1/1

この感情は言葉では言い表せないのだ。


ことばを食むものたち ― クロウ・ホーガン



部屋が明るんできている。薄く瞼を開けた先には、カーテンがぼんやりと淡い光を放って、たった六畳間の世界を温めている。私の体も包み込むような温かさで満ちていた。これは光のせいではない。
額に掛かる微風は僅かに湿気を孕んでいて、きっと触れたらしっとり濡れているだろう。少しだけ顎を上げて、風の元を辿る。何もかも忘れたように、気持よさそうに寝息を立てるクロウが、私をその腕にしかと抱きしめていた。

私の目は覚めきっていた。クロウより早く起きるのは珍しいことだ。配達業はまだ明けやらぬ頃から始まるから、クロウが私を抱いて寝ても、私がクロウを抱いて寝ても、いつも起きた時にはベットはしっかり私一人が占領している。だから休日に早く起きた特権として、もっとクロウの寝顔を見てみたくなった。
固く寄せられた腕を緩めるようにもがくと、クロウの口から甘い吐息が漏れる。思わずにやりとした。この際寝顔もいいが、悪戯してみるのもいいかもしれないと、我ながら変態くさいことをにやけ面で妄想していたら、重くのしかかっていた腕が浮いて、頭を撫でられる。無造作な手つきが寝起きらしく、「名前…?」というかすれた声と共に、私のむふふであははな邪な計画は、実行に移す前に終わりを告げた。
目元に皺を寄せて、クロウは私の額に軽く唇を寄せる。
「…おはよう」
これを幸せと呼ばずに何と呼ぼう。私は半身をクロウに勢いよく向ける。まだ意識も覚醒していないだろうクロウに、思いっきり抱きついてやろうと思ったのだ。
手を伸ばす。クロウ。
「…おは、」
よう。まで声が出なかった。寝ぼけ眼のクロウの、不思議そうな顔。いつもなら可愛くて可愛くて、柔らかいマーカーだらけの頬を何度も揉み回してしまいそうなものだが、
「どうしよう、首、つった」
もうこれ以上、動けない。

「…名前、お前大丈夫か?」
「いや、もう、だめ、しぬ、たすけてくろう」
「名前ーーーー!!」
「何をやっているんだお前らは」
あまりの痛みに、ベッドの上でクロウにしがみついていると、戸口からジャックの声がした。首筋がぴくりとも動かないので振り向くことはできないが、これは間違いなくジャックの声だ。好き合う男女が臥所を共にしている部屋を、ノックなしで開けるような無神経は、このポッポタイムではジャック以外に誰もいない。でも実際のところ、クロウも私もそれほど気にしていないのもおかしいのかもしれない。
とにかく、私が現世と冥界の挟間を行き来しているその瞬間に、ジャックが戸口に現われた。要するにそれを言いたかっただけだ。
心配そうに私の名を叫んでいたクロウは、ジャックが来たと分かると、さっきまでのクライマックスなノリは無かったかのように、いつもの明るい声でおうジャック!と返した。
「クロウの裏切り者…」
全然心配してないじゃんかこのやろうぶつぶつぶつ。痛みが伴った私の恨み事はまるで呪い文句のようだ。その様子にジャックが鼻を鳴らす。
「くだらんことをしてる暇があったら、さっさと降りてきたらどうだ」
まったく。なんて、私は何でジャックに呆れられているんだろう。すごく悔しいが、今はクロウにしがみついている方が心地いいので許してやろう。だけど首が治ったらなんか…あれだ。なんかしてやろう。
「悪ィ、名前が落ち着いたら行くよ」
「ふん、お前も大変だなぁ」
「ぐ、ぬぅ」
自分だってこれでもかというほど鬱陶しいくせに、人のこととなると途端に冷めた目で嘲笑ってくるのがジャックの特徴だ。自分はお前らとは違うなどと思っていることが丸わかりだ。お前はいつから別次元の人間になった。絶対に私たちと同じ領域にいるというのに、その事実をいつまでも認めたくないらしい。
無言で悔しがり始めた私にクロウは苦笑すると、寝違えたのだということをジャックに伝えた。ジャックの天高く響く笑い声。
「ははは、名前!普段から鍛えておかんからそういうことになるのだ!この俺はどんな事態も想定して日々トレーニングを怠らんぞ」
どんなキャラだお前は。くそう、こんな馬のつくアレと張り合おうとしていた私はもっとアレなんだろうか。高笑いが痛む首筋にぽんぽん当たって跳ねる。クロウが私の頭を撫でながら、大きなため息をついた。
「…お前だってほぼ食っちゃ寝じゃねぇか」
聞こえないふりをして階段を降りていくジャックの背に、大きな笑い声をぶつけてやった。ああ、首が痛い。

