母の愛
「お願いします、息子の人生から出ていってください。お願いします、お願いします…」
上品に整えられた薄い桃色のスーツを着た女が地に額をつけている。
艶がゆきとどいた髪、赤子のような肌、大きな瞳、あどけない顔に真っ赤な口紅がふぞろいで、ああ、母親の情念。ああ、母親の情念。そんなあどけない顔をして、なんて狡猾な女だろう。
真っ赤な口紅から漏れる言葉、悲痛な叫びだ。けれど、その裏に潜む母親の情念、その刃の鋭いことといったら!刺しちがえてでも、刺しちがえてでもおまえを殺してやる。わたしの息子はわたしの手で救ってみせる。
おれは悪魔ですか。あなたにとってはそうでしょう。あなたにとってはそうでしょう。
あなたの息子にとっても…、あなたの息子にとっても、きっとおれは悪魔でしょう。
「わかりました。息子さんの人生からいなくなります。息子さんを…、いつまでも、未練がましく縛りつづけて、たいへん、申しわけございませんでした」
地に額をつける。きっと頭上で真っ赤な真っ赤な口紅が、美しい三日月を描いていることだろう。
−−−−−−−−−−−
会社の前におまえの顔をした、例の車が停まっていて、消えちゃいたいな、と思ったよ。走って逃げて路地裏に、身を隠してしまいたいと。
「…ッ、手嶋さん、」
「久しぶり。乗ってもいい?」
「…そんなこと、訊かないでくださいよ」
観念しました。覚悟、しました。だから、おまえの隣に乗りこむよ。今泉、おまえはほんとうに、あの大きな瞳の息子なのかな。
(おまえの切れ長の目がすきだよ…)
鉄の塊を手足のように操縦するおまえに去ってしまった月日の長さを思うよ。積み上げて積み上げて、どうか崩れませんように。でもね、今泉、一瞬だったよ。一瞬で、蹴り倒されてしまった。怒りや虚しさなんて、そのあまりに鮮やかな手腕に、塵にされてしまった、そうだ、
母親はみんな狂ってる。
「…どうして、電話、出てくれなかったんです」
「メールも無視で、マンションは引き払ってて?」
「…理由も言わずに消えようなんてずるいですよ」
ひどいですよ。別れたいんなら、五年もつきあった情があるなら、せめて理由の一つくらいは…、言ってくれてもいいじゃないですか…。
そう言って、静かに一筋、ツゥと涙を流したおまえの横顔は、たしかに母親の生き写しだった。
ああ、母親の情念。息子に己のとっておきの刃を潜ませて、情念。鮮やかに、またもや、おれは蹴り倒されたのだ。
「理由、か…」
「…はい、まだおれに情があるなら」
情?愛ではなくて?今泉、おれはおまえを愛しているよ。愛して、いるよ。おまえのこの青い車で二人して海に突っこんで、心中しちゃいたいくらいには、愛して愛して、愛しているよ。
そして、おまえもおれが願えば、ブレーキ踏んで、海の底に攫ってくれるくらいには、おれのことを愛しているだろ?
