青い車で海へ行こう。潮風に包まれて、蒸されてしまおう。
ね、二人で死んじゃおっか。
「海、久しぶり」
「おれ、行ったことないです」
「海に?」
「海に。母が日に焼けるのをきらって…、海水浴、昔は憧れていましたよ」
「そっか、じゃあ、おれが、ハジメテ、奪っちゃうんだな」
命も。と、呟こうとした、けど、息を吸ってやめた。不粋だ。今から死にに行くのだからこそ、死を匂わせない。情緒を大切にしないと。せっかくの心中、ですよ、ね。
どうにも日本は男同士で生きていくには狭すぎる。つがいを家族を子どもを作らないという選択は、そんなに悪いことかしら。ただ同じ性を股間にぶらさげているだけなのにね。父親は罵倒し母親は泣きわめき兄妹は軽蔑し、世間は好奇の目を隠しもしない。かと言って、おまえはおれをアメリカに、連れて行ってくれもしない。そのくせ、おれの手を離そうともしない。
だから、さ、いやんなっちゃった。ぜんぶぜんぶ、いやんなっちゃったんだよ。おれたちの周りのあれこれ、ぜんぶ、だから、ね、二人で死んじゃおっか。
というわけで、海です。トランクには、練炭です。潮風で味つけをしてから、蒸されておいしくなりましょう。塩味で、たぶんとってもジューシィです。大丈夫、おれたち二人はおいしくなれる。
「ハンバーガー」
「食べる?海についてから」
「どうせなら車の中で食べちゃいましょう」
「汚していいの?」
「いいですよ。タルタルソースを零してくれても」
看板のMが言います。「1km先で会いましょう」そんなことを言われたら、最期の晩餐に選びたくなる。
(幸せとは、きっとこういう瞬間のことを指す)
なんて、柄にもないことを考えてしまった。でもね、真実。運転をするおまえの口もとにハンバーガーを差し出して、ぱくりと食べさせる、ポテトの油のついた指でカーステレオのボリュームを上げて、目を顰められる、心臓が締めつけられて、この瞬間が永遠になればと思う。
死ぬなら今がいいわ、と感じ、今から死にに行くのだと気づく。窓から潮が漂って、海が近いね、もうすぐだね、と。
「海ですね」
「いい海」
「いい海?」
「春の海が一番綺麗だ」
スニーカーを脱いで、波うち際を歩く。冷たいようでぬるいようで、どっちつかずの温かさ。まるでおれたちみたいだね。
おまえも来いよ、とおれが言う。今、行きますよ、とおまえが言う。筋の浮いたふくらはぎが眩しい。おまえのそれに舌を這わせるのが、おれはとてもすきだったよ。
「わ、わっ、」
「どう、はじめての海は」
「ぞわぞわします。引きずりこまれそうに大きいですね」
ああ、まだこわいんだ。こいつはまだ、死ぬのがこわいんだ。
弾けるようにわかった。こいつはおれがいるだけじゃあ、満たされない生きものなんだ、と。おれはおまえが手の届く範囲にいてさえくればいい。おまえさえいればいい。でも、おまえは、おれだけじゃ不満なんだな。だから、おれをアメリカに連れて行ってくれない。甘いね、だけど、おれがいなくなるのもいやなの?