首が痛い首が痛いと思って気分が低迷していたところに、驚くべきことが起きた。なんと今日は、朝ごはんがパン一枚ではない。二枚になって間にジャムとマーガリンを挟めるぞ!とかそういうのでもない。いや、確かにそれもあるのだが、もっとも言いたいことは、テーブルの上に隙間がないということなのだ。
パン一枚に牛乳一杯が、ポッポタイムのガレージで居候している私たちの、このところの朝食メニューだった。だがしかし、どうだろう。まがった首でクロウに支えられながら階段を下りた先には、遊星自作の丸テーブルに所狭しと並ぶ、皿の数。一応言っておこう。皿の上にもちゃんと料理は乗っている。
一足先に座るジャックの前には、おいしそうな匂いを放って、チャーハンが湯気を立てていて、ブルーノの前にはとろけそうなほど瑞々しく光っているシュウマイ。今まさに椅子に座ろうと背もたれに手をかけた遊星の前には、茄子とピーマンがつややかに彩る牛肉の炒め物。
「何これこれ何どうしたの?!」
「一体何があったんだ?!」
首が痛いのも忘れて思わずクロウと共に叫ぶと、まあ、座れと言いながら遊星が口元を緩める。
「ゾラが作ってくれたんだ」
「俺たちがパン一枚で、昼抜き生活しているのを見兼ねて作ってくれたみたいだよ」
はぁ、ほんといい匂いだよねー。なんて気の抜けるような声を出しながら、皿に人数分盛り分けていたブルーノが嬉しそうに笑った。
「ふん、まぁあのばあさんも、たまには粋なことをする」
あくまで偉そうに鼻を鳴らすジャックを無視して、クロウと私は喜び勇んで席に着いた。ブルーノが料理を分けてくれたようだが、私たちの間にそんなものは意味をなさない。大皿に残っているものは誰が制するか、そこからが戦争なのだ。
みんなこの豪勢な料理を前にしても、ちょっと嬉しそうにゾラさんには感謝してるぜ的笑みを浮かべるだけで、いつも通りな風を装っているが、実際のところ互いに目も合わせず、目の前に置かれた料理だけを心の目でぎらぎらと見つめている。テーブルを囲んだ者にしか分らないこの緊張感。
温かな料理を前にして、空気が張り詰める。始まりの合図を送るのは、遊星だ。静かに口を開く。
「それじゃあ、いただこうか」
各自手を合わせて、頂きます。その一言を引き金に、私たちの朝の戦いは火蓋を切った。

