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サテライトにも春は訪れる。


ことばを食むものたち ― 不動遊星



遊星は決して語らない。今も自慢のD・ホイールを調節しながら、無表情にモーターを回している。地響きのする低い回転音が、地下道をものすごい速さで駆けていく。

サテライトでバレンタインという単語を聞いたのは、去年の夏が初めてだ。あまり記念日などを祝う習慣がないからかもしれない。マーサハウスでも誕生日とクリスマス、年明けくらいしか、まともに祝ったことはない。
定期的に開かれる闇市で、シティからの余り物を買った際に、たまの贅沢にと手に取ったチョコレートの箱の裏に、バレンタイン、大切な人へ愛の贈り物を、とピンクで縁取られた文字で記されていたのを見つけたのだ。
そもそも、サテライトでおやつなどというものは、余程生活に余裕のある者しか食べたりはしない。チョコレートはそんな中でも、子供には到底手の届かない場所にあった。私はマーサハウスから自立する時に貰ったのが、チョコレートを満足に食べた初めての記憶だ。他の人間も、ほとんどそうだろう。もしかすると、食べたことのない人間もいるかもしれない。
そんな貧困を極めているサテライトだからこそ、バレンタインという習慣が根付かなかったのは頷けるし、知っていたとしても、誰もが口に出さないのはやむを得ないことなのかもしれない。
その貧窮の最中を成長してきた遊星と私は、去年の夏、サテライト生活18年目にして、ようやくその存在を耳にしたのだった。

大切な人にチョコレートをあげる日。闇市の雑踏の中、箱の裏の説明文を、必死に読んでいた私を覗きこんだ遊星に、バレンタインとはそういう日らしいと伝えると、とてもいい習慣だな、と遊星は静かに笑った。
それに少しだけときめく胸を鎮めながら、私は思い切って、箱から読み取ったことを伝えてみる。
「それも女性が、本当に大切な男性にあげるんだって」
遊星が目を丸くする。立ち止まっていたせいか、ごった返す人の波が、遊星と私を鬱陶しそうに押していく。何を言うのか気になって、人の影で光が遮られた人ごみの中、はぐれまいと寄りあった遊星の下から、口元をじっと見つめる。どいてくれ。すごい勢いで通り過ぎる人々から、声が掛けられて、遊星が口を開いた。
「行こうか」
それだけだった。

過度の期待はしない。遊星と過ごしてきて、いつも言い聞かせていることだ。けれど、マーサハウスを出てからも勝手について歩く私を、決して邪険にしない様子を見ていると、どうしても期待してしまうのだ。もしかしたら、などと。
「名前、どうした?」
「え?」
はっとして顔を上げる。夕飯までの暇な時間にと、衣服の破れ目を縫っていたのだが、針で幾度も同じ場所を刺していたようだ。プログラムをシャットダウンさせた遊星が、立ち上がって心配そうにこちらに近寄ってくる。
「少し休んだらどうだ」
そう言って、私の隣に乱雑に置かれた椅子に腰かけると、覗きこむようにして腰をかがめた。近い。傍から見れば大して近くはないのだろうが、私の許容範囲を遥かに超えてしまっている。これは遊星にだけだ。顔が見るからに赤々と色づいていく。
遊星の瞳が、身を案じるように揺れた。

昔はこんなではなかったのだ。遊星は勿論、ジャックともクロウとも走り回り笑い転げて、体いっぱいの疲労感に重なり合うように倒れこんだり、何も考えることなんてなかった。気が合って、親友というより腐れ縁で、そして家族のようだと思って毎日を過ごしてきた。けれど、今はそうはいかない。私の体は、まるで自分のものじゃないみたいに勝手に疼きだして、抑えていなければすぐにでも走り出してしまいそうな、激しい熱を持て余している。それも遊星に、だけなのだ。
「夕飯のこと考えてたら、ぼけーっとしちゃってたよ!」
布の上でぐちゃぐちゃに絡み合った糸に大袈裟な叫びをあげて、慌てて椅子を引いて立ち上がる。私に合わせて屈みこんだままの遊星が、少し小さく見えた。
遊星は、優しく安堵の息を吐く。
「そうか、無理はするな」
昔から変わらない、気遣いに溢れた温かい笑み。だというのに、私の体温は、情けないほどに上昇していく。
変わったのは、私だけだ。この糸のように、私の心はわけもわからず絡み合ったままだ。