甘いね、ばかだ。でもね、だからこそ、
「帰ろっか」
おもわず溢れた言葉を聞いたおまえが心の底から安心しましたと目尻を歪ませたから、もうだめだ、だめだだめだ、終わりが見えて、引きずりこまれて、さようならの季節は近い。
−−−−−−−−−−−
「ねぇ、わたしはね、あなたにほんとうに幸せになってほしいと思ってるの。ほんとよ。ほんとのほんとよ」
だから、手嶋純太なんかとつきあうのはやめなさい。
(……女って、)
大学の、よく講義がかぶる、そうだ、頭にうさぎの耳みたいなヘアバンド?をつけていたから憶えてる。が、講義が終わってざわめいている教室で、おれが座っている机の真横で、ペンケースの中身をぶちまけたのだ。
拾った。おれの真横で散乱していたから、だれだってそうする。そうだろ?クレヨンかよってぐらい色とりどりのペンに、ぜったい書きにくいだろって言いたくなるようなごてごてのシャーペンに。おれとは合いそうにないな、と思った。
そして、その直感は正しかった。これからも、第六感に従って生きていこう。
「これでぜんぶか?」
「うん、ありがとう」
「じゃあな」
「まって」
いやな予感がした。伊達に校舎裏に詳しい人生をおくっていない。女から漂う思い詰めたような雰囲気は憶えがあった。そして、今、教室には二人しかいない。講義が終われば、みな、追いたてられるように去って行くのだから、あたりまえなのだけれど。
だから、女がまっすぐにおれを見つめて、ひゅうと息を吸ったとき、おれはきちんと傷つける覚悟をした。
「手嶋純太なんかとつきあうのはやめなさい」
が、女の口から出てきた言葉はおれの予想を裏切った。あまりに華麗に裏切られたので、はぁ?と声が漏れてしまったほどだ。
「な、んで、おまえにそんなこと、指示されなきゃいけないんだ?」
「指示?わたしはあなたに幸せになってほしいだけよ。手嶋純太はあなたに合わない」
「だから!なんでそんなことおまえに言われなきゃならないんだ!」
だって、わたし、あなたに幸せになってほしいの。位の合わない相手との恋愛は心が疲弊するだけよ。わたしはそんなあなたは見ていられない。そんなの幸せじゃない。ね?だから、手嶋純太と別れなさい。
女は「わたしはなにもまちがったことは言っていませんよ」という顔をして、歪んだ正義と愛を振りまわす。そして、「なぜ怒っているの?」と心底ふしぎそうに首を傾げる。
なぜって…。おれは言葉に詰まる。言葉になんの力があるだろうか。おれがどれだけ言葉を尽くしても、きっとなにも伝わらない。
「もちろん、わたしがあなたとつきあいたいから、こんなことを言ってるんじゃないのよ。だって、わたしもあなたと位が合わないもの」
合わない。第六感が叫ぶ。合わない、合わない、合わない。おれと手嶋さんがじゃない、おれとおまえがだ、そもそも合わないってなんだ?合うってなんだ?わからない、どうしてそれを、おまえが?おれに?
「女って、気色悪い…」
母親のように、おれに。
絞り出すように思わず本音が零れてハッと気づけば頬を赤黒く染めた女はわたしはだれよりもあなたの幸せを願っているのに!
「あーららら、男前になっちゃって、まぁ、」
「……手嶋さんのせいです」
激昂した女に左頬を平手で一発、二発、三発、ねぇ、これでもわたしの気もちがわからないの?わからないの?わからないの?なにそれ!そんな頭の悪い人だと思わなかった!
そう叫んで教室から走り去る女、なんて理不尽な!しかし、女とはそういう生きものなのだろう。そして、すぐにまた愛玩用の擬似息子を見つけ、理不尽を押しつけるのだ。
「ふーん、人間らしい女の子だなぁ」
「人間らしい?おれには化けものに見えましたけど」
ふふっ、人間らしいよ、母性愛は女の本能だろう?
と、鼻で笑うあんたの気だるい全知が憎い。おれはいつまで手嶋さん、あんたの生徒でいればいいのか。
「母性愛、ですか。それにしては、ずいぶん理不尽な要求だと思いますが」
「そりゃあ、じぶんの股から産んだ息子だもの。じぶんのものだと錯覚してじぶんの思いどおりにさせるのに、なんのふしぎもないね」
「あんなに理不尽だったのに?」
「あたりまえだ。願望ってそういうものだろ?」
たしかに。母性愛は理不尽であり、また、願望は理不尽である。
「でも…、理不尽に願望を押しつけられる身にもなってほしかったです」
ため息とともにそう言うと、はっ、おれに理不尽に願望を押しつけてる奴がよく言うよ、
「昨晩はねちねち弄んでいただいてありがとうございますぅ」
と言って脛を蹴られた。粘っこい声。にやにや動く口。手嶋さん、あんた、おもしろがってますね?