はずだったのだが。なんということだろう。私は寝違えた首の痛みから、思う存分力を発揮できなかったのだ。
「ついてない…今日はとことんついてない…」
料理に騙されて少しでも今日は最高の日だ!なんて思った自分が恨めしい。だって幸福の後の絶望は、ただ絶望するよりずっと地獄に近い感覚なのだ。きっとそれを狙って悪魔が私にいたずらをしたに違いない。ああ、私のなんて馬鹿。
それにしても、私の幸運の女神さまはどこに行ってしまったのだろう。まだ愛想を尽かしていないのなら早めに戻ってきてほしい。どうせちょっとした旅行に出かけてるんでしょ。いや寧ろスーパーに買い物かもしれない。もしやトイレ?まあ何でもいいから早く女神さまカムバック!
そう言って唐突に皿を掴んだまま、両手を天高く上げ祈りのポーズをとる私に、クロウの冷静な声がかけられる。どことなく私を見る目が冷めているのは気のせいだと思いたい。
「おい名前、お前も十分食ったじゃねぇか」
クロウが呆れ顔で私を見る。クロウには分らない。目の前で次々と消えていくシュウマイをただ見送るしかできない自分の無力が。その苦しみが。
確かに遊星とブルーノが、いつもと違う私の様子に気を遣って、皿に少しずつ取り分けてくれたが、そんなんじゃ満足できないというのが本音だ。
そして私の隣で一緒に食器を片づけているクロウは、なんと食事中私のことなど一切合切忘れて、食欲と仲良くランデブーだったのだから、これほどまでに落ち込む私の様子も分かるだろう。
「ああ、まるで手のひらから幸福が滑り落ちていくようだ…」
「誰なんだお前は」
言って食器を洗っている最中も首が不自然に曲がりっぱなしの私に、流石に悪いと思ったのかクロウは突っ込んだ後、小さくつぶやいた。
「悪かったよ」
その一言だけで腹の虫が治まったのだから、私の愛の力は絶大だ。しかし、思ってもみないことが起きた。これは奇跡だ。いよいよ幸運の女神は長トイレから帰ってきてくれたらしい。皿を拭く手をそのままに、少し声をひそめながら、続けてクロウは言った。
何でもしてやるよ、と。


「至れり尽くせりってのは気分がいい。自分が愛されているのだと実感できる」
鬱陶しい。自分でも大声で笑い飛ばしたくなるほど鬱陶しい。だが言わずにはいられないのだ。だから声も高だかに言ってやろう。
「伝わる!伝わるかクロウ!私の鼓動の高鳴りが!」
「だぁぁあああうるせぇ!ちょっと黙っててくれ!」
引き攣った笑顔で叫ぶクロウは、只今私の首を丁寧に揉みほぐしている最中だ。そのおかげで起きがけより大分痛みが和らいできている。もうその痛みから解放されようとしているだけで、私のテンションは上がってきているというのに、これからのことを考えると心が異常なまでに浮かれて止めようにも止められない。
だって言ったのだ。クロウは確かに言ったのだ。皿を洗う私の横に寄り添って、一言。何でもしてやる、と。しっかりはっきりくっきり言ったのだ。
それはもう、私の口調がジャック語になるのも仕方がないだろう。

