アウグストの十字架

 11.五十二日目の悪巧み





「優菜、」
ぼんやりとした意識の中で、彼の声が聞こえた気がした。目を開けてもそこに彼がいないことは分かっているのに、優菜は目を開けずには居られなかった。
頬に何かが宛がわれる。優しい温もりにまどろんでいた優菜ははっとして目を開けた。

顔を上げれば、そこにいたのは黒髪を風に靡かせた──…。



「り、おん……?」
「どうした?」
目を見開いた優菜に、彼は優しく笑う。あの綺麗なアメジストを柔和に細めて、ゆっくりと微笑んだ。

「正門で待っていたんだが…いつまでも来ないものだから気になって……。」
「ごめんなさい…電話してくれたらよかったのに…」
涙の跡をそっと拭って、優菜の髪を撫でる。まだ夢の中にいるような光景に、優菜は驚きを隠すこともできずに目を見開くばかりだった。
優菜の声に璃御は酷く悲しそうに微笑む。

「電話にも出なかったから…余計、心配だったんだ。」
「え…!」
驚いて携帯電話を開き、ボタンを操作すると確かに着信が五件入っていた。相手が電話に出ない時、余程急ぐ用事でなければ多少の時間を置いてもう一度かけてくる彼にしては珍しく、分刻みで着信が入っている。

「心配かけてごめんなさい……」
「構わないよ。」
目の前の彼はどれほど心配をしたのだろうか。申し訳ない気持ちでいっぱいになって、優菜は俯く。
しかし返ってきたのは穏やかな声で、その持ち主は優菜の長い黒髪を撫でると、その大きな腕の中に優菜を閉じ込めた。

「無事でよかった……」
抱き竦められて優菜は思わず身を固くする。硬直したままの優菜を強く抱きしめて、璃御は小さく呟いた。
その声に安心した優菜の視界は滲み、一筋の涙が頬を伝い落ちる。

「…どうしたんだ、何があった。」
「……なんでもないの。」
「なんでもないのに、どうして君は泣くんだ。」
「本当になんでもないの。平気よ。」
後ろに目があるのかと思うほどに、璃御は優菜の状態を言い当てた。心配性ないつもの彼に安心した優菜は目を閉じて璃御の肩に顔を埋める。


「……無理だけはしないでくれ。何があっても僕は君の味方でいるから…」
「ありがとう、璃御。」
ぽつりと聞こえた、不安げに揺れる声。その言葉を発した彼が酷く震えているのを感じて、優菜は彼の背中に腕を回したのだった。


「……」
璃御が肩越しに後ろを睨みつけた。鋭い紫水晶は酷く冷酷な光を放っている。
それがまっすぐに睨みつけたのはアイスブルーだった。向こうは気付かれていることに驚いたのか、近くの木に隠れてしまったが。


「敵は切り捨てればいい。君ほど気高い女性ならば、それができるはずだろう。なのに…」
意識を失った優菜に視線を移すと、璃御は壊れものを扱うかのような丁寧な手つきで彼女を抱き上げた。
蝋細工のような手足は少しの衝撃でもぼとりと落ちてしまいそうで、璃御が細心の注意を払って彼女に触れるのはそれが原因なのかもしれない。


「…君は、優しすぎるんだ。その優しさがいつか君の身を滅ぼすまで見ているだけなんて…僕には、できない。」
わざとらしく呟きながら『彼』の横を通り過ぎる。驚愕に見開かれたアイスブルーがこちらを見ているのを感じた。
だが璃御の視界に入っているのは、愛しい少女だけ。
彼女に好意を寄せる男なんて、璃御にとっては邪魔以外の何者でもないのだから。



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