「いやなら止めて、って言いましたよね」
「止まんなかったのはどっちだよ」
「……悪かったですよ」
「人間でも化けものでも母親でも男でも、願望は、愛は、理不尽なものだよ」
同じ穴の狢だ、ばーか。
けらけら笑う手嶋さん。それを見て、つくづく思う。おれってなんでこんな人がすきなのかしら?
「痛い?」
おれの頬を指して手嶋さんが訊く。
「はい」
おれは答える。手嶋さんは目を細めて、お気の毒。と呟いたあと、喉を鳴らして、一言。
「でも、おれといて幸せだろ?」
そうだった。そうだったよ。こんな人だからだ。こんな人だから、おれは手嶋さんがすきなんだ。
(ちくしょう、これだから…、)
同じ穴の狢の女に告ぐ。位なんて知ったことか。おれは手嶋純太といて幸せだ!
−−−−−−−−−−−
「いやなんですよ、手嶋さん、いつまでおれを、子ども扱いすれば気がすむんですか」
震える声で今泉が言った。おれは筍の煮ものを小皿にとりわけていただけなのに。なんのことだ、とおれが訊くと、今泉は小皿に盛られた筍を指す。
「穂先しかない。おれのぶんだけ、いつもそうだ。柔らかいところだけをおれに食べさせて、あんたはそれで満たされるのかもしれないけど…、」
もうおれは子どもじゃない。おれだって、固い根元を噛み砕けます。その力がおれにはあるんだ。
ギッと錆びた鉄を擦った音がした。今泉がおれを睨んだのだ。なんてことだ、と思う。いつのまに、そんな目をするようになったの?
(おれはただ、愛しいおまえに、おいしいもののさらにおいしい上澄みを、食べさせてやりたいだけなのに…)
子の成長にはもう必要のない愛ですか。知らないうちに、必要のない愛になってしまいましたか。
と、考えて、子?と首を傾げる。今泉は子どもじゃない。今泉はおれの子どもじゃあない。おれも今泉の、おれは今泉の…、
「母親気どりは、もう、うんざりなんですよ」
目を伏せながら今泉が言った。筍からは、春の煙がほかほかと、まるで家族の象徴のように、のどかに香る。
「俊ちゃん、冷めちゃう、早く食べて」
ほんとうはそう言いたかった。ほんとうはそう言いたかったのだ、おれは、ずっと、母親のように、ずっと。
−−−−−−−−−−−
帰宅後、おれは、ダイニングの異様な光景に立ちすくむ。粛々とまるで儀式のように真剣に、テーブルの上で解体作業が行われていたからだ。ああ、臭い。死臭だ、生臭い、海の臭いだ、…海の臭い?
「おっ、今泉、おかえり、ほら、」
おまえもスーツ脱いで椅子に座って早く食べろよ。
「……蟹?」
「見ればわかるだろ」
「どうしたんですか、これ」
「青八木がさ、今、北海道行ってて、クール直送便、おれとおまえで一匹ずつ、よっ、と、」
バキバキバキバキ。うまいよ。と蟹の脚を鋏でバキバキ解体しながら手嶋さんが言った。コートの裾をはためかせながらおれは訊く。
いや、いくらうまそうだからっておれが帰ってくるまでまてなかったんですか?
「まてませんでしたぁ」
なまいきな生徒のようにそう言ってテーブルに新聞紙を敷いてバキバキバキバキ、飛び散る肉の汁、吸収しろ、吸収しろ新聞紙、死の臭いもすべて。
ねぇ、手嶋さん、そんなに無邪気にうまいうまいと肉を啜って噛みしめて、なんて残酷なんだろう。
「食わねぇの?」
ゴギン。鈍い音をたてて蟹の腹を二つに裂く。内臓を箸で混ぜて、そこに日本酒を注ぐ。とくとくとく、舌舐めずりをしながら。
(おれが蟹ならじぶんの死体をこんなふうに弄ばれるなんて耐えられない!)