ジャックはD・ホイール付近で眉をひくつかせながら、自分のデッキと戯れている。遊星とブルーノは、何事も起こらなければいいと、時折こちらを気にしながら、少し離れたところでパーツの調節をしていた。
つまり、クロウと私の邪魔をするものは、一人もいないということだ。
「ふ、ふふ…」
だるんだるんに緩んだ口元から洩れる私の不気味な笑いに、クロウがどん引きしているのが感じられる。でも抑えられない。首筋の凝りをほぐすクロウの手が、それでも優しくうなじを辿る。幾度目かの感情の高ぶりに、私はまた弾けた。
「はーっはっはっはっは!」
「やかましいわ名前!黙らんか!」
「ゆーぅせーっ!!」
ジャックの怒鳴り声に重なって、まだ変声期を終えていないあどけない声がポッポタイムの扉を大きく開ける。元気な足音が二つ、駆け足に降りてくると、それに続いて透き通った声が遊星の名をもう一度呼んだ。
龍亞、龍可、アキ。遊星が振り返って立ち上がる。
「よく来たな」
その笑い顔に、三人が朗らかな笑みを返す。龍亞が躍りあがって遊星の隣へ駆け寄った。
「龍可とアキ姉ちゃんがバレンタインのチョコレート持ってきたぜ!」
「バレンタイン…?」
生粋のサテライト育ちの私たちには、その単語の意味がわからない。ついでにブルーノは記憶喪失で、都合のいいことにデュエルとD・ホイールのことしか覚えてないと来た。一様に頭にクエスチョンマークを浮かべる面々にアキが、
「ひと月も前から街中広告だらけだったはずよ」
と、幾ら旧サテライト暮らしでも知っていると言いたげに目を丸くした。それに龍可がにっこりと天使のような笑みを見せて説明してくれる。
「女の子が好きな人にチョコレートをあげる日なのよ?」
今では感謝の気持ちを込めて渡すことも多いけど、なんて可愛らしく付け足して、本命と義理があるということまで丁寧に話した。バレンタインというものをまったく知らなかった四人で、感心したように声を漏らす。その間も、律儀にもクロウは私の首を揉みっぱなしだ。これぞ愛、といった感じに私の口がまたゆるゆると緩む。
それまで一人ガレージの隅から様子を見守っていたジャックが、感心する私たちを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「企業が持ち上げたお祭り騒ぎに乗っからないとまともに気持ちも伝えられん、腑抜けた奴らの好くものだ」
くだらん。言うジャックが、今日は珍しく外にも出歩かずガレージの陰に潜むわけを、その時私は気づいた。二年もキングとしてシティ生活を送ってきたのだ。バレンタインが恋する女性の日ならば、ジャックが平穏無事に過ごして来られるわけがない。追いかけられたな、と直感的に気づいた私がにやにやとジャックを見つめると、嫌そうに眉を寄せて顔をそむけた。口元のにやけが止まらない。今日初めての私の勝ち星だ。どうやら本当に幸運の女神さまは帰ってきたらしい。
「で、名前は何をしているの?」
椅子に座ってクロウに肩を揉みほぐされている私の様子を見て、アキは不思議そうに首をかしげた。幸福感を隠そうともしない私の弛み切った笑顔に、少し眉を顰めつつ。
「ふふふふ…」
高ぶりを抑えきれない笑い声。きたきたきた!だってこのガレージでは誰も私の自慢話を聞いてくれないんだもの。そんなんで興奮が落ち着くわけがない。
「名前…?」
訝しげなアキに、いざクロウの一言を自慢してやろうと口を開く。
「あのね、アキ、」
突然クロウがぽんっと両肩を軽く叩いた。へっ、と間抜けな声を出して仰ぎ見ると、これでもかというほど晴れやかな笑みを浮かべたクロウが、私の頭を力いっぱい掻き回した。
「すっかりよくなったみてぇだな!良かった良かった!」
え、え、え?理解不能。私の思考は追いつかない。クロウは私の先の言葉を吹き飛ばすように笑うと、そそくさとガレージ隅を陣取るジャックを通り過ぎてブラックバードに跨る。
「ちょ、ちょっとクロウ?!」
すると、私の声も無視して、速効魔法もびっくりな速さでガレージを飛び出して行った。後ろ。いない。前。いない。右、左。…いない。
愕然と砂埃立つ街路を見つめる。数秒の沈黙と脳停止。
「に、に…」
逃げられたぁぁぁーーーー!!絶望的に叫ぶ私に、やはりどんより薄暗い日陰からジャックが嘲笑う。
「愛想を尽かされたというんだ馬鹿者」
今日の女神は腹を下しているのだろうか。それにしてはあまりにも絶妙なタイミングだと思う。
興奮しすぎた私は、ガスの切れた車のように、ジャックの一言にぷすりと音を立てて動かなくなった。


