目と目が合った、その瞬間
賑やかだった昼間とは一転して、日も落ちかけ人気のない校舎はとても静かで、一人分の足音が廊下によく響く。
そして、校舎内に響いている音はもう一つ。
足音の主はその小さく鳴り響く音を辿るように歩を進め、行き着いた先のドアを躊躇いなく開けば室内の奥に居るであろう人物を視界に映す。
「――…今日はピアノなんだね、センセ」
「……すみませんね、噂のピアニストではなくて」
「…別に期待とかしてないから。そんな嫌味っぽく返さないでよ」
“無人なはずの音楽室から響く謎のピアノの音”
そんなホラーめいた噂が流れ始めたのはいつの頃だったか。
吹奏楽部の活動時くらいにしか開かれない西校舎の五階にある第二音楽室。
二つある鍵の一つは音楽担当教諭が管理していて、もう一つは職員室のどこか、生徒が知らない場所に保管されているらしい。
なら、謎のピアノの音は音楽担当教諭のものではないのか、と考えるのがセオリーだろう。
しかし、その音色を耳にしたことのある人物は揃って否定するのだ。
伸びやかで繊細だけど、どこか不器用なあの音色はその教諭のものではないのだと。
そんな謎めいた噂の舞台となっている第二音楽室。
時刻は学校中の部活動がとっくに終わっている時間帯。
そんな時間に音楽室に居合わせたのは、音楽担当で少々嫌味っぽい男性教諭に、これまた少々生意気な印象を受ける女子生徒。
ただの教師と生徒というには大分砕けた様子の二人であった。
「君はまた、こんな時間まで居残ってたんですか」
「………図書室で読書してたんだよ」
「とか言って、棚で死角になる所で寝ていたんじゃないですか?」
「な…っ」
「よかったですね。内側からでも鍵が開けられる図書室で」
図星を突かれあからさまに表情を変える彼女を見て、全てお見通しだと言わんばかりに、にこやかに笑む教師の男は俗に言う性悪だ。
普段は猫を被っているだけあってその一面を知る者は少ないものの、多少の意地の悪さは滲み出るらしく校内での彼の印象はそこそこといったところ。
これが謎のピアノの音色が彼のものではないと言われる理由の一つであった。
「音楽室の次は図書室が噂の舞台になったりして、ね?」
「――っ、先生はその性悪をどうにかしたほうがいいと思うよ」
「それはそれは、ご忠告どうも」
クツクツと意地の悪い笑い声。
彼女の憎まれ口など涼しげに躱しては、反応が面白いというようにからかって遊ぶ教師。
彼のその余裕綽々な態度に悔しさを抱きつつもピアノの傍にまで来れば、彼女は片手を伸ばして白い鍵盤に触れた。
指先に力を込めた瞬間に響いた高音が空間に溶ける。
「……ねぇ、どうして今日は先生の音じゃないの?」
疑問を問い掛けるにしてはあまりにも抑揚の無い声が彼に向けられた。
その声の主に視線をやるも、彼女は鍵盤を見つめたまま静かに告がれる言葉を待っていた。
「――…何故、俺の音ではないと?」
「先生にしては力強さが足りない……というより、わざと柔らかく弾いてる感じで、不器用な音になってた。まるで……」
「謎のピアノの音、みたいな?」
彼女の言葉を遮った彼の声は確信めいたようにはっきりしていた。
しかし、彼女はその確信に肯定を示すどころか首を横に振って否定を表す。
ゆっくりと彼に向けられた瞳は、疑問というよりも困惑に揺らいでいた。
「違う。まるで…――」
謎のピアノの音に、似せているようだった、と彼女は言った。
それを聞いた彼は彼女の言葉に驚くこともなく暫し沈黙していたが、ふと盛大に笑いだした。
「……何が可笑しいのさ」
「いえ、ただ……よく聴いているものだな、と」
「授業だけじゃなく休み時間や放課後にでも聴こえてくれば嫌でも分かるよ」
「嫌でも、ね…」
音楽担当教諭なだけに彼はいろんな楽器をそれなりのレベルには扱えるほどの技術を持っていて、中でもピアノの腕はプロ並だと評判であった。
