古賀の部屋には靴がある。淡いピンク色をした、華奢なヒールの靴が。踵に小さなリボンのついた、かわいらしい靴が。
「死んだ彼女の靴だよ、欲しい?」
それがあんまりにも異質だったから、ついじっと見つめてしまった。なにあれ?そう、視線に滲んでいたと思う。
だから、古賀はおれの視線に答えた。
「どうぞ」
古賀は無造作に靴を掴んでおれの手のひらの上に乗せた。
それは思ったよりも重くて、古賀の言葉が嘘じゃないような気がした。
「それね、その子の二十歳の誕生日にあげた靴なんだ。子どもみたいにすぐに箱から出して、足に嵌めて、台所で踊ったよ。ほんとうにうれしそうに。ばかみたいだった」
古賀はたんたんと言葉を紡いでいく。過去を慈しむような目をしながら。
「その子はその日の夜に死んだよ。おれが送るよって言ったら、一人で歩いて帰りたい気分なのって、手を振って別れて、翌朝、靴だけが綺麗に揃えて港の隅に置いてあった」
古賀は一拍間をおいて、嘘だよ、と言った。
「ひとしきり部屋ではしゃいだあと、海が見たいって言ったんだ。連れて行ってやったさ。ほら、あの港だよ。倉庫が並んだ淋しい港。彼女は港についたとたんに走り出したよ。もちろんおれは危ないって叫んだ。彼女は振り向いて、手を大きく広げて、わたし今世界で一番幸せ、そんな顔をして海に落ちた。おれがあげたこの靴だけしか残らなかった。脱ぎ捨てられたように港に転がる、この靴だけしか残らなかったんだよ。彼女は浮かんでこなかった。いくらまっても浮かんでこなかったから、おれはしかたなく靴を拾って部屋に帰ってそのまま寝た」
古賀は言った。やるよ、手嶋、おまえのすきなようにしていい。
そして、今、おれはなぜだかその港にいる。華奢なヒールをコツコツと鳴らしながら歩いている。その彼女とやらがどこで死んだのかはわからない。そもそも古賀の嘘かもしれない。
でも、靴は重かった。それだけは真実だ。
死にたくなるものかな、と思った。死にたくなるよなぁ、とも思った。
二十歳で、美しい靴、淋しい港と、古賀のまなざし。
ああ、たしかに衝動的に走り出したくなるかもしれない。冬の海の冷たさに浸りたくなるかもしれない。
おれは靴を脱ぎ捨ててみた。カリンカリン、とヒールが傷つく音がした。カリンカリン、そのまま海に落ちたくなった。ただただ海に落ちたくなった。
きっと彼女は幸せだった。でも、二十歳の少女の素直さで海に落ちてしまったのだ。
おれはおもむろに靴を履き直して、踵を返した。古賀がおれの背中を見送るときに呟いた言葉が思い出される。
「せめておれの知らないところで靴を揃えて死んでほしかった。目の前であんなに生き生きと死なれてしまったら、かわいくって困っちゃうよ」
−−−−−−−−−−−
「おまえは知らないだろうけど、おまえの才能を世界で一番愛しているのはおれだよ」
それなのに、
「おれはおまえじゃなくておれを優先しちゃうんだよなぁ」
おれのプライドが、もうほんの少しだけ低かったら、すべてがうまくいったのかもしれない。おれが意地や執着というものに、一人できちんとけじめがつけることができていたなら、きっとすべてがうまくいった、と。
おれがおまえに「使われる」ことに、意固地にならずに身を任せていたなら、今年の歯車はもっと軽快に回っていたんだろう。少なくともおまえが、今ほど、チームの強度に頭を悩ませることはなかったと思う。傲慢だろうか。でも、おれなら、チームを、おまえを、支える梁になれたのでは、と今ならたしかにそう思うのに。
「おまえの才能を愛してるのに、それを発揮させる舞台にあげてやれない。おれがおれが、と思ってしまう。愛しているのに、だから、おれが、」
ぜんぶ悪いんだ。公貴、おれを恨んでくれないか。
なぁ、純太、悪いのはおれだろう。おれがガキで頑なだったことが悪いんだ。どう考えたってそうだ。おれがおまえを認めて受け入れてさえいれば…。
それなのに、おまえはおれが悪いだなんて言う。恨んでくれだなんて言う。悪いもんか。恨めるもんか。そうやって、なんでも一人で抱えて抱えて抱えて、抱えきれなくなったら、おまえはいったいどうなるんだよ。
