幸福な人生です
「あなたにお似あいのおれですが、どうぞ、いかがですか」
今、思い出しても、御幸、あれはひどく滑稽なプロポーズだったよ。
ふふ、と懐かしそうに目を細めて、あなたは微笑みました。なんてひどい人。おれたちは別れた恋人同士で、今日はあなたの結婚式です。
(いつから恋に落ちていたのか、いつまで恋に落ちているのか)
愚問だ、答えなんて決まってる。あなたを一目、見た瞬間から。あなたが死んでおれが死んでも、いつまでもお慕い申しあげております。
いつまでも、いつまでも、いつまでも。
(今、この試合は、あのキャッチャーの手の中にある)
拳銃でこめかみを撃ち抜かれたようにわかった。十七人の蟻たちを生かすも殺すもすべてあの、栗色の髪の柔和な笑みの天使が決める。
それは直感で、それは真実だった。
おれは負けた。圧倒的に。もっている力をすべて投げたけど、爪先でかるく弄ばれて弾かれてしまった。
天使は目尻の皺で語る。楽しかったよ。嘘だ。また遊ぼうね。嘘だ嘘だ嘘だ、
「嘘だ」
なんて傲慢な天使だろう、蟻の巣に水を注ぐ子どものような純粋さ、あまりにも圧倒的に負けたから、金色の瞳が心のど真ん中で鮮やかな染みになって擦っても擦ってもとれないとれないとれやしない、ああ…、綺麗だ…。
滝川さん、クリス先輩、優さん、おれは、御幸一也は、あなたがすきです、どうしたって、すきです。
そうです、すきです、すきだから、あなたとの試合は楽しくて、あなたの近くにいたくって、あなたと勝負がしたくって、あなたにおれを見てほしくって、あなたの頬に触れたくて、あなたを腕に閉じこめたくて、あなたと、あなたを、おれはもう、生きてる間のほとんどが、あなたのことばかりです。
「すきです、第二、ボタンをおれに、ください、それで、それで、いいんで…、」
卒業式の日、桜の下でそう告げた。真っ赤な顔でしどろもどろで涙で潤んで、おれはかっこ悪かった、未来で羞恥に焼かれるくらいに。
あの人が一人になる瞬間を見つめてまって、まってまって、その時がきたらすぐに縫うように近づいて、「ご卒業おめでとうございます」も言わずに、すきです。
「……ボタンだけでいいのか?」
そのとき。いくじなしめ、という顔であなたはおっしゃいましたよね。呆れたように微笑んで。
やめてくれ、と思いました。あきらめようと、心の臓のボタンをよすがに生きようと、やっと、やっと、それなのに。
なんてひどい人、なんて…。
「よくない、あなたを、あなたをまるごとおれにください」
あなたはなにも言わずに右手を差し出しました。そして、おれは、躊躇いながらも、その手をとって、瞬間、目に映るすべてが変わった。緑は鮮やかに、香りは嫋やかに、風は爽やかに、あなたの姿は輝いて、ああ、これが、これこそが、恋が実った景色なのだ、と。
夢のように幸せでした。もしかしたら、その後、あなたと二人きりで生きた八年間は、ほんとうに夢だったのかと疑うほどには。
「そろそろ結婚しようと思ってる」
今日はいいお天気ですね。と同じような声音であなたは言った、まるでなんでもないように。残暑厳しい九月の午後、おれはあの日を忘れない。
「……は、い?それはどういう?」
「どういう?いや、そろそろ結婚しようかな、と」
「それは、おれと?」
「おまえと?」
どうして?そうありありと顔に書かれていた。純粋に、ふしぎ。
ねぇ、お父さん、あれはなに?そう、芋虫を指して父親に訊ねる幼子のような無垢さで。
「どうして…、」
「え…、だって、おれもおまえも、もういい年齢だろう。晩婚の時代とはいっても、生活の基盤はできているんだし、結婚は早いほうが…、一也?」
そのとき。おれがどんな顔をしてあの人を見ていたのか、見当もつかない。のは、きっと、こんな場面があるなんて、一切想定していなかったからだ。
優さん。おれは、あなたを先輩なんていうよそよそしい語尾をつけずに呼ぶことをゆるされた存在ですよね?あなたをファーストネームで呼ぶことをゆるされた存在ですよね?あなたの唇を貪る権利を、あなたの肢体を暴く権利を、あなたの生活に、人生に、杭になって食いこむ権利を、おれは授けられていますよね?