しかし、少しばかり癖があって力強くも優雅な音色は誰にでも出せるものではないが、彼だって誰かの音を真似できるほど器用な弾き手ではない。
もっとも、聴き慣れているとはいえ個人の音色の差異に気付ける人間は極少数であるはずなのだが。
「――…君、ピアノか何か楽器やってましたっけ?」
「授業でなら、いろいろやってるけどね」
「では、噂のピアノの音を聴いたことは?」
「それはあるけど……あの音色はあまり好きじゃない」
投げ掛けられる質問に答えていく口振りは、いつもと特に変わった様子はない。
だが、彼は見逃さなかった。
好きじゃない、と口にしたと同時に逸らされたの彼女の瞳が、翳りを帯びていたことに。
「ねぇ、ちょっとだけ弾いてよ。今度は先生の音で」
「……まあいいでしょう。では、室内の窓を閉めてもらえますか」
「はーい…――って、あれ…?」
言われた通りに窓を閉めようと手を掛けた刹那、ふととある違和感を覚えた。
彼女が居た位置から一番近い窓はピアノの前で、椅子に座っている彼のすぐ後ろにある窓。
この室内で開いていた窓は、その一箇所だけだったのだ。
そして、その窓から見えた景色に彼女は、あることに気付かされることとなる。
「――…知ってますか?力強い音は男が、柔らかい音は女が得意とすることを」
「……それが、何?」
「伸びやかで繊細な音を奏でられるのに、誰かの真似をして不器用な音色となっていた謎のピアニストは、恐らく自分の音に自信が持てない生意気で素直じゃない女。」
「………」
「本人がどうであれ、俺には出せないあの音色が、俺は好きなんですよ」
ただ一箇所だけ開いていた窓から見えたのは、中央校舎にある、とある一室。
古い本ばかりが置かれる棚の奥は入口から死角になるものの、心地よい陽射しが降り注ぐとっておきの穴場。
彼女が、この音楽室に来る前に居た場所であったのだ。
「――…先生は、ここに誰が来るのか最初っから分かってたってわけか」
「さぁ?それはどうでしょうね」
互いに背を向け合っているため相手の表情など分かりはしないが、彼女には今の彼が何食わぬ顔で笑っているのだろうと容易く想像ができて溜息を零す。
静かに窓を閉め、振り返った彼女の視線の先は自身を手の上で踊らせていたであろう彼の後ろ姿。
「――…隣の準備室、随分前から鍵が壊れているんだけど、知ってた?」
「……ええ、勿論。そして確か、それは…――」
丁度、あの噂が出回った頃から、と思い出したように言う彼はやはり性悪だ。
思い出すこともなく、それこそ最初から気付いていたくせに、素知らぬフリをしているのだから。
「その性悪、やっぱり直したほうがいいと思うよ」
「その性悪が奏でる音を好む君が言えたことですかねぇ」
「……それは、ちょっと不正解」
「不正解…?」
目で見ずとも窓が閉まったのが分かったようで、彼女の要望通りにピアノを弾こうと鍵盤に指先を触れさせたのだが、彼女の意味深な言葉にその指は音を奏でることはなく。
おもむろに振り向けば、その先には生徒でも少女でもなく、魅惑的な女の顔で笑う彼女の瞳と視線が交わった。
「性悪が嫌いだなんて、アタシは一言も言ってない。」
目と目が合った、その瞬間
(生意気で素直じゃない謎のピアニストが好きになったのは、)
(音色だけじゃないんだよ)
―――――
何が書きたかったんだか支離滅裂になりました。
彼女は自分の音に自信が持てず、彼の音ばかりが良く聴こえて真似して弾いてみたものの、やはり自分の音ではないため不器用な音色になってしまっていたんですね。
そして、教師の彼は噂のピアニストが彼女だと最初から知っいて、他者の真似をする理由にも気付いていたからこそ、敢えて彼女の音の真似をしたんです。
“誰かの真似をしなくても、君の音を好む人がいる”と伝えるために。
まぁ、かなり遠回しな伝え方ではありますが。
2012.8.4