「クロウの馬鹿クロウの馬鹿クロウの馬鹿」
私は今、必死に呪文を吐き出しながらマーサハウスへの道のりを歩んでいる。というのも、ガレージの住人たちに強くそれを勧められたからだ。
無駄にうきうきわくわくしすぎた私は、その反動で完全に魂の抜け殻となった。不思議なほどに何もやる気が起きなかった。それもこれもクロウが休日だというのに、あれから何時間経ってもまったくガレージに戻らないことが原因しているとみて間違いない。
「することがないなら出掛けたらどうだ。貴様の覇気のない顔を見ていると苛々するわ」
「せっかくの休日だからな、出てみるのもいいかもしれないぞ」
遊星と、少々腹が立つがジャックの言うことはもっともだ。そういうわけで、いい加減何もせずに待つのも疲れた私は、クロウのことなど諦めて気晴らしにでも行くことにした。
空も青々と輝く気持ちのいい日だというのに、好んでガレージの埃に埋もれて籠もる三人とお客さんたちを置いて、私は気の向くままに足を運ぶ。どこに行こうか考えて噴水の前をぐるりと回ったとき、そういえばバレンタインはチョコを貰える日だったと思いだす。私もアキと龍可から貰えたところを見ると、貰う側にあまり性別は関係ないらしい。そこでにやりと行き先を決めた。
思い浮かぶのは、私の腰くらいしかない背丈の可愛いチビたち。
「マーサハウス!」
私は張り切って声を上げた。あそこなら疲れるまで遊んで、その上もしかするとおこぼれにあり付けるかもしれない。そういった下心丸出しで、私は意気揚々とマーサハウスへステップを踏んだというわけだ。

だがしかし運命のいたずらというわけか、同じような考えの人間はいるわけで、ただそれが想定外の人間だっただけだ。付き合っていると段々に似てくるというが、そんな狡いところは似なくても良かったと嘆きかける私の視線の先に見えたのは、恋人が好いてやまない黒光りする最高にクールな相棒ブラックバードと、その持ち主が子供たちと窓辺で楽しそうにはしゃぐ姿だった。
「ぐ、ぬぐぉお!」
敷地ぎりぎりの柱に抱きついて、悔しげに声を漏らす。なんてこった!私との契約、もとい約束をほっぽり出して子供たちといちゃいちゃしているとは…解せん!解せんぞ!
叫びたいがここは我慢だ。またクロウに逃げられたのでは恨み事を言う間もなくなる。
しかも一番納得できないのは、チビたちに抱きつかれて笑うクロウの手に、チョコレートが握られているということだ。クロウばっかり運に恵まれて、今日の私は寝違えるし、そのせいで年に一度も食べれなそうなゾラさんのほっかほかご飯を満足に食べられなかったし、ジャックには白星を押され、クロウには約束を反故、その上チビたちから貰おうと目論んでいたチョコレートまで、先にクロウの手に渡るとは!
もしかして女神さまはトイレとかではなく、永遠の旅に行かれたのかもしれない。運命の何と儚いことか。
「グッバイ・マイ・ラック…」
「…何やってんだお前」
がらりと音がして、首を上げる。柱に抱きついて俯いていた私を、まるで変態にでもあったような引き顔で見つめる。とても恋人に対する目つきとは思えない。
クロウの問いを無視して、私は今日ずっと胸の内に湧き上がらせていた一番の恨み事を吐き出す。
「この裏切り者」
クロウの顔がひきつった。

まだ立春も過ぎたばかりだというのに、いい大人が、マーサハウスの玄関口の柱に蝉のように抱きつく姿は我ながら不気味だ。苦笑するクロウの後ろから、あ、名前姉ちゃんだ!と喜ぶチビたちが顔を覗かせる。
「何やってるの?何ごっこ?」
「生き霊ごっこだよ〜」
「やめろ、洒落になんねぇ」
参った降参、とばかりにクロウが肩を竦めて両手を上げた。そしてちょっと待ってろと言って窓を閉めたかと思うと、何やら室内でばたばたと慌ただしく駆け回り、すぐに玄関口の戸が開けられた。それを後ろ手で閉める。
まだ柱に抱きついたままの私に、クロウが頭を掻く。
「悪かったよ」
今朝と同じように、ばつが悪そうにクロウが言った。もう騙されないぞという気持ちを込めてじとりと睨むが、朗らかに笑われてかわされてしまえば何も言えない。そして瞼に手をかけられる。
「ちょっと目を瞑ってろ」
「…何よ」
いいから。そう言うクロウに負けて、私は大人しく目を閉じてやった。