それなのに、どうして。
「おれのことがきらいになったんですか」
「いや、おまえのことは大切に思っているよ」
「じゃあ、すきですか」
「大切に…、」
もしや。
いや、ばかな、そんなことあるわけない。あるわけ、ないだろう、なに、考えてるんだ、八年だぞ、八年、あまりに長いその年月、けれど。
一瞬、よぎった、もしや、はおれを蹂躙する、もしやもしやもしやもしや、優さん、あなたはおれのこと、
瞬間、本能のままにおれは縋っていた。
「お願いします、おれを捨てないでください…、お願いします、お願いします…」
おれは狡猾で、おれは子どもだ。地に額をつけ、乞えば、手を離されないだろうと計算している。けれど、脳の裏では、二人きりで生きた八年、あなたに恋して十二年、産まれたての赤ん坊が自慰をおぼえる年齢になるまでの長い、途方もなく長い年月をあなたに捧げた、その執着を、あなたにぶつけているのです。
いやだいやだ行かないで、お願いだから行かないで、ずっとそばにいて、隣にいて、手を握って、ときどき目を合わせて微笑んで、おれを愛して、今までみたいに、おれを愛して。
(今までみたいに?)
今までって、なんだ、なんだよ、だって、優さんはおれのこと、なんか、はじめからずっと、きっと、
(そうだ、もしや、じゃない、確定)
これっぽっちもすきじゃなかった。
「すきです、優さん、世界で一番あなたがいい」
ほんとうに心の底からそう思って言ったよ。たしかにそのとき、おれたちはセックスをしていたけれど、ベッドの中のうわ言なんかじゃあない。もし、土曜日の昼、二人で再放送のドラマを観ている、そんな気の抜けた空気でも、おれは同じ温度で同じ台詞が言えた、と自信をもって断言できる。
なんてったって、人生を十二年もかけた恋ですよ、あなた、これからの人生を六十年かけると覚悟している恋だ。
「うれしいよ、一也…」
そう言って、おれの汗で湿った髪を一房かきあげたあなた。今、思い出しても惚れ惚れするね。熱に溶けて潤んだ蜂蜜色の瞳も、掠れた低く響く声も、力の抜けた指の先も、口の端から涎を垂らす、白痴めいた美しさも、あなたのなにもかもは、おれの下肢を重くする。
人生を彩る、色鮮やかな宝石を、あなたはたくさん、たくさんおれにくれました。もちろん、おれも、あなたに、おれなりに精いっぱいあなたに、宝石を贈りつづけたつもりです。そして、あなたもおれのようにそれを、胸の奥の宝石箱に絹に包んでしまっておいてくれていると、どうして信じきっていたんだろう。
優さんは、一言だっておれに、愛を囁いてくれたことがなかったのに。
すきだ、も、愛している、もあなたは、おれに告げてはくれませんでした。今さら、地に額をつけて乞うている今、そんなことを思い出します。
気づかないふりをしていました、ずっと。八年もの間、ずっと。ほんとうははじめから気づいていたのに。優さんは、おれのことなんか、これっぽっちもすきじゃなかった。
優さん、クリス先輩、あなたは、きっと、産まれた瞬間から平等だった。平等に愛されて、平等に愛した。あなたは公正で普遍的な愛を他人に与えることに長けていた、そういう性質なのでしょう。それはすばらしいことですよ、あなたの美点だ。けれどね。
あなたにとっては、尊敬する父親も鎬を削った好敵手も己を慕う後輩も沼から掬った救世主も、路地裏に住む野良猫も、おれも、平等で、そこに優劣はない。地平線のように平等な愛。けれどね。
(……おれはあなたのとくべつになりたかった)
平等で公正なあなたの地平線を真っ赤に染める唯一の太陽になりたかった。なりたくてなりたくて、胸が痛くて眠れない夜もあった。けれど、あの卒業式の日、なれた、と思った、なった、と思った、なってやった、と思った。おれだけはあなたのとくべつだと、やっと、あなたの心の、椅子に座れたのだと。
信じてた。でも、ほんとうは気づいてた。それは幻で、霧でできた椅子で、あなたの地平線に太陽はない。
おれはあなたのとくべつじゃない。
そろりそろりと、額を上げて、目線を上げて、あなたの顔、見て思います。
やっぱり、すきだ。
「一也、」
「先輩、」
「御幸、」
「クリス先輩、結婚式には、呼んでくださいね」
悲しいな。明確な、別れの言葉なんてなくても、おれたち二人は、これで終わりなのだと、沁み入るようにわかった。これから、心をおいてけぼりにしながら、生きていく。優さんに相手ができたら、おれはすぐに荷物をまとめてこの部屋から出て行くだろう。少し遠い未来に、最後に、きちんと心を爆発させてから、出て行く。そして、さらに少し遠い未来、優さんは結婚をする。おれとは似ても似つかない、その、やさしい顔をした女性と。子どもは一人、あなたはその男の子を、すばらしいキャッチャーに育てあげる。おれはその子に言うだろう。
