣山の声がひとつ落ちる。俺。
「俺、もしかしたら、」
その声は震えていた。名前の肩もぴくりと震える。
耐えきれなかった。わかっていた。剣山が嫉妬してくれていることは、わかっていた。だから後は、彼の口から感情が流れ出るのを待つだけだ。そういう風に、なるはずだったのだ。たとえ今日剣山に会わなかったとしても、たとえ明日チョコレートを渡すのが自分からだったとしても、先に溢れだす感情を口にするのは、いつも通り、剣山の方だったはずなのだ。

「ごめんなさいぃい!」
名前は振り返った。そして勢いよく剣山の元へ走った。文字通り突進だ。
「わっ、あ、うわっ…名前先輩?!」
がたいの良すぎる体に抱きつくと、対照的に剣山の情けない声が降りかかる。驚いた拍子にバランスを崩して、剣山はそのまま名前ごと床の上に倒れこんだ。いくら絨毯といえど、受け身も取れずに打ち付けた背中は痛い。それでも、呻く剣山の上から、名前は決して起き上ろうとはしなかった。
自分の胸板に当たる柔らかな感触に、真っ赤になって剣山は慌てて名前の腕をひきはがそうとする。しかしどうやっても外れないのだ。名前は、絶対に離すまいと懸命に腕に力を入れて剣山にしがみついていた。
「先輩…?」
戸惑いに揺れる剣山の声に、名前は一層腕に力を込める。こんなに精一杯力を入れたのも、男性に抱きついたのも、初めてだ。同時に自分が今、剣山に向かって一生懸命であることを自覚した。
自分よりずっと逞しく、温かな剣山に鼓動は抑えられない。剣山もずっと、こんな気持ちだったのだろうか。思うと体の底から力が湧いてきた。それも自分が一等好きな、輝くような力だ。
好き。呟いた。聞こえていないかもしれない。それに、まだ足りない。
名前は顔を上げて、半身を支えたまま困惑している剣山に向かって、とびっきりの笑顔を見せた。
「好きだよ」
言って、言葉を飲み込み切れていない剣山の首に、思いっきり抱きついた。それでも剣山の反応はない。心配になって、床に倒れこんだまま、名前は固まる後輩の頬に、優しく口付けをしてやった。
数秒を置いて、剣山の顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「あ、あ、うわぁっ!」
声にならない声を上げて後ずさりするくせに、剣山の腕はいつの間にか名前をしっかりと抱いている。名前は可笑しくてたまらない。
何より、何かにまっすぐ向かっていくことが、こんなにも気持ちの良いものなのだということを剣山によって教えられたことが、この上なく嬉しかった。
「返事は?」
剣山はいつだって全力だ。でも今回ばかりは声が出ないらしい。その代りに、真っ赤な顔を隠そうともせず、名前を見つめて大きく口を開ける。
輝いた笑顔は、この瞬間、確かに名前の青春のすべてに変わった。

「明日が楽しみザウルス!」
笑ってチョコレートを刻む剣山の横では、名前がお湯に火をかける。
湯煎で溶かすチョコレートには、名前の溢れんばかりの剣山に向かうベクトルが、甘く溶けていった。



10/02/16 短編
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