「そうか、じゃあ、恨ませてもらうよ」
おれはおまえが心配だ。でも、おれが悪いと逃げているおまえに、そんなことはないなんて、とてもじゃないが、おれには言えない。
おまえが望む答えをやることしか、贖罪の方法はないと思うから。
「……よかった」
気が抜けて、ああ、安心したというような顔をして、おまえがほっとため息を吐いたから、これでいいんだ。これでいいんだ。これでいいんだ、きっと。
−−−−−−−−−−−
「せめて夜までまっていて」
古賀があんなに切羽つまった声を出すところ、はじめて見た。から、もう、おれは、嫉妬の業火に焼かれて死にます。
「…どうした?」
「ん?いや、昔の彼女が、今から死ぬって言うからさ、」
行かなきゃ、じゃあね。
古賀が、椅子の背にかけてあったシャツに滑らかに腕を通しながら、これは義務です、というような口調でぐるりと踵を返すものだから、
「おれも行く」
このままだと、その女のわがままにつきあっていっしょに死んでしまいそう、で、危うくて、たまるかよ、と思った。から、むりやり後部座席に乗りこんだ。
助手席は、あの子のためにとっていて。と古賀が言うから、しかたなく、しかたなく、後部座席に乗りこんだ。
山道、無言の車内、太陽輝く真夏の午後2時、おれたちは、さっきのさっきのさっきまで、裸でまぐわいしてたんだけどな?
(おまえも昔に捨てた女のために…、)
車をかっ飛ばせちゃう男だったんだ?へぇ、そうなんだ、そうだったんだ、男のご多聞に漏れず、女のために制限速度を超えちゃうような男だったんだ?
(……公貴なんて死ねばいいのに)
わかってるよ、はいはい、嫉妬の業火に焼かれて死にます。
「あのさぁ、必死になってるとこ悪いけど、狂言自殺だとは思わねぇの?」
「心の底から死にたくなったら電話して、って言って別れたからなぁ」
「淋しくなっただけかも」
「父親が死んだって言ってたから、ほんとうに死にたいんだと思う。その子、父親と寝てたから」
は、い?突然の事実に頭が追いつかない。えっ、なにそれ、どういう、
「すきなんだってさ、実の父親が。ずぅっと性的な虐待を、その子は愛情表現って言ってたけど、受けてて、児童相談所に通報されて離れ離れにされて虐待だ虐待だって周りに言い聞かされてたけど、それでも、実の父親がすきなんだって」
おれはその父親と耳の形が似てるらしくて、だから、まぁ、因縁みたいなものだねと、めんどうをみていたんだけど、やっぱり耳の形だけじゃ満たされなかったんだろうね、死にもの狂いで父親を見つけて出ていっちゃった。それで、どうせ死にたくなるだろうから、でも、狂言に踊らされるのはめんどうだし、ほんとうに心の底から死にたくなったらかけてくればいい、って、ねぇ、まさか、ほんとうにかけてくるとは思わなかったけど。
「なんで、夜までまっていて?」
「死ぬなら夜がいいって言ってたから」
「だから?」
「それなのに、昼に電話がかかってきて、だったら、夜まで隣で手を握って、素数を数えてやろうかとね」
その女が羨ましい、と思った。猛烈に。望む時刻に死なせてやろうと、隣で素数を数えて慰めてくれる、男がいる、女が、女が羨ましい、と。
なんて贅沢なんだ。この男に(そうだ、あの古賀公貴にだ!)そこまで想われて、微笑みながら、1、3、5、7、11、13、延々と囁いてもらえる。日が暮れたらそっと手を離して無言で去ってもらえる、記憶の奥にしまってもらえる。
ああ、なんて贅沢なんだ。なんて贅沢なんだ。羨ましい。羨ましいと思った。猛烈に。嫉妬の業火も生ぬるく感じるほどには、猛烈に。
「……幸せ、だな、その人」
「そう?これから死ぬような人だよ」
「幸せだよ」
幸せだ。なぁ、公貴、もしおれがその女みたいに、死にたくなったら、夜までおれに素数を囁いてくれるか。
(……くれないだろうな、)
おまえはそういう奴だよ、と窓に流れる山の緑を眺めた。
−−−−−−−−−−−
