わたしは女の爪を切る



もし、ぼくが女の子だったとしたら、ぜったいに、こんなところで性を強要する男とは寝ない。

「はぁ、くっさ…、小鞠、おれ、先行っといてええ?」
「いいですよ。ぼく、一人で帰れますから」

女の子という生きものは知っている。母姉祖母叔母、そして、従姉妹の女子大生やらにきちんと耳うちされている。
ねぇ、あんた、便所でやろうなんていう男、最低だからやめときなさいよ。

(お母さん、そういうことはぼくにも教えてほしかったなぁ)

山口さん、あなたって人は最低です。こんな無垢なぼくを便所で剥き出しにするなんて。犯罪者!と罵倒されつつ、石を投げられてもしかたのないことをしてるんですよ。
でも、ぼくが男だからあなたは最低だと罵られません。よかったですね。感謝してください。ぼくが男でよかったですね、ほんとうに。
もし、ぼくが女の子だったなら、母から知恵を授かっていたなら、公衆便所でこんな男と寝なかった。ぼくが男だったから、だから、尻の穴がじんじん痛む。

(胸糞悪い)

山口さんの身体なんて触らなければよかった。触って、アラ、なんて思っても、無視して帰って眠ればよかった。そもそも、アラ、ってなんだ。そんなことを思ってるから、アラ、アラ、アララ、という間に公衆便所の壁に押しつけられたんだ。

ぼくって阿呆なんやろか。阿呆や、阿呆やなかったら、こんなこと、いつまでも、山口さんと寝てないやろ。

山口さんって最低ですね。たとえば、あなたが大人になって、ギャンブルだってやらないし酒もほどほど煙草も吸わない女は数回買っただけ、そんな大人になったとしても、山口さんって最低ですね。
彼女が言います。山口くん、あたし赤ちゃんできちゃった。あなたは咄嗟に返します。こめかみを引き攣らせて。

「困るわ、そんなん」

最低だ!その顔を想像してぼくは行為をやりすごす。この男は最低だ!そう念じてやりすごす。
便所でやるなんて爪を切らないなんて避妊具をつけないなんて前戯をしないなんて首を締めるなんて機械を腸に入れるなんて、終わってさっさと帰るなんて、そもそもぼくらはつきあってないなんて!

最低だ!山口さんは最低だ!

それに、たとえば、ぼくが山口さんに、すきです、そう告げたとして、山口さんは言うだろう。こめかみを引き攣らせて。

「困るわ、そんなん」

あーあ、最低、最っ低。のろのろと制服を整えながら考える。山口さんは最低だ。だから、ぼくは悪くない。だから、ぼくは悪くない。だから、ぼくは、

「遅い」

悪く、ない。

「や、山口さん、なんでいるんですか、先に行くって言ってたじゃないですか、いつもは先に帰るじゃないですか」

帰ったものだとばかり思っていた山口さんが自動販売機に寄りかかって立っていた、ぼくをまっていた。ジンジャーエールを飲みながら、ぼくのことをまっていた。

「そういう気分」

奢ったるわ、なにが飲みたいん?ポケットの中から小銭をちゃらちゃら出しながら、先輩面して山口さんが言う。ひーふーみーよー、あかん、五十円ないわ、上の段のやつ以外で頼む。
情けない。十円玉もたりないあなた。でも、そういうところが、そういうところがさぁ、

「…オレンジジュースでお願いします」

困るわ、そんなん。の顔をいくつもいくつも脳裏に浮かべておかないと、なにかを口走ってしまいそうで、ぼくはぐいとオレンジジュースを煽りました。

じとりと暑い、熱帯夜のことです。




−−−−−−−−−−−




なにもかも終わって、冬。山口さんは部活に顔を出すこともなく、第一志望に落ちたらしい。

「やつあたりしなくていいんですか?」
「やつあたりしてほしいんか?」

夜更けて、校門で山口さんに声をかける。こんな遅くまで勉強ですか、お疲れさまです。それを無視して山口さんは歩く。ぼくは追う、ひどいなぁ、せっかくまってたのに。山口さんは無視をする。
なので、ぼくは言ってみた。やつあたりしなくていいんですか?