「きみのお父さんはおれの神さまなんだよ」
さて、予想よりも少し近かった未来、出立の朝、決別の朝、残った少ない荷物を肩に担いで、玄関にて、おれはきちんと爆発する。
「プロポーズの言葉、考えました?」
最後に、賭けをしようと思った。じぶんから傷口に塩を塗りこむような、負けの決まった賭けをしようと。だって、
「いや」
だって、最後の最後に死にたくなっても、あなたと少しでも長くいたかった。
「それなら、おれが考えてあげましょうか」
ああ、やめろと口を塞いでしまいたい。どうして死に急ぐようなまねをするんだ。ばか。けれど、過去のおれは言う。
だって、じぶんから、傷口に、塩を塗りこむようなまねをして、あのとき、おれは頭が狂っていたんだ、狂ってないと、生きていられなかったんだ。塩が沁みる痛みでしか、形を保てなかったんだよ。
「あなたにお似あいのおれですが、どうぞ、いかがですか」
うやうやしく腰を折り、あなたの左手の薬指にプラチナリングを嵌めるまねをしながら、そう告げた。本心から、そう告げた。あの夜のベッドとまったく同じ温度で。世界で一番あなたがいい。
けれど、あの汗散る夜のように、あの桜散る日のように、あなたが、手を差し出してくれないことは、おれを受けとってくれないことは、わかっていました。もう受けとってさえもくれないと、骨の髄まで脳の皺までわかって、でも、それでも、おれは、あなたに、じぶんから、傷口に、塩を塗りこむようなまねをしてでも、また、と、
「ふっ、だめだな、そんな、滑稽な言葉じゃあ…、」
おかしそうに口元を押さえる、あなたに、おれは、
願わずにはいられませんでした。
(ああ…、)
ですよねぇ、なんて表のおれは、すぐにあなたの左手を放して、ごまかすようにおどけるけれど、裏のおれは瞼を閉じて空を仰ぐ。
ああ、やっぱりだめだった。いくら願っても祈っても、あなたはおれを愛してくれない。そんなこと、おれはいやというほどわかっているのに、骨の髄まで脳の皺までわかって、いるのに、それでも、
願わずにはいられませんでしたね。
(優さん、あなたはひどい人です。ほんとうにひどい人です、極悪非道の大罪人だ。だから、おれがあなたの首を刎ねたかった。一思いに刎ねたかった。刎ねた首を抱きよせて、愛を囁いてキスをしたかった。真実の愛を刻んだあとに、あなたの首を地面に叩きつけたかった)
あなたが憎い。けれど、どうしようもなく愛してる。
「さようなら、」
きっと、一生愛してる。
(呪いのように、あなたがすきだ)
「おめでとう!」
「おめでとう!」
「おめでとう!」
皐月の風が爽やかに香る、新緑が生きる喜びに震えて、なんて日だと思う。なんて日に結婚しやがるんだか、綺麗な思い出になっちまう。
(ちくしょう…、)
威厳溢れるあの人にはフロックコートがよく似あう。あの女の趣味かしら。憎たらしいと思ったりもする。やるね、と肩を叩きたくもある。
(同じ男を愛する者同士、仲よくなれる気がするよ)
優さんの選んだ女性は、やっぱりおれとは似ても似つかないやさしい顔をしていて、たっぷりとしたウエディングドレスに包まれて、今日がわたしの最上の日よ、と笑っている。
素直に微笑ましいと思った。きっと、あの女は知らないのだ。己が優さんのとくべつではないことを。優さんはだれも心の椅子に座らせない。だれにだって、公正で平等な、そういう性質の男だということを。
おれと同じだ。あの人が微笑みかけてくれた、それだけで、とくべつだって錯覚しちゃった?ばかだね、おれと同じくらいにばかだ。
だけど、羨ましい。あの女は女だというだけであの人から形式を与えられたのだ。それは、プラチナリングであったりたっぷりとした白のドレスであったり、この豪華な結婚式にかけた金額であったりした。目に見える虚構の形式、そこに愛はなくても、おれにはその虚構さえなかったから。
でも、おれたち二人きりの八年間は、けっしてむだなんかじゃなかった。愛もなく、虚構すらなく、砂の城が崩れるように終わった関係だったけど、むだなんかじゃなかった、けっして、けっして。
ボタン一つをよすがに生きようと思っていた。そのボタンが、八年間に変わったんだ。夢みたいに幸せじゃないか。
「クリス先輩、おれ、あなたに出会えてほんとうによかった、」
結婚式の日、新緑の下でそう告げた。すました顔で言葉はかろやかに足は震えて、おれの頭は冷えていた、未来で目じりを細めるくらいに。
あの人が一人になる瞬間を見つめてまって、まってまって、その時がきたらすぐに縫うように近づいて、「ご結婚おめでとうございます」と呟いて、あなたのおかげで、
「幸福な人生です」