千の純色相愛物語。
あれは13歳の春のことだった。
日差しは温かく、柔らかな風が心地よいと感じる穏やかな日。
大きくも小さくもないが古くからあるという寺、親も身内もない孤児を有難くも世話してくれる場所に身を寄せていた俺は、出会ってしまったのだ。
「―――…っ」
寺の一角に聳える一本の大きな木の上で、咲き誇る桜花を愛でる、花よりも美しい女に。
「……今思うと一目惚れだったのかもしれない」
「…いきなり何の話だい?」
「ちょっと昔のことを思い出しただけさ」
あの13歳の春から時は流れに流れ、指折り数えてみれば10年が経っていた。
俺は少年から青年にへと成長し、周辺の景色も様変わりしたというのに。
酒の入った盃を片手に、隣に座る女はあの頃のまま、瑞々しい美貌を誇っている。
いや、むしろ美しさがより増したと言っても過言ではないだろう。
俺はこの女に恋をした。
そして、この女を愛した。
人間ではなく、妖の女を愛してしまったのだ。
「――っ千歳、くすぐったい」
「ああ、ごめん。…目が見えてないもんだから」
「白々しいったらないねぇ」
細い腰を引き寄せて、癖のない黒髪の間から覗く白い首筋に顔を埋めれば、擽ったいと身動ぐ彼女。
我ながら下手な戯言だと思う。
盲しいた目に映るのは闇だけ。
妖は闇の化身だ。
それが幸いして俺は彼女の姿を失わずにいられたというのに。
「…神無」
「こら。おとなしく酒も飲めないのかい」
「酒よりも魅力的なものが傍にあるもんだから、つい」
「やけに今日は戯言を好むじゃないか」
つい不純な…否。
健全なる男の純粋な欲に煽られるがまま、衿の合わせ目に手を滑らせると、すかさずパチンと手を叩かれた。
さっきのは仕方ないとしても、今の言葉まで冗談と扱われるのは心外な限りだ。
小さな笑みを湛えて盃に唇を寄せる彼女の何とつれないことか。
「…神無、ねぇ」
「どうかした?」
「いやね…妖に、名前を付けるだなんてさ、酔狂な人間もいたもんだなぁ、と」
「それは君の本名が長くて呼びにくかったからだよ」
千年桜。
それが彼女の正体であり、真名といえるものだ。
本来なら千年桜と呼ぶべきなのかもしれないが、俺個人の感覚的にその名前はちょっと長すぎる。
そんなことから考えた呼び名が“神無(かんな)”だった。
長い刻を生き、特異な力を持ち、世の理をよく知る彼女。
厭世的で否定的かと思えば、時に慈愛深く感傷的で。
闇の化身という割りには不浄などとは無縁な容貌でいて、いっそ神聖なものにすら感じるというのに。
自分は神などでは無く、卑しき妖だと、彼女は言うのだ。
「神では無いと明確に表してることだし、妖の仮名としては上出来だと思ってるけどね」
「そう言うなら、俺が喜びそうな褒美が欲しいところなんだけど」
「…やれやれ。そうやって、すぐ調子に乗るところは君の悪い癖だねぇ…」
咎めるような視線を向けて、呆れ混じりの溜息を零しつつも静かに盃を盆に置く彼女に自然と口元が緩んでしまう。
つれない態度であしらわれるのが多いが、最終的には何だかんだで俺を受け入れてくれる彼女が可愛い。
神無に愛されているのだと、実感できるこの瞬間が実に堪らない。
こんな時、彼女が神ではなく妖で良かったと心底思ってしまう。
神というのは、全てにおいて平等でなければならない存在だ。
もし彼女が神だったら、こうして一人の人間を、俺だけを愛してはくれなかったのだから。
「…千歳、その締まりのない顔をどうにかしてくれないか」
白く優美な手を俺の肩に添えて、端正な顔を近付けてきた彼女が表情を顰める。
仕方ないじゃないか、なんて幼稚な言い訳をしたら気紛れな彼女は離れてしまうだろうか。
そんな考えが浮かんでは折角の好機を無駄にしてしまうのが惜しくて、俺はそっと大人しく目を閉じることにした。
「……神無も悪くはないけどさ、アタシとしては、たまにはお揃いの名も呼んでほしいものだね」
「――!」
甘さを帯びた囁きが鼓膜を震わすと同時に、脳が痺れたような感覚を覚えた。
まったくもって、やられた。
その一言に、思考は完全に持っていかれてしまったというのに。
追い打ちを掛けるかのように唇を重ねられてしまえば、一度抑えたことで増幅した欲が自身を苛む。
いとも容易く崩壊へと揺らぐ己の理性には、意図せずとも苦笑いが浮かぶ。
記憶の彼方にある、あの懐かしき日に感じた純粋な愛しさを思い出しながら彼女の真名を紡ぐ。
すると、あまりにも可愛く笑うものだから、とうとう我慢できず、その唇に食らい付いてしまったのだった。
千の純色相愛物語。
(……アタシの姿が見えるのか、人の子よ)
(…き、みは…?)
(千年桜…数多の桜を眷属に持つ妖さ。人と言葉を交わすのは久しぶりだねぇ。坊、名は?)
(…ち、千歳)
(千歳…?…千年と千歳、か……なんだ…―――)
(――っ!)
(お揃いだな)
出会ったあの日。
お揃いだと紡いだ君の、どこか嬉しそうな色を浮かべて綻んだ花の微笑が…―――
堪らなく愛しく思えたんだ。
―――――
四話目にして初めて二人の名前を出すことが出来ました。
妖の女は神無(かんな/千年桜)、人間の男は千歳(ちとせ)。
千年は“ちとせ”とも読み、千歳は千年を意味することもあって、折角なのでお揃いの名前にしてみたり。
2013.7.24