「やつあたりしてほしいんか?」
「はい。連れこまなくていいんですか?」

すでにぼくらはあの公園の前。なんどもなんども貪られた公衆便所を指さし、問います。連れこまなくていいんですか?

「おれはもうおまえとは寝んよ」

…ちょっと話そか。そう言って、山口さんはギラギラ光る自動販売機の横にある花壇の縁に座った。花壇のパンジーは枯れている。萎れてまるでぼくらのようです。
はよ来い。山口さんが隣の土を払いながらぼくを呼ぶ。ええと、とぼくがとまどっていると、鞄から綺麗に畳まれたタオルをとり出して隣に敷いた。おまえ、潔癖やもんなぁ。これでええやろ、来い。

(潔癖だって?潔癖、潔癖、潔癖だったら、)

潔癖だったらあんたと便所でセックスしてない。
なんて言えるはずもなく、おとなしく山口さんの隣に座る。そういえば、この人とこんなに距離が近いのは、ずいぶんと久しい。そうそう、この人は睫毛が短く鼻が低く、声が掠れていい男である。
ああ、この人と、もう一回だけ、寝たいなぁ…。しみじみ思う。あと一回だけでいい。あと一回だけ、貪られてみたい。

「どうして部活に顔を出してくれないんです?」
「受験勉強」
「石垣さん、や他の先輩方は来られていたみたいですよ」
「去年は去年、今年は今年やろ」

ノブは現金やから引退したらもう知らんふりやし、おれはそないに部活に執着ないしなぁ、そんなもんやろ、そんなもんちゃう?
ぼそぼそ喋る山口さんの声が心地いい。そんなもんですかね。そんなもんやろ。石垣さんがおかしいだけや。ああ、あの人、ほんとに部活がすきなんですねぇ。

「小鞠、おまえ、阿呆やなぁ」

ぼくの言葉に山口さんが噴き出す。阿呆ってなんですか。ぼくはまるで子どものように口を尖らせる。あなたにだけは阿呆だなんて言われたくない。

「石垣さんが部活に来るのは御堂筋くんがおるからやで」
「見てみぃ、おまえが三年になって御堂筋くんがおらんようになったら、あの人、スーッと消えよるで」
「すぐや、すぐ。せやから、もう一年だけ、がまんしぃ」

ははは、と笑うあなたが憎い。山口さん、あなたはぼくがいるからと、部活に顔を出してくれない。あなたはぼくがいなくなったからと、スッと消えてもくれやしない。

(それどころか、もうぼくと寝ないと言い切りやがった)

お母さん、ぼくが男だからと手を抜かず、きちんと教えてほしかった。身体を貪るだけ貪って、心を汚く食い散らかして、そのまま掃除もしないで去る男がいることを。

「小鞠、おれ、コーンスープ飲むけど、おまえは?」
「奢ってくれるんです?」
「おお、先輩やからな。どれでもええぞ」

おもむろに、上の段でもいいですか。と訊くと、は?という顔をされた。この人は憶えていないのだ。あの熱帯夜を。ぼくの口内は今もオレンジ、だけど、この人ははじける生姜の味を、もう、

(ああ、やっぱり、ぼくばっかりだ…)

十円ぶんの情けなさなんて、すぐに埋めてしまうのだ、十八歳の高校生は。すぐに、今も、男の人になっていく。ぼくを捨てて、成長していく。
でも、あの十円ぶんの愛しい情けなさはたしかにあった。たしかに。