おれの恋人の遺伝子を欲しがる女は多いと思う。贔屓目で見なくても、子どもが欲しくなる男だから。
だからこそ、申しわけなく思う。恋人に、子どもが産めなくてごめん。数多の女たちに、子どもを産ませてやれなくてごめん。
「……手嶋純太さんですか」
「そ、うです、が、…失礼ですけど、どちらさまですか?」
大学の講義がない木曜日、ゆるゆると惰眠を貪っていたらチャイムの音で殴られた。はい、はい、はい、と洗面所に行き、顔を洗って、スウェット姿のまま玄関のドアを開ける、と夏生まれのサンドイッチガールがいた。
食パンのような白いワンピースに、ピンク色をしたハムのカーディガンを羽織り、玉子のピアスが黄色く光る、口紅はキッと酸っぱいトマト、
ぎたてトマト、トマトは夏野菜だから、たぶんぜったい夏生まれ、です。
「ただの古賀くんのクラスメイトです、入っても?」
「ああ、どうぞ、お茶は?」
「いりません。すぐすみますから」
サンドイッチガールは一切の躊躇なく、無遠慮に部屋を蹂躙する。その無遠慮さに、おれは少し惚れ惚れした。
「今、おきたばかりですか?」
「そうです。こんな格好ですみません」
「フライパンに目玉焼きがありますよ。食べられては?」
「いえ、大丈夫です」
「いいですね、古賀くんの作ったものがあたりまえに食べられて」
お察しかもしれませんが、わたし、古賀くんがすきなんです。昨日、告白して、つきあってる人がいるから、とふられました。なので、古賀くんのあとをつけて、マンションの部屋を知りました。すぐにインターネットで間取りを調べました。広い部屋でした。だから、だれかと暮らしているんだろうって、目の前のドトールで見ていたんです。そうしたら、あなたが。
「あなたが?」
「男じゃないですか」
「そうですね」
「不潔です」
おれはこのサンドイッチガールのことをかなりすきになっていた。なんという無遠慮さ、なんという戸惑いのなさ!
切れ味鋭い刃の軌道、なんだか、快感、ってかんじ、です。
「不潔かぁ」
「不潔です。いやらしい。お二人はつきあっていて、しかも、いっしょに暮らしている。男同士で。いやらしいです」
「あなたは古賀が男同士で暮らしていることがいやなんですか?それとも、相手がおれなことがいやなんですか?」
「古賀くんが男同士で暮らしていることも男とキスやセックスをしていることもゲイで女のわたしに希望がないことも、相手があなたみたいなスウェットにケチャップの染みがついているような人なことも、なにもかもが不愉快です」
おもわず吹き出してしまった。だって、あんまりにも素直でかわいいものだから!サンドイッチガールは眉根をぐううと寄せる。なぜわたしがあなたなんかに笑われなきゃならないの?その隠しもしない不愉快さ。かわいいね。きみがすきになったのが古賀公貴でさえなかったら、きっとぜんぶうまくいってた。
「なんですか」
「すみません、気を悪くしないでください」
「悪いです。昨日からずっと」
「じゃあ、一つだけ訂正させてください。おれは古賀とキスもセックスもしたことがありません」
嘘です。とサンドイッチガールは即座に否定した。それなら、なんでつきあっているんですか、なんで同棲しているんですか?
それにおれは微笑みながら返す。男と女の関係にはキスやセックスは欠かせないものだけれど、男と男の関係にはなくても困らないみたいで。
「ときどき手を繋いで、同じベッドで眠っているだけですよ」
瞬間、サンドイッチガールはテーブルをガリリと引っ掻いて、トマトの唇を噛みしめて、瞳に涙の膜をたたえて、
「それが世界で一番、いやらしい行為です」
と言い切って、では、と去っていった。颯爽と、甲子園球児のように爽やかに、では。その去り方さえもスパリと潔い。
夏生まれのサンドイッチガール、きみがすきになったのが古賀公貴でさえなかったら、きっとぜんぶうまくいってた。
塩気のきいた目玉焼きを頬張りながら、世界中のサンドイッチガールに懺悔する。
子どもを産ませてやれなくてごめん!