美しい君の、泣き顔。
ポタ、ポタ、と。
地に落ちる水音を耳にしても、雫が地面や自身の体を濡らしていても、その場を微動だにせずに佇む青年が一人。
降り掛かる冷たい雨など気にもせず、空を見上げる彼の表情は誰が見ても心在らずといった様子だ。
「……泣いているのか?」
雨音に紛れた足音が一つ。
数歩という曖昧な距離で止まった足音の主は、声色からして女。
さっきまで雨でも微動だにしなかった青年が、その女の声でようやく反応を表し、声が発せられた方向を向く。
「………」
「……辛いか…?」
「………」
「…悲しいか?」
「……いや…」
「じゃあ、何故…」
瞳を閉じたままなのだ、と。
その言葉通りに瞳を閉じたまま、自分の方を向く彼に女は問い掛けた。
「…知りたくない」
「………」
「君の姿まで、なんて……そんな現実なんて知りたくない…っ」
「……愚かなことだな…」
返されたのは、悲痛な叫び。
つい最近、彼は不慮の事故に遭い生死の境を彷徨う程の重体から持ち直したものの、両目の視力を失ってしまったのだ。
その事を踏まえて、はた目からすれば、ただ彼が現実から逃げているように見えるだろう。
しかし、彼が逃げているのは現実ではない。
他者からは理解されにくい非現実的な事実から、逃避したがっているのだ。
「――…本来ならば、アタシの姿など見えないのが常人ぞ」
「でも俺は見えていた。だから、今は世界の色よりも……君の姿を失うほうが怖いんだ…!」
「…まったく、光よりも闇を選ぶとは、君はとことん変り者だね」
怖いと心底から明かす青年の目元からは雫が溢れ、頬を濡らしているようにも見える。
それが涙なのか雨なのかは定かではないが、女は空いていた曖昧な距離を詰めて自身が差していた和傘の中に彼を入れる。
ゆらりと伸ばした手で頬を撫ぜては指先で目元を優しく拭った。
そして、先程よりも和かく優しい声で言葉を紡ぐ。
「アタシは妖だ。妖は視力で見えるわけじゃない」
「……じゃあ、それなら…っ」
「ああ。でも、妖は闇そのもの……視力を失った君が見えるのは…っ、妖だけだ」
「それでもいい。例え気の触れるような闇でも、君の姿さえ見失わないのなら」
自らを妖と述べた女は皮肉なことだと嘲笑っていた。
目の前の青年は妖を見ることが出来ても、人間である以上は彼は光の存在であり、妖の自分は闇の存在。
所詮は相容れぬものだと思っていたのに、彼は、光を手放してでも闇を求めたのだ。
そのなんと浅ましく、愚かなことだろうか。
「……その想いが、身を滅ぼしても知らないからな」
「それでも構わないさ。むしろ、この想いを貫けるなら人間を捨ててもいい。」
「滅多なことを言うのはお止め」
人間を捨てる、など軽々しく言うものではないと咎める一方で、心の底ではその想いを嬉しく感じる自身に妖の女は苦笑する。
きっと、盲目なのはお互い様なのかもしれない。
「…さぁ、目を開けてごらんよ。何が見える?」
「――…君の持つ、赤い傘と…」
美しい君の、泣き顔。
降り続ける雨音は聞こえているけれど、当然ながらその雨粒や景色は見えなかった。
それでも視力という光を失ったはずの俺が見たのは、鮮やかな赤い傘の下で涙を流す君の姿。
その、初めて目にした泣き顔を前にして、これまでの事実に一番悲しんでいたのは俺ではなく。
他の誰でもない、彼女だったのだと、気付かされたのだ。
(俺を愛したからこそ、)
(人間である俺に光を失ってほしくなかったのだろう)
(人間よりも、世の理を知っている君だから)
―――――
盲目な青年と妖な女の切甘なお話でした。
【補足】
妖の女は人間を愚かだと言うも、長い刻を過ごすうちにその人間の愚かさに愛しさを抱いていたんです。
だから前作(小さき彼)では人間に対する見解を曖昧に語っていました。
今作は、女が人間である青年を愛し、青年も妖の女を愛したからこそ人間である彼に光と闇の境界をしかと理解させておきたかったのです。
人間は光の存在で、妖は闇の存在であるのが世の理。
妖を愛することで闇に偏らず、光を失わないように。
しかし、青年が視力を失い光と闇の境界があやふやとなるどころか、自分の想いを貫けるなら光を手放してもいいのだと言う彼があまりに真っ直ぐ過ぎて。
世の理に反しても妖である自分を愛し求めてくれるのは嬉しいが、人間である彼に闇に堕ちてほしいわけではなく。
視力を失って妖しか見えなくなった彼の事実という現実が悲しくて、彼の自分への想いが切なくて喜べないのです。
2012.1.28