すぐや、すぐ。とあなたは笑いましたね。知ってますよ。いやというほど。この一年間、ほんとうに、あっという間でしたから。

冷たい緑茶は喉を凍らせた。それでもいい。このキンと響く痛みがいつまでも残るといい。いつまでも、いつまでも。

「阿呆やな、おまえ、この寒いのに」

あなたがいなくなっても、大人になっても、憶えてやるから。




−−−−−−−−−−−




はじめはただの憂さ晴らしでしたよ。

「…ッた、」

あなたがあまりに乱暴に、ぼくを公衆便所の壁に押しつけるので、ガリリと背中を引っ掻いたのです。なにも失わず、どこも傷つかず、涼しい顔して去っていく、そんなあなたが憎らしかったから。
そうです。ぼくばっかりって思ってました。今でも。ぼくばっかりって思っています。だから、そのとき、爪であなたの、山口さんの皮膚を削ったとき、ぼくは清々しかった。眉根をよせた顔を見て、ざまあみろ、と思った。

思った、あのしとり汗ばむ初夏に、はい、でも、翌朝の朝日輝く部室であなた、背中に走る爪痕を、瞳に映した瞬間からぼくは変わってしまったのです。

「両手を彩る2ミリの白にぼくは女を宿してしまった」

爪を伸ばすようになりました。ほんの少しだけ、爪を伸ばすようになりました。その爪で山口さんの身体に薄く、傷をつけるようになりました。その傷痕を翌朝見つめてわたしの爪は囁くのです。あの男に痕をつけたのはわたしよ。あの男はわたしのものよ。と。
なんてばかなんだ、と思うでしょう。ぼくもそう思います。山口さんは熱帯夜の生姜の味も憶えていない、もうすでに十円ぶん成長してしまって、ぼくを捨てて卒業する、最低な男で、最低な…、

「でも、」

そのつづきを口にしようとするといつも、山口さんの姿が浮かぶ、こめかみを引き攣らせた。

だから、ぼくはなにも言いません。今日という日もなにも言いません。今日であなたと会えなくなるとわかっていますが。

「卒業おめでとうございます」

あと、進学も。そう言ってぼくは微笑んだ。山口さんは、おう、と小さく証書の入った筒を掲げる。胸には造花が鎮座して、桜の花は四分咲きです。
どうなるかと思ったけど、あんがいどうにかなるもんやなぁ。どうにかならないと思いましたよ、だいぶ疲れてましたから。いつの話?公園で話した日ですよ。ああ、そんなん、あったなぁ。

遠い目したあなたに言いたい。もう過去の話ですか。ぼくは今でもありありと緑茶の冷たさを思い出せますけど。

(しかたないとわかってるんだ。この人の、こういうところが、こういうところに、)

あ、泣きそう。だめ、お願い、耐えて。この人を困らせたくない。

「小鞠、もうええ?おれ、まだ挨拶したい人おんねん」
「あっ、ああ、すみません」
「部活がんばれよ」
「はい、卒業おめでとうございます」
「おう、…あんな、小鞠、」

ありがとう。

最後の最後に告げたくなった。あの人のこめかみを引き攣らせたくなってしまった。だって、狡い。今までずっとぼくばっかりで、すっかりなかったことにして、このまま心を散らかしたまま、ぼくの中から去っていくのに。
最後の最後にありがとう。その一言にすべてをこめて、ぼくを傷つけ、その痕を一瞥もせずに、ぼくの中から去っていくのか。

ああ、ほんとうに、山口さんって最低ですね。でも、ぼくは、山口さんの、そんなところが、たまらなくすきでした。

家に帰ったら爪を切ろう。女を宿した爪を切ろう。ぼくの女は負けました。惚れた弱みね、勝てやしないわ。身体に薄く残した痕がなんになるっていうんだろう。ぼくの心に風穴開けて、それを見つめることもしない、そんな男にぼくの女は負けたのです。勝ったつもりになっていた。負けつづけていただけなのに。

「そして、ぼくはきっと永劫、あなたの敗者のままなんでしょうね」




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あらゆるものにあなたを刻んでしまいましたから。

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