きっと食人鬼はこんな顔で人の肉を口に入れて叫ぶんだ、ほっぺた落ちそう!
「……おれが食べないって言ったらどうするんですか?」
「う〜ん、二匹も食べたら気もち悪くなるしなぁ。かに玉にでもするかな」
「いつ?」
「明日の晩めし」
「おれ、明日の夜は接待があって、」
「ふ〜ん。で、食うの?食わねぇの?」
「食べたいんですけど、」
「けど?」
蟹の殻が剥けません。
しばしの沈黙ののち、手嶋さんはおもむろにかに味噌酒を舐めて、くっくっくっ。
「昨日、子ども扱いするな、って泣いて訴えてきたくせに、おまえ、」
蟹の殻も剥けねぇのかよ。
−−−−−−−−−−−
「世界の終わりごっこをしないか」
台風が窓を激しく揺らす日曜日の午後の言葉だった。淋しがりやの年上の恋人は風の音に耳を傾けながら、星が輝く瞳をしていた。
そんなあなたにわくわくした。どきどきした。恋のはじまりをもういちどなぞろう、と誘われた気がした。だから、おれは、
「はい」
と答えた。
「世界の終わりに裸になる必要はあったんですか?」
「ばかだなぁ。世界の終わりなんだから心細くならなくちゃ」
はい、と答えたあと、恋人はおもむろに服を服を脱いで、ほら、おまえも。と微笑んだ。これがこの世界の常識だよ、というような雰囲気で。なので、おれは言われるがまま服を脱ぐ。
が、ボクサーパンツから性器がまろび出た瞬間、気づいた。
「世界の終わりに裸になる必要はあったんですか?」
まぬけなかっこうで質問したおれの頭に手嶋さんは真っ白なシーツをふわりとかけながら、ばかだなぁ。
「心細く?」
「世界の終わりだから、太陽は消滅して、人類はおれとおまえ以外、全員死んだ」
だから、電気も使えないんだ。そう言って、裸の手嶋さんは、バチン、とブレーカーを落とした。
徹底してる。とおれは思った。徹底して、彼は世界の終わりを創造しようとしているぞ。
「水道も?ガスも?なにもかも?」
ボクサーパンツを脱ぎ捨てておれは訊く。真っ白なシーツに潜りこみながら手嶋さんは答える。
「なにもかもだ。食料も尽きて、あとは死をまつだけ」
裸で。どう?心細いだろ?悪戯小僧は口角を上げておれの平らな胸な頬をよせる。どくんどくん。たぶんきっと心臓がうるさい。
手嶋さんは、おまえも淋しかったらおれの髪に鼻を埋めてもいいんだぜ、と言うけれど、しませんよ、あなたじゃあるまいし。と、口には出さないけれど。
横殴りの風でマンションが揺れている、ような気がする。そういえば、暴風警報が発令されているんだっけか。こんな天気で外出する人もいないだろうに、周りはほんとうに滅亡したかのような静けさで、世界の終わりもごっこじゃないのかもしれない。
でも、
「心細くありませんよ」
「世界の終わりで二人きりなのに?」
「世界の終わりでも二人きりなら心細くありません」
だって、あなたがいるでしょう。
どくんどくん、ガタガタ、ヒュー、ガタガタ、どくん。
世界の終わりに二人きりでも自然はうるさい。恋のはじまりを告げる言葉をかき消そうとするかのように。
「…告白、かぁ」
「二回もされて、贅沢だよな、あの今泉俊輔に」
「へぇ、ふぅん、へぇ、そっかぁ」
「おれさ、おまえのそういうとこ、だいっきらいだよ」
ニッと笑って唇に噛みつく、手嶋さんの耳は真っ赤で、今日はぜっこうの世界の終わり日和です。