そうだ、おれたちはまだ恋愛だ。でもね、母親はみんな狂ってるから。
「今泉、おまえ、母親に似てるなぁ」
その一言で今泉はすべてを理解したらしかった。一瞬で涙が乾いて、目尻をぐしゃりと歪ませたあと、そうですか、とだけ呟いた。
しかたないよ、今泉。血の繋がりは愛よりも濃い。それが、血脈を絶えさせまいと本能に突き動かされた母親なら、なおさら。なおさら。
「…ここでいいよ。降ろして」
「あともう少しだけ走りましょう」
「いいから。降ろして」
「もう少しだけ」
「今泉!」
「手嶋さん!…純太さん、」
純太さん…、すきです…。
絞り出すように、夜のシーツと同じ温度で囁かれて、消えちゃいたいな、と思ったよ。攫って沈んで海の底で、永遠に眠ってしまいたいと。
(そんなこと、できやしないとわかってはいるけれど…)
名まえも知らない駅の前で車は停まった。そして、おれはなにも言わずに静かに助手席から降りた。なにも言わずに、ただ、おまえの目だけを見ながら、瞳の奥にたゆたう愛の波を見ながら、静かにおれは今泉の隣から去った。
さようなら、さようなら、そんな別れの時ですら、おれは思う。思ってしまう。
「俊輔、おまえ、母親に似てるなぁ」
−−−−−−−−−−−
「母さん、おれ、結婚しないから」
一生、しないから。
家に帰ってきた息子は獣の瞳でそう言った。そして、タン、タン、タン、階段を上っていく。あの子はいつもそう。言いたいことを言ったらもう、わたしの言葉なんて聞く気が一切ないのね、あなたは昔からそう。一切、一切、一切。
リビングで紅茶を飲んでいたわたしは、ああ、ああ、なんてこと!足音を聞き終えて、頭を抱えてテーブルに突っ伏す。知られてしまった、わたしの暗躍。どうしましょう、どうしたらいいの?わかるわ、息子のわたしへの信頼がなくなってしまったこと。わかるわ、すべてあの男が悪いんだってこと。
わかるわ、悪魔の角を見透かす力が、母親にはあるの。
「俊ちゃん、わたしのかわいい子、あなたの人生に必要のないものはなんだって、わたしが除いてあげるからね」
目の端に、紅茶に入れる檸檬を切った、キラキラ光る鉄の刃が、映った。
−−−−−−−−−−−
だって、ひどいじゃない、そのためにわたしはあなたに土下座までしたのに、あなたは息子の人生から、消えてなくなるって、約束したわよね?
「俊ちゃん、お母さんね、あなたに幸せになってほしいだけなのよ」
ナイフで男の腹を刺しているというのに、女の声音は慈愛に満ちていた。
(ああ、母親は、母親は、)
営業に疲れた足を休めようと、名まえも知らない公園のベンチでコンビニの薄いサンドイッチを齧っていた。いつも食べているハムサンドが品切れで、しかたなく、たいしてすきでもないカツサンドを買ったんだ。
どうしてだろう、今となっては、そんなことばかりが後悔だ。せめてハムサンド、せめてハムサンドだったら。
「お疲れさま、たいへんねぇ、こんなに暑いのに」
ぼぅっと砂場で遊ぶ子どもを眺めていたら、隣から声をかけられた。そうですね、いやになっちゃいますよ。と返そうと、
「今泉の、」
「お久しぶりね、手嶋さん」
あのときの真っ赤な口紅がいた。
なんで、どうして、とうわ言のように呟く。ここは名まえも知らない公園で、もちろんあなたが狙って隣に腰かけられる場所ではない。なのに。
「なんで…?そんなことどうでもいいじゃない。ねぇ、あなた、俊輔にわたしと会ったことを言ったでしょう」
…そう、か。あの逢瀬すらも、この人にはゆるしてもらえないのか。最後に瞳の揺らぎで、愛してる、と伝えることすらゆるされないのか。ッ、そんなの、
「傲慢だ。おれだけが傷つけと言うんですか?」
「そうよ」
そうよ?信じられない。この女はなんて言った?そうよ?そうよ、と、
あなただけ傷ついて、どうか惨めで死になくなってね。わたしは無傷よ。だって、わたしはあの子の母親ですもの。
「手嶋さん、あなた、さっき砂場にいる男の子を見てらしたでしょう?かわいいわよね。でもね、じぶんの血が入った子どもは、もっともっとかわいいのよ」
わたしはね、じぶんの血が入った子どもを抱いた瞬間の、あの最上の幸せを、俊輔に感じさせたいだけ。それだけなの。
「だから、おれが、」
「そうよ、だから、あなたが、」
邪魔なの。だって、ひどいじゃない、そのためにわたしはあなたに土下座までしたのに、あなたは息子の人生から、消えてなくなるって、約束したわよね?
右脇腹に衝撃が走る。燃えるように熱い。ドッ、ドッ、ドッ、血が流れる音がする。触らなくてもわかる。ナイフだ。おれは、刺され、
(ここまでするか!)
