悪夢は始まったばかり。


―シキ・クロユリside story―



どの時代でも、無知な馬鹿のままでは安寧に生きられない。
要領の良さに多少の狡さ、あとは運も重要かな。
無知であればあるほど利用され、簡単に汚されては捨てられる。

世は無情で無常。
絶望に落とされるのだって大人だとか子供だとか、そんなのは関係無いんだ。


「―――…」


例えば、とある廃墟に充満する生々しい鉄の臭いの中心に佇む、華奢な手に不似合いなナイフを持った十代そこそこの少女。
過去に憧れを踏み躙られ、憎悪を原動力に自ら血と闇に染まった闇花の女も、その一人だ。


「――…殺しが命令だとしても、いつもながら容赦が無いね、クロユリ」

「……気安く名を呼ぶな。アンタはこっち側の人間じゃないんだから」

「でも、敵ってわけでもないじゃないか」


随分と前に知った彼女の名前を友好的に口にすると、クロユリから向けられたのは冷たく鋭い視線と刺のある言葉。
見知らぬ相手でもなければ敵でもないというのに、その反応は酷いんじゃない?
まぁ、味方というわけでもないんだけど。


「今は、ね。命令さえあればアンタなんか直ぐに殺してやる」

「怖いなぁ。暗殺専門な君に狙われたら堪ったもんじゃないよ」

「心にも無いことを言うのが相変わらず上手いね、シキは」


ナイフに付いた血を振り落としてから専用のケースに仕舞い、用事は済んだとばかりに出口へと向かう彼女の隠されることの無い嫌味に、ついつい口角が上がってしまう。
実際に暗殺者を送り込まれたとしても、馬鹿じゃない僕は回避どころか返り討ちにしてやる自信が大いにあるからだ。
それだけの知恵も技術も、僕にはあるからね。


「ああ。そういえば君の飼い主は元気かい?」

「ヒョウ様なら、変わりない」

「ヒョウ様、か……随分と従順になったもんだね」


僕の知るかぎりでは、クロユリは従順な人間ではなかった。
まだ無知で心が自由だった頃は、国の権利者に仕える一族間の争いに無関心で。
心のままに唯一のお姫様を敬い、天才的な才能に嫉妬を抱きつつも一人の白髪の男に憧れていた彼女。
そんな割りと平穏だった彼女の世界は、突然終わりを迎えたのだ。


「ベニカゲが、お姫様を誑かして二人で消えた日。君は慕っていた人を奪われ、憧れを踏み躙られた」


その日を境にクロユリは変わってしまった。
尊敬を、憧れを粉々に打ち壊された彼女は深い憎悪を抱き、無知であったからこその心の自由を放棄して国への忠誠を固く誓う。
そして、今では権利者の一人であるヒョウという男に気に入られるまでとなったクロユリは、正真正銘の国の忠実なる駒となった。


「――…アタシは生温い幻想から目が覚めただけ。変わったんじゃなく、闇花一族の使命に従っているだけだよ」

「従順で大人びたことを言ってはいても、中身はてんで子供だね」

「馬鹿にしてるわけ?」

「違うよ。僕はそんな君だから、好きなんだよ」

「……馬鹿にされてた方がマシだった…」


心底嫌そうに溜息を吐く彼女の傍らで、愉しげにクツクツと喉を鳴らして笑う。

クロユリはまだ知らない。
彼女が憧れたベニカゲと、慕っていたお姫様、ジエンが去った本当の理由を。


「――…ねぇ、クロユリ。この先に何があっても、君は国への忠誠を貫けるかい?」

「そんなの、当然でしょ。」


そうやって、何も知らない君はどんどん深みに填まっていくんだよ。
君が真実を目の当たりにした時には、きっともう後戻りなんてできず身動きできない状況にまで追い込まれているんだろうね。
さて、幻想から目が覚めたという君は、いつこの絶望に気付くのか。


「シキのくだらない話に付き合うつもりはないよ。バイバイ」

「くくっ…またね、クロユリ」


好きだよ、君が。
これからもあの陰険な飼い主に、国に踊らされる姿を僕に見せて。
君が知らない真実を僕は知っているけれど、簡単に教えてしまってはつまらない。
心底待ち遠しいけど、楽しみは後に残しておくとするよ。


「世界に欺かれていることに気付いていない君は、無知が故に悪夢を彷徨う」


悪魔なんかが囁きそうな不穏を纏った言葉は彼女に届くことはなく、ただ闇に消えていくだけで。
彼女に訪れるであろう残酷な運命に思いを馳せて、その悪夢をどう掻き乱してやるかを考えながら僕もアジトに戻るとしよう。



悪夢は始まったばかり。


(君が上手に踊れたら、)

(その悪夢から君を攫ってあげてもいいよ)

(その後の保証しないけどね。)



―――――
独自の立ち位置を持つ彼ですが、シキはヒーローにはなれないし、ならないタイプです。


2012.5.18




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