ふと、甘い香りが鼻を掠める。口に何かが押し込まれてきて、びっくりして目を開ける。
目の前に、クロウの顔があった。

室内から黄色い悲鳴が聞こえる。中からここは丸見えだ。
口の中に甘ったるいチョコレートが全て入ると、私とクロウの唇は完全に重なった。柱に回していた腕を解こうとすると、その前にクロウが柱ごと私を抱きしめる。
自分が押し込んだチョコレートを舐めとるように、クロウが舌を差し込んでくる。目の端には、窓からその様子を覗きこむチビたち年長組の姿。気恥しくなってクロウを押し返そうと胸板に手をあてた瞬間、扉が開いてクロウと私の頭に重たい衝撃が走った。
「ここは玄関口!やるなら自分たちの家でやりな!」
叫ぶその手には固いサンダル。マーサの強烈な一撃だ。私たちはあまりにも痛すぎるサンダル攻撃に、頭を押さえたままずるずるとしゃがみ込んでしまった。マーサに叩かれるなんて中々ない。今日の私は本当についてない。思って、痛いよりも先に、
「クロウの馬鹿」
と吐き出してやった。まだぐちぐち言いそうな私たちにマーサがもう一度サンダルをちらつかせる。
「悪かったって!」
私にかマーサにか分らないが、クロウが頭を抱えて大きく吠えた。そしていきなり私の手を取ると、その手のひらにぎゅっと何かを掴ませる。開いてみる。ぐしゃぐしゃに丸められた銀のホイル。
ぽかりと口を開ける私に、マーサがくすりと笑った。
「クロウがあんたのために作ったのよ」
「お、おいマーサは黙っててくれよ!」
そう言ってお互い玄関にしゃがみ込んだ体勢でマーサを見上げる。焦るクロウの仄かに赤らんだ顔とウインクするマーサを交互に見て、手のひらのホイルをそっとはがしてみた。

あ。一音。それっきり黙りこんだ私を、クロウがもどかしそうに待っている。それでも何も言わない私に、堪えきれずに口を開いた。
「好きな奴にあげる日なんだろ?お前が作りそうにねーから俺が作ってやったぞ」
早口に捲くし立てる。そのクロウの視線の先には私。そして私の手には、クロウの作ったチョコレート。銀ホイルの中には、いびつに歪んだ男らしすぎるチョコレートが、でこぼこと表面にクレータを作って包み込まれている。
「あ、」
私は言った。もう一度、一音。あ。気持ちが零れる。ぽろぽろとどんどん零れてくる。なのに言葉が出てこない。
マーサが軽く私の頭を叩いた。
「ほら、お礼は?」
口を開く。あ、の形に。クロウがじっと、その言葉を待ちわびている。
「ありがとう」
私が顔を真っ赤にして綻ぶように笑うと、クロウが嬉しそうにもう一度私にキスをしたので、二人でまたマーサにはたかれる羽目になった。

「そういうわけでジャック、今の私は最高に機嫌がいい」
「帰ってくるなり何なんだお前は」
人の顔を見るなり不機嫌そうに眉をしかめるジャックに、ずいと銀のホイルを掲げる。遊星たちのお帰りという声に返事を返すより先に、今最高に高ぶっている私は、ドアの前で大きく叫んだ。
「みんな見てーーー!これはクロウが私のために」
「だあぁぁあああぁ名前!ちょっと待て!!」
ガレージにブラックバードを収めたばかりのクロウは、どたどたと足を踏み鳴らして私の元へ疾走してくると、勢いよく口を押さえて外へ連れ出した。心なしか息切れが激しい。路地の壁に沿って私を立たせると、まだ怒ってんのかよと真っ赤な顔で汗を流している。
ううん、私はそれに首を大きく振った。興奮しきった私は、ふふふと、あのアキをもどん引きさせた笑いを洩らす。だって。
「だって抑えられないんだもの!」
そう言って全身でクロウの胸に飛び込む。衝動でよろけたクロウが、路地の反対側の壁に背をぶつけて私を受け止める。
「やっぱ敵わねぇな」
温かなため息とともに吐き出されたその一言で、私の体は今日一番の抱擁を受けた。
そうもう少し、あと少し。リターン・バック!私の女神さま!



10/02/16 短編
menu|top


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -