「結婚しよう」
という言葉のあとに彼が、あっ、と小さく叫んだ。わたしは彼の口から出た甘くて重い言葉に頭がついていかない状況だったので、ついつい逃げで、それに触ってしまった。
「あっ、ってなに」
「ごめん」
「なんなの、しまった、とでも言いたいの」
「よくわかったね。さすがだ」
やっぱり馴染みのある苦くて軽い言葉のほうが頭にすんなり入ってくる。ちくしょう、喜んだわたしがばかみたいじゃないか。
「しまった、って思うくらいならそんなこと言わないで」
「うん。おれもね、まさかだったんだ」
わたしが下を向いて必死に涙を堪えているのに、彼はのんきに微笑んでいる。憎たらしい。なんなんだこの男は。
「まさかってなにが」
「いや、だってさ、まさかうどんを啜るみたいにつるんって口から出るとは思わないじゃないか」
結婚しようがだよ、プロポーズの言葉がだよ?まさか、しまった、もっときちんと告げるつもりだったのに。
…頭がくらくらする。なんなんだこの男は。どうしてそんな、あっけらかんと、いつもと同じ表情でいられるの?
わたしはあいかわらず下を向いている。涙を堪えるためじゃない。赤くなった頬を見られたくないからだ。彼の口が無意識に動いたこと。それに途方もないくらいの愛情を感じてしまって、どうしたらいいのかわからないからだ。
わたしだってロマンチックな(薔薇の花束や夜景とともに、みたいな)プロポーズをされたいと思ったことがある。それが理想だと。だけど、ちがった。自然に口から溢れてしまうような言葉こそが、きっと真実なのだ。
「ばか、うどんを啜ったら飲みこんじゃうじゃない」
照れ隠しにこんな言葉を使ってしまう。そんなわたしだけどいいの?と声音で訊く。彼は、うん。と眼ざしで答える。
「いいじゃないか、細かいことは。おれたちはうまくいくよ。それでいいじゃないか」
なんとまぁ。でも、そうだね。このままうどんを啜るみたいにつるつるうまくいく気がする。
そう思わせてくれる男に感心したし、そんな男に結婚しようなどと言わせたじぶんが少し誇らしくなった。
「ああ、うれしい」
「うれしいか。よかった」
「うん、うれしい。だから、このまま寝よう。細かいことはまたおいおい決めていくとして」
わたしの頭は湯あがりみたいにほわほわしていた。とっても気分がよくて、口角が上がってにこにこする。
「そうだね、寝よう、それがいい」
「寝よう、寝よう」
わたしたちは寝室に移動し、共用しているふとんに潜りこむ。
「おやすみ」
彼がカチリと寝室の電気を消した。
「おやすみ」
とわたしも言った。うーん、どうやら今夜のことは生涯忘れられないな、としみじみ思って瞼を閉じた。明日の朝はうどんにしよう。
−−−−−−−−−−−
てんてんてんつく、てんつく、べべんっ。
はっ、太鼓と三味線、響かせ、お囃子、ゆるりと現れ、客席見回し、首をこきこき、布団に座り、喉を湿らせ、エー、
「ワタクシ、すきな男がおりまして、」
目を瞑って、片肘をついて、授業中になにを想像しているんだか。パチ。おもむろに目を開けて、黒板に書かれた数式を見つめる。
この筆蹟は…、一目でわかる、古典の世界じゃないんだから、と自嘲する。この筆蹟は古賀だ、公貴だ。わかるよ。すきな男の筆跡ぐらいは。
(なんて滑稽なんだろうね。落語にでもして笑われないと、成仏なんてできやしない)
今すぐ教卓の上に正座して、噺をしてやろうか、お客さァン、手を叩いて笑ってくださいネ?
てんてんてんつく、てんつく、べべんっ。
「エー、ワタクシ…、」
「エー、じゃあ、問4を手嶋、」
やってんらんねぇなぁ、現実、おれは噺家じゃないし、教卓に座る勇気もないし、古賀公貴はおれを見ないし、筆蹟だって知らぬにちげぇねぇ。
くっそ、くっそ、くっそ、くっそ、くっそ。
「わかりません」
問4もこの想いの成仏の方法も、なぜじぶんがこんなにイライラしているのかも。
−−−−−−−−−−−
「淋しいから恋をしたんじゃないだろうな?」
青八木が射るような目で射るような声音で、射るような言葉を発した。なんて失礼な奴だ、と一瞬、激昂しかけて、一瞬でニュートラルに戻る。そりゃあ、青八木だって心配するさ。なんてったって、古賀に恋をする前のおれときたら、死にそうなくらい淋しかったから。
「そんなことないよ」
淋しさは恋を彩る甘美なスパイスだ。淋しければ淋しいほど、恋は燃えあがり、瞳はくもる。不倫に溺れる男女が多いのも、この論理で説明がつく?会いたいときに会えない恋人、つのる淋しさ、さらに、その愛しい人は夜な夜なじぶん以外を抱いているのだ!
ふん。今、反芻しても死にたくなるね。よくもまぁ、12月26日の夜を指折り数えてまてたなぁ、おれ。
そうだ。淋しさは心にぽっかりと穴を開けて、人はその穴をなにかで埋めようとする。なにか、そう、たとえば、たとえば…、
(新しい恋とか)
むむぅ、と眉間に皺がよる。よく考えたら、淋しいから恋をしたのかもしれない。古賀のやさしさを利用して、穴を埋める、たりないピースにしちゃったのかも。
無意識だったからさ、無自覚だったからさ、ゆるして?なんて、そんな無責任なことを言うつもりはない。言うつもりはないけれど、一言、あやまるべきなのかも。
「あのさ、青八木の、言ったとおりかもしれない」
「淋しいから恋をした?」
「そうかも、淋しいから古賀を利用した、のかも…」
「おれはそれでもいいけどねぇ」
ふりかえると、呆れた顔をした古賀が立っていた。そういえば、おれはこのカフェで古賀をまっていたのだったわ、と忘れていた目的を思い出す。空いていた椅子に滑りこんだ古賀に、いつから?と訊くと、淋しいから恋をしたんじゃないだろうな?から、と返される。つまりは、はじめからってことね、オーケー。
「……恥ずかしい」
「そお?すみません、アイスコーヒー、ミルクなしで」
「古賀、それでもいい、って?」
おれなら利用されるのはいやだけど、と青八木が訊いた。だって、だれかの代わりってことだろう?
それに古賀は、青八木らしいね、はじめから唯一になりたいんだ?おれは利用されるのも縋られるのも、それが恋愛なら、きらいじゃないから、だから、
「はじまりなんてどうでもいいよ。今はおれしか見えてないようだし?」
ねぇ?とアイスコーヒーにガムシロップを注ぎながら古賀が言う。そうです、古賀はいつも半分だけガムシロップを注ぐのです、こういう、些細なことをあたりまえのように知っている、あたりまえの知識じゃないのに。
「そうやって、甘やかすから、おれはどんどんばかになってく…」
やさしさは恋を飾る甘美なスパイスだ。やさしくされればされるほど、恋は粘り、瞳は蕩ける。愛されることがあたりまえになって、日常になって、砂糖に浸かって離れられなくなっていく。
「不粋な質問だったな」
青八木の、はぁ、と呆れたため息が響いた。
−−−−−−−−−−−
公貴が百万回「愛してる」って言ってくれたら、朝までぐっすり眠れるかもしれない。
あいつの「おまえはどうしたら一人で眠れるようになるの」という問いにそう返した。何回めかもわからない、不眠症からくる茫漠な夜の暇潰しに狂言自殺で呼び出したのだ。あいつはけっして必死に駆けては来ない、のんびり闇を満喫しつつ、さらにはコンビニでアイスクリームを買ったりなどする。が、来てくれる。ぜったいに。
そのぜったいが欲しかった。この長々し夜を一人かも寝む、そういう運命のおれにも、変わらないものがある。夜と同じくらいぜったい的に、変わらない生きものをおれは知っている。それは信用であり、安心であり、また依存でもあった。
だから、おれはこの途方もない夢のような数字の行為をあいつなら遂行してくれると知っていた。
けれど、じっさい、「わかった、いいよ」と言われると、どうしたらいいのかわからなくなるのね。
「わかった、いいよ、愛してる」
きちんと数えておいてくれよ、それと、約束は守ってくれ、言い損なんてごめんだからね。
言い聞かせるように承諾の言葉を二回くり返して、語尾に一言、愛してる。どうしたらいいのかわからなくなるのね。おまえの口が、あ、い、し、て、る、おまえの喉が、あ、い、し、て、る、そう動いただけなのに、たった五音で舞い上がりそう。
ああ、どうしよう、どうしたらいい。おれはどうやら、思っていた以上におまえに惚れていたらしい。
「眠くなった?」
「いいや、目が冴えた」
「そう。でも、横にはなった方がいいよ。少しでも」
この男にそれを知られるわけにはいかない。ここまで頼りに生きておいてなんだが、こいつは来年、結婚するのだ。
そして、こいつはおれが縋れば、全てを捨てて共に果てまで逃げてくれる、ぜったいに。そう、おれのランプが鳴っている。このままこいつの、人生、めちゃくちゃにしていいのか?
「おまえ、おれの横に寝るの?」
「人肌がないと眠れないって騒いだのはおまえだろう」
「そうだっけ?」
とぼける、ほんとは憶えてる。隣に寝て、抱きしめてくれないと眠れない。そう言って駄々をこねた夜のこと。おまえはおれの髪をずっと撫でてくれたね。うれしかった、安心した。もうおまえを離さないと思った。
大人が子どもになったとき、ゆるしてくれる存在を人はみな求めてる。おれにとって、それはこいつで、こいつにとっては、きっとおれじゃない。
その証拠に、こいつは来年、結婚するのだ。
(年が明けたら、年が明けても、年が明けたら、年が明けても、明けたら、)
正月生まれの女のために、元日に籍を入れるなんてばかげてる。そんなことしなくたって、女の生まれた日は他人の記憶に残っているじゃないか。なんでもない日に生まれた、なんでもないおれよりよっぽど。
なぁ、だから、公貴、年が明けても、おれの暇潰しにつきあってくれる?
でも、さぁ、公貴、年が明けたら、おれのことなんて捨てちゃえよ。
相反している。どちらが本音だろう。どちらも本音だろう。
どちらの願いが叶うのか。それがわかるまであと五ヶ月を切っていた。
「おやすみ」
−−−−−−−−−−−
恋愛では、いつだって、恋をしたほうが敗者だ。アダムとイブの時代から決まってる。おれは敗者だ。それも圧倒的な。
けれど、どうしてだろう。おれは心地よかった。ロードレースで負けたときはいつも、悔しくて悔しくてはらわたが煮えくりかえりそうになるのに、どうしてだろう、古賀公貴の魅力に負ける、そのときだけはたまらなく心地よかった。
恋愛では、いつだって、負けを楽しめたほうが勝者だ。これもきっと、アダムとイブの時代から決まってる。敗北の味を甘く感じた、者だけが辿りつける恍惚というものがある。
そして、その恍惚は、予期される背徳感によって生まれるのだ。
背徳?例を出そうか、たとえば、おれは、古賀公貴を、美しいと思うし、綺麗だと思う。整っていると思うし、秩序があると思う。真っ白の四角形を用いて幾何学に埋め尽くされた床のような、均衡のとれた美しさ。そして、それの上を泥だらけのスニーカーでめちゃくちゃに走り回りたくなる。
そんなことしたらどうなるんだろう?おれの心は、身体は、どうなってしまうんだろうね…?
甘い蜜から醒めるのは、いつだってこと苦い現実、事実、公貴の、秩序は割れた、さよなら、またね。
そして、どうやらおれはどこまでも、じぶんのことしか考えられない男のようです。
「悪かった」
扉を開けた古賀の眉間の海溝は深い。そんなことを言うためだけにおれの睡眠を妨げたのか、と声に出さずとも伝わってきた。現在時刻は深夜の三時、喉が凍って犬も吠えれぬ、しんしん寒い一月の終わり。
「悪かったよ、部屋には入れなくていい、おまえは一言、そうか、と言ってくれればいい」
これは自己を満たすためだけの行為です。深層心理を表した、深層心理が現れた、夢に罪悪を感じて、感じて、感じて走った。
一刻も早く、この苦しみから逃れたい。そのためだけにチャイムを押した。おまえを利用しているんだ。おれは最も低い階級の人。
だけど、罵らないで。
すきになってごめん。汚したくなってごめん。壊したくなってごめん。おまえの存在で自慰をしてごめん。おまえの苦しみを防げなくてごめん、そのくせ、じぶんの苦しみをなくすために、利用してごめんなさい。
だけど、罵らないで。
「そうか」
瞬間、こいつを抱きたくなった。尻の穴を使ってこいつを抱きたくなった。
こいつはおれの狡さや打算を見透かして、それなのに、そうか、そうか、と。
「やっぱり部屋に入れてくれる?」
「いいよ」
「おれの言うこと、きいてくれる?」
「ホットココアまでなら」
つれないなぁ。明日、早いんだよ。そうなの?そうなの。
古賀の左腕に抱きつきながら、実のない会話をしながら、アパートの扉をくぐる。きちんと整頓された玄関に、こんなところまでおまえの成分が行き届いているのか、と思う。
扉が閉まる数瞬前、小さく、小さく古賀の顔を見上げた。けれど、古賀はおれの視線を拾い上げて、目尻を下げて、おれはたまらなく泣きたくなった。
(ああ、なんてやさしくて、なんて悲しい奴なんだろう)