今日はシティで言う、バレンタインの日らしい。あの闇市からおよそ半年。私は一日たりともこの日を忘れたことはない。憶測するに、バレンタインは誕生日よりずっと華やかなものだ。誰にでも祝うものではなく、女性個人が、最も大切だと思う男性に感謝する、そういう日だ。これはまるで求愛ではないだろうか。机の中にひっそりと隠したチョコレートの空箱を思い浮かべて、胸を高鳴らせる。
チョコレートを買うのは容易ではない。生活の中で、色々と我慢しなければならないものが出てくる。だけど私は我慢した。遊星だってそれほどチョコレートを食べたことはない。あげたらきっと喜んでくれるだろう。そしてそれを今日渡すことで、チョコレートに想いがこもるのだろうと、何かジンクスのようなものを私は感じ取っていた。

そんなことを考えながら息をついていると、地下通路を駆ける軽快な足音が、コンクリートの冷たい空洞を跳ねて、こちらに駆け寄ってくる。賑やかな幾数もの声が、遊星と私を包んだ。
「名前!」
ラリーが階段を飛ばし飛ばし降り立つと、勢いよく私へ飛びついてくる。攻撃的な飛び込みに耐えきれず体をよろめかせると、遊星が私の背をがっしりと抑えた。
「ラリー、今日は遅かったな」
「ああ、友達と遊んでたんだ!」
そう笑って、なぁ名前俺の服直った?とテーブルの上に乗った服を覗きこんで悲鳴を上げる。そこにタイミングよくブリッツたちが現れて、アジトはいよいよ賑わい始めた。

「名前、ちょっと出掛けないか」
そんなときに、おもむろに肩を叩いたのは遊星だ。振り向くとすでにヘルメットを抱えていて、ひとつを私に渡す。来たばかりのブリッツ達が、不満げに声を上げた。
「何だよ、もう行っちまうのかよ」
「そうだよ遊星、ちょっとだけ話を聞いてよー」
各自口を尖らせて、遊星を引き止めようと必死だ。それに遊星はすまないな、と言って首を振った。
「パーツで足りないものがある。テスト走行も兼ねて、少し走ってくる」
D・ホイールを地下道に押し出して跨った遊星は、私を促すように、名前と一言名を呼んだ。名前も行くのかよ。ラリーが悲しげな目を私に向ける。遊星がシステムを作動させた。エンジンが回転を始める。ごめんね、と私は一度ラリーの頭をできるだけ優しく撫でて、遊星の後ろに跨った。
「夕方には帰ってくる」
一言残すと、名残惜しげな面々を振り切って、遊星は地下道にモーターを唸らせた。

咄嗟にポーチを掴んできてよかったと思っている。ポーチの中には、遊星に渡すチョコレートが息をひそめて眠っている。これで渡しそびれるなんてことはないだろう。手に入ったチョコレートは二、三粒だけだ。ラリーたちのいる前で渡せば、遊星は皆にも分けようとしただろう。だけど、渡そうにも数が足りない。いつもラリーたちは朝までアジトで過ごすから、いつ隙を見ようかと思っていたのだが、これで見つかって誰かが余るなんてことはなくなるだろう。
ほっと胸を撫で下ろす。
年中温暖なサテライトといえど、この時期は少し風が冷たい。少しでも暖を取ろうと、遊星の背にしがみ付く。同じように風を受けているはずなのに、熱を持ったように温かい遊星の背は、私の熱まで上げていく。これまでもパーツ集めを手伝ったことはあったが、こんなにわくわくしたのは久しぶりだ。
風を切る背中から、遊星の匂いが鼻を掠る。工具と油とすべてを包み込む、遊星らしい匂いだ。瞬間、私の息がぎゅっと詰まった。胸を強く掴まれているようだ。苦しい。だけど同時に心地よくも感じる。何かが心の底から溢れ出してきた。止められそうにない。
「ねぇ遊星!」
「なんだ」
「わからない!」
ミラー越しに、遊星が不思議そうな顔をする。私も意味がわからない。とにかく遊星の名を呼びたかった。それ以外に、溢れだす何かを止める方法を、私は思いつかなかったのだ。遊星。もう一度呼ぶ。
彼はもう、何も答えなかった。

どうしてだろう。自分というものが分らない。自立してから幾度もそういう思いに駆られている。それでも、遊星を見ると急に言うことをきかなくなる体や、今にも叫んでしまいたくなるような心のざわめきを、私はどうにかして抑えてきた。けれど今、私は抑えられなかった。
D・ホイールがスピードを緩める。もうジャンク広場へ着いたのかと思ったが、そうではないようだった。
「…名前、どうした」
遊星の真摯な目が、私を射抜く。グローブを外した手で、そっと頬を撫でられた。つるりと、頬を雫が滑って行く。涙腺が、崩壊した。
「わか、ない」
わからない。とにかく、涙が出て止まらなかった。遊星がおろおろと、まなじりから零れ落ちる雫をひたすら掬いあげていたが、止まらないと分かると、頬に手をあてたまま、困り果てたように眉を下げた。