ああ、母親の情念。見誤っていました。情念。その迸る凝縮された情熱を、本能を、なにもかも、おれは見誤っていました、ああ、母親の!
「お願いだから、お願いだから、消えてなくなって…ッ、」
頭を垂れて神に祈るようにナイフを突き刺す、細い手首だ。細い細い…、人を殺すにはあまりにも細い…。
そんな手首でも、子どものためならなんだってできるんだ、母親という生きものは。そうだ、人だって殺せる、愛しい子どものためなら。
勝てない、と思った。母親の情念は、きっとすべてを焼きつくせます。
「俊ちゃん、お母さんね、あなたに幸せになってほしいだけなのよ」
ナイフで男の腹を刺しているというのに、女の声音は慈愛に満ちていた。
(ああ、母親は、母親は、)
母親はみんな狂ってる。
−−−−−−−−−−−
『次のニュースです。千葉県の○○市の公園で、○○市の会社員、手嶋純太さんの刺殺体が発見されました。手嶋さんは、』
母が執拗に泊まっていけと言うものだから、まぁ、いいか、と思ってしまった。恋人との仲を裂かれたというのに、まぁ、いいか、と。
今ならわかる。血の繋がりからは逃れられない。母親の絡まる手からは逃れられない。子どもは一生、母親の腕の中だ。
「……てしま、じゅんた?」
風呂あがり、深夜に入る少し前のニュースで高らかに宣言された名まえは耳になじみすぎていた。それ以外は、すべて非現実だったけれど。
「手嶋、純太、しさつたい…?」
刺殺体?は、はっ、そんな、ばかなこと、なにを考えた?冷静になれ、手嶋なんて名字、純太なんて名まえ、そこらじゅうにある、そこらじゅうにいる、それが二つ組み合わさっただけだ千葉県だけでもそんなの何百人もいる何千人も何万人もそうだいるだからそうだ、この!テレビに映る手嶋純太が!あの!おれの隣から降りた手嶋純太なわけ、な、
「…卒業アルバムだ、」
テレビに映った写真は何回も見た、何回も、あの人は写真がきらいだったから、卒業アルバムくらいしか写真が残っていなかったから、あの人が想いを告げさせずに卒業してから一年間、何回も何回も、あの人の泣きそうな笑顔を忘れないように、おれは、そうだ、おれは、
刺殺体で発見された手嶋純太は、おれが愛する手嶋純太だ。
母親に引き裂かれ、命の糸を切られた、今でも、今でも、母親に…、母親に?
「ッ、母さん!」
ソファに座る母をふり返る。母はシルクの布に身を包み、芯から安らいでいた。きっと、人を殺したあとなのに、芯の芯から安らいでいた。
「もしかして、母さんが…?」
「なんのこと?それより、もう寝なさい。俊輔、あなた、ひどい顔よ」
手嶋さんの顔を指して問う。母は眉毛の一本も動かさずに微笑む。まるで日常のように。
人を殺したというのに、まるで日常のように。
(……勝てない、)
強烈にそう感じた。血の繋がりからは、絡まる手からは、腕の中の檻からは、本能、情念、母親と名のつくすべてのものに、おれは勝つことはできない。だれも勝つことはできない。できなかった。
(どうしてこの家で眠ろうと思えた?手嶋さんを唆しておれの人生から追い出したのは紛れもなくこの女なのに!)
まぁ、いいか、と思った、思ってしまった。思ってはいけなかったのに。思ってしまった。自然に、あたりまえのことかのように。
今ならわかる。おれは一生、囚われつづける。
「…そう、だな、おやすみ」
「ねぇ、俊ちゃん」
敗北に絶望し、ふらふらと母に従い、寝室に向かって足を伸ばす。と、母がおれの名を呼んだ。小さい頃の呼び名で。
「俊ちゃん、お母さんね、あなたに幸せになってほしいだけなのよ」
夜に溶けた母の声は今まで生きて聞いたなかで、一番、一番、やさしかった。
なにもかも、まぁ、いいか。と思えるほどには。