遊星は決して何も言わない。良かったことがあっても、口元を緩めるだけで、自らのことをあまり話そうとはしない。
バレンタインを知った日もまた、遊星は何も言わなかった。興味のないことには口を挟まない。それが遊星のスタイルだ。きっと覚えていて、律儀にとりつけてもいない約束を守ろうとしているのは私だけなのだろう。それは仕方のないことだ。私たちは18年もサテライトで過ごしてきて、シティの人間ではない。
だから、今日という日に遊星が、ただ喜んだ笑顔を見せてくれればいいと、そう思っていたのだが。
「何かあったのか、名前」
「…っ、」
名前。涙で聴覚まで霞んだ私には、心配そうに名を呼ぶ遊星の声がおぼろげに聞こえる。とめどない涙が、遊星の指を伝って地面に落ちていく。
私はわかっていた。純粋な気持ち、それだけではないと、この日に乗せた自分の想いはそれだけではないのだと、知っていたのだ。恐らく14日を知った時から、遊星にその意味を伝えた時から、たった二、三粒のチョコレートのために我慢を始めた時から、きっと、私はわかっていたのだ。
名前。遊星は彼の大きな手でも、拭っても拭っても足りない私の涙を、それでも必死に受け止めている。
「名前、俺はどうしたらいい」
遊星の切なげな言葉にも、声が出ない。声を殺しているため、喉が潰れそうに痛い。私は遊星にこんな顔をさせたかったわけではないのだ。たとえ私が、チョコレートの裏に自分勝手な想いを乗せようと、たとえ遊星がそれを無視したとしても、私が喜んでほしいと思ったことに偽りはない。
「ゆ、っせ…」
どうかすると洩れそうになる嗚咽をこらえて、私はポーチからそれを取り出した。どうか気持ちが伝わればいいと、そう願いながら、金色の包み紙を解く。中から姿を現したのは、子供たちが泣いて喜びそうな、滑らかに光るまんまるの茶色のミルクチョコレート。遊星がはっとしたように、口を開いた。
そこへ、取り出した甘いまんまるをそっと押しつける。遊星が口の中へゆっくりと含ませるのを見ると、心臓が熱を持つのを感じた。私の心を直接食べられたようだ。とくり、とくりと耳元で心臓が波打つ。
「…14日か」
遊星が呟く。そして、綻ぶように笑みを浮かべた。それは、私が望んでいたよりずっと幸せに満ち溢れた笑顔だった。私は遊星が、こんなに顔の筋肉すべてで喜びを表現したところを、今まで見たことがない。
名前。先ほどとは違う、くっきりした遊星の声が私の鼓膜を響かせる。
「お返しだ」
ふわりと顔にかかる、遊星のやわらかな前髪。D・ホイール越しに抱きしめられた体以上に、寄せられた遊星の唇に、私の涙は決壊を止めた。
言葉はない。けれど伝わるのだ。それが、遊星の言葉なのだ。
「ようやく泣き止んだな」
離れた唇に、名残惜しげに瞼を開ける私に、遊星は満足そうに口元をゆるめた。

泣き止んだ私に、遊星がヘルメットを渡す。そしてD・ホイールに跨ると、車体を反転させた。
「帰るぞ」
遊星は言う。
「え、」
呆然と私は立ち尽くす。パーツ集めをしなくてもいいのだろうか。
そんな疑問を浮かべて戸惑う私の顔から、言いたいことを読み取ったのか、遊星は軽く息を吐き出して笑った。
「ラリーたちにはすまないことをした」
だから、早く帰るぞ。そう言って緩やかに笑いながら私の手を引く。嫌な予感が背筋を凍らせた。ミラー越しに映る顔は私のことなど素知らぬふりだ。
「もしかして、遊星…」
狙っているとしか思えないタイミングで、エンジンが稼働する。言う前に遊星がアクセルを踏んだので、私は言葉を飲み込んでしがみつくしかない。もしやこの男、何もかも全て知っていたのかと、私は幸せの中、敗北の気分を味わった。
悔しい。悔しすぎる。硬いヘルメットを遊星の背に思いっきり当ててやるが、こぼれる笑みは抑えられそうにない。

帰ったらラリーに謝ろう。そして固まった糸屑を丁寧に解いて、もう一度ひと針ひと針縫い直していこうと思う。



